坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

積水ハウス在日社員本名裁判

2008年03月22日 | 坊主の家計簿
 3月22日

 外食  イカ天蕎麦       326円
     かけうどん       220円
     ラーメン        590円
     近鉄          290円
     近鉄          250円
     JR           290円
     タクシー       1620円
     交流会費       3000円
     エビオス       1480円
     ファイバーブラン2   516円

 合計             8582円
 3月累計          84627円

 皆さん御存知でしょうか?花粉は『ほこり』なのです。ですから別に花粉症でなくとも、線香の煙やら、タバコの煙やら、大気汚染やらを吸い込んでいる私には辛くて辛くて。。。まあ、毎年の事なのだが、今年は他でも体調を崩しているし、クソしんどい。
 なんだが、これがガソリン(酒)をブチ込むと楽になる、つまり『酔っぱらってしまう』からなのだが、酔っぱらってしまうと感覚が麻痺してしまって「よっしゃ!」になるから大変なのだ。。。

 と、云う事で今日は『積水ハウス在日社員本名裁判』の打ち上げ(?)
 集会中はクソしんどかったのだが、後の飲み会でガソリンをブチ込むと元気が出て来て、結局JRの終電。途中からタクシーで帰宅。

 私自身は差別心の塊であり、偏見の塊でしかないと思い知らされた事があった。
 つまり私は決して『彼岸(煩悩なき世界)』に生きているのではなく、煩悩を抱えた世界に生きている。
 煩悩を抱えているのは他人事ではなく、差別心・偏見を抱えたのも他人事ではない。
 ただ、私は人権に関する教育を受けているが故に器用に差別心を表面に出さずに済んでいるだけの話である。つまり、上記裁判の話では、私はたまたま差別発言をしなかっただけの話である。

 差別発言や、差別に関する行動なんどは、『その差別』に対する知識と教育だけの話だと思う。
 ある特定の差別問題に関しては教育を受けているが故に問題発言・行動をしなくとも、他の問題に関しては差別発言・行動をとられる方々は多くいる。
 当たり前だ。完全無欠なわけがないし。
 だから、問題になってくるのは、それが差別(煩悩)であると云う事を指摘された時にどういう反応をとるか?だけだと思う。
 
 差別心は誰にでもあり、偏見だって誰もが皆持っていると思う。決して特別な事ではない。ただ、教育等によって『器用』であるかどうかだけの問題だろう。
 だから、「それは差別であり、偏見である」と指摘された時に、差別心の塊であり、偏見の塊である自分自身に還るかどうかだけの話だと思う。
 決して特別な事じゃないのだ。特別な人が差別・偏見をするのではなく、誰もがする行為なのだ。
 だから、自分に、ありのままの自分に還ればイイ。差別心の塊であり、偏見の塊である自分自身に還ればエエだけの話である。

 『積水ハウス在日社員本名裁判』の被告は私と同じ日本人である。具体的にいうのなら、きっと私と同じ仏教徒ではないかと考えられる。檀家制度があったわけだし。ひょっとすると同じ真宗門徒かもしれない。
 だが、被告は差別心・偏見を抱えた『煩悩具足の凡夫』に還る事が出来なかった。出来たのならば、今回の裁判はなかった。差別発言はしたかも知れないし、私だって他の事では差別発言や偏見等を多くしているに違いないのだが、ただ問題になっていないだけの話なのだが、裁判の被告は問題にしてくれる人が居て、つまり「あなたは煩悩具足の凡夫ではないのか?」と指摘して呉れる『他者』の存在が居た。被告は、それを受け入れる事が出来なかった。
 檀家制度が過去にあり、現在も生きていて、きっと被告もこの御彼岸に墓参りに行かれたのかも知れない。

