坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

坊主BAR閉店

2008年03月04日 | 坊主の家計簿
 3月5日

 食類  揚げボール       88円
     豆腐          69円
     焼き飯        138円
     キムチ2        98円

 合計             393円
 3月累計          6736円

 仕事が終わって公文筆ペンテキストの残りをやって公文へ。
 今日は休みだったのね。。。明日だったのね。。。残り1枚だけだったんやけど、最近の課題は大変なのだ。。。

 しゃて、坊主BAR(VOWS BAR)閉店である。一応3月28日までらしい。但し、その間も毎日開いてるのかどうか知らん。
 一昨年の年末にも閉店するか移転するのかの話があり、また、昨年末にも閉店の話があり、で、今回は本決まりらしい。まあ、責任感&人情クソ暑い代表が無理してしばらく頑張ったのだろう。
 やり始めたのが24歳だったはずだから、15年か。よう続いたもんや。ダイスケ、サンクス!
 
 ハ!実名出してもうたやんけ(笑)
 坊主BARは当初ダイスケと2人で始めた。お水は2年のブランクがあったので1人でやる自信がなかったのだ。ダイスケが当時バイトしている店に行って直接引き抜いたわけやね。
 ダイスケは器用やし、某劇団の裏方(役者もやってたが)やし、人脈も凄いし。だから、坊主BARが開店出来たのは、ほぼダイスケの御陰なのだ。
 店は開店当初から軌道に乗った。私が以前にやっていた店(聖カミソリ)のお客さんも来て呉れたし、ダイスケ目当てのお客さんも沢山来て呉れたし。笑い話みたいな事なのだが、当然、最初は『坊主BAR』といっても「なんやそれ?」だったので、坊主が居てる時間は坊主(業界用語で客ゼロ)でも、深夜のダイスケタイムになると客が満杯とか。それでも、坊主には『御布施』を払う契約だったので毎月結構な金額が売り上げから消えて行く。まあ、正直『坊主BAR』でなかった方が儲かっていたのだが(笑)2人で『余里径倶楽部』という名前でやってた方が、坊主経費がかからんだけ純利益があったから絶対に儲けれたで(笑)

 坊主BARは最初に『Lマガジン』に紹介して貰った。これもダイスケのコネ。ダイスケの友人のライターにお店紹介をして貰って、『Lマガジン』に掲載。
 それを読んだらしい朝日新聞の記者が朝日新聞に紹介。こっちは『お店紹介』ではない。朝日新聞が飲み屋の紹介なんぞ多分せえへんと思うし。夕刊でなく朝刊やったし。
 当時私は店の2階に寝泊まりしてたのだが、朝から電話が煩い。取っても取っても次から次へと取材申し込みの電話があって、最終的には電話のコードを外したくらいに。こっちは朝まで飲んで夜から働いてるねんぞ。朝って、こっちにとったら深夜や、っちゅうねん。
 坊主BARの代表は私の現所属寺の住職(当時は副住職)。寺の方にも電話がジャンジャン鳴って大変だったらしい。

 ダイスケは諸々の理由で途中で抜けるが、御陰で前からのお客さんと、坊主BARになってからのお客さんとで店は順調にまわる。私は2年で辞めたが。まあ、出戻りで後2年間だけやったが。私にとっての青春の一場面であった坊主BARは終了。

 今でもよく憶えているのだが、これは所属寺、つまり坊主BARの代表の寺にお菓子と一緒に手紙が送られて来た。古くからの門徒さん、何処かの門徒さんらしい。
 「よくぞ作って呉れました」
 と。その言葉って大切。

 作った当初から云ってるのだが、坊主BARは寺に戻るべき。寺の敷居が高くなければ坊主BARなんぞ出来なかった。敷居が高いからこそ、坊主BARが出来た。これはこれからの私の課題。

 今の専修学院院長はやたらと竹中先生の『無三宝処への往生』を読め!と云う。
 真宗同朋会運動は旧来の門徒組織の固定だけではなかったと思う。それだけなら釈尊の梵天勧請などあり得ない。初転法輪などあり得ない。法輪は廻り続けるが故に『法輪』である。
 そういう意味合いでは『坊主BAR』は同朋会運動、仏教の一側面でもあった。