 私は僧侶であり、仏教徒である。故に、改めて「ここは彼岸ではない」と言いたい。
 この世は決して彼岸ではなく、差別心と偏見の塊の娑婆世間でしかない。だから、他者から「それは差別であり、偏見である」とは、あくまでも自分自身に還るだけの話でしかなく、決して特別な事ではなく、ある意味非常に『自分自身に還る事が出来た恵まれた機会であった』ぐらいなものなのである、と言いたい。
 そして、そういうムードや、環境を作り出すのは私(達)の日常生活そのものであり、かつ、僧侶であり、仏教者が行動し、表現するのは、決して『差別する事=特別な存在』ということではなく、『差別する事=それが人間だ』みたいなムードである。
 当然、それは問題である。差別(煩悩)は、あくまでも差別(煩悩)でしかなく、故に『彼岸』がある。煩悩なき世界がある。
 誰しもが問題を抱えて生きているのであって、決して差別発言・行動をした人だけが特別な存在ではない。

 時代社会や、それぞれの生活文化の中で『当たり前』になっている差別心や偏見を問うのは他者であり、だからといって当然、問うた他者が差別心や偏見がないわけでもない。誰しもが抱えているが故に問題なのだ。
 時代社会や、それぞれの生活文化の清純や、正義、常識等がそれを一番誤摩化す。自分自身に還る事を一番誤摩化す。

 行動する仏教徒。一番大切な事は日々の生活での表現ではないのか?
 なにか特別な問題に関わる事だけでもなく、日々の生活での表現ではないのか?
 今日、御参りしてて、頭が下がった言葉があった。
 ある御参り先のオバちゃんが、私が昨日の彼岸法要で喋った事に対して、「迷いが多い私ですから、御話を聞かせて頂いてありがとうございます」みたいな事を云われてビックリして頭が下がった。もの凄い念仏者だな、と、頭が下がった。勝負でいうのなら完全に私の負けである。まあ、別に勝負の話ではないのだが、私の煩悩がどうしても勝ち負けにこだわってしまうから、書いてしまうのだが、「あっちゃ!」である。
 こういうオバちゃんが居てるのを『土徳』というのだろうし。そういう『土徳』、つまり「私は迷っている人間です」という、そういうムード、世間のムード、世間の中で、世間を生きているが故に「私は迷っている」という事を表現でき、そういう事を感じ、思っている人がいるのは、もの凄い事だと思う。
 ここは彼岸でなく、娑婆世間である。
 煩悩まみれの世間である。煩悩まみれの世間の中で「私は迷っています」という自覚は彼岸から出て来た言葉である。
 
 だから、改めて言いたい。差別心や偏見等は誰にでもある。
 問題多き、差別・偏見の塊が私(達)である。
 それを認める事が出来るかどうかが、『人間』を解放する運動、自分自身に還る運動が解放運動である。
 と、運動家ではなく、仏教徒の名告りをあげた私は思う。

 『さるべき業縁』が来れば、当然、私だって差別発言はする。
 当たり前である。私は差別心と偏見の塊でしかない。ただ、器用なだけ、世渡り上手なだけの話で、問題にならなかっただけの話でしかあり得ない。

 差別を、偏見を『当たり前』にするが故に、差別・偏見で苦しむ人が居る。
 煩悩は、煩悩なのだ。
 煩悩が煩悩である事を見出す、差別・偏見が、差別・偏見でしかない事を見出す、差別心(煩悩)は無くならなくとも、それが『差別・偏見』である事、問題に、課題にする事は出来る。つまり、罪悪深重・煩悩具足の凡夫である事を見出す事、自分自身に還る事、還れる事。それって無茶苦茶大切。それが差別問題。自分自信に還る事。
 『優れた』『純粋』『真面目』『正義』という人間が作り出した幻想とは逆の道。
 事実に還る道。

 在日コリアンには在日コリアンとしての事実があり、本名もある。
 被差別の人達は被差別出身者という事実がある。
 女性は、女性という事実。
 等々。
 
 煩悩具足の凡夫というのは事実の名告り。
 ただ、煩悩がそれを妨げる。妨げている事に気づけば、事実に還る事が出来る。

 と、深夜に酔っぱらって帰宅して何を書いているのやら。。。まあ、明日は明日に感じた事があるし、明日は明日に書きたい事も出てくるやろうし、よって書きなぐっているのだが、あら大変。もう、無茶苦茶深夜(笑)
 こんな生活してるから、体調が優れへんで当たり前やな(笑)
 まあ、死ぬまでは生きてますんでよろしくお願いします。