坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

ハルコ

2006年03月12日 | 坊主の家計簿
 3月12日

 雑費    缶ミルクティー    120円
       タバコ        300円
 外食    ラーメン       399円
 酒     白ワイン       268円
       発泡酒        149円
 レンタル  村の写真集      290円
       ハルコ        250円

 合計     1776円
 3月累計  35463円

 明日は休みなのだが、病み上がり(?)やし、休養。んが、仕事が忙しかったし、勉強する気にも成れんのでレンタル屋へ。
 『白い巨塔』の観てない分を借りに行こうと思ったら、まだ返却してやがらない。。。っちゅうか、誰かが借りやがった。。。借りてる人間は『白い巨塔』の手術シーンで体の中を一緒に切られろ。
 「クソッタレが!金で解決したらエエねんやろ!」と高い方(?)のレンタル屋に行く。クソ、ツタヤでもあかんか。われ、なめとるんか?ここを何処やと思っとるねん?関空の土砂に混じりたいんか?
 まあ、しゃーないので他を探す。
 『村の写真集』と云う地味気な映画があった。原田知世も出ているのでゲット。
 『ハルコ』があった。前から観たかったのだが、上映会を待つか、ネットのレンタルで借りるかしか方法がないと思っていたので、即ゲット。
 で、『ハルコ』だけをまず観た。
 在日一世のお婆ちゃんの話。まあ、大阪なら何処にでも居るお婆ちゃんの話。

 私が管理人をしている『聖カミソリ新聞』とは、『聖カミソリ』(ちなみに『聖』は『せい』でなく『セイント』と読みましょう)という21の頃にやっていたミナミ千日前の飲み屋の名前だ。
 何?「21で飲み屋をやるって、お前の実家は金持ちなのか?」ですって?ちが~う。契約内容が破格だったのと、広さが一坪半、つまり畳で云うと3畳分の広さしかないのだ。
 契約内容は、確か保証金が30万(20万だったか?)で、家賃が3万。これならワンルームマンションを借りるよりも安い。
 まあ、まだバブルの余韻が残っている1990年に、大阪ミナミ千日前の『一階!!!』にしては破格なんだが、破格なのには理由があって、この物件は在日のオバはんの想い出の店なのだ。
 その店をやる前に私は大阪市内某所の解同幹部の店で働いて居た。そこには解同幹部のオーナーの友人知人の沢山の『変』な方々が来られていた。その中に総連の運動家が居て、その人が持って来た話だった。なにやら、その総連運動家の友人のオバちゃんが『育てられた』想い出の場所がミナミにあると。で、そこはそのオバちゃんにとっては子どもの頃からお母さんが店をやりながら育てて呉れた大切な想い出の場所であると。ちなみに店には2畳程の広さの2階があって、そこでお母さんと一緒に住みながら育てて貰った大切な想い出の場所であると。で、そういう場所だからずっと場所を守り抜く為に家賃を払い続けて来たが、諸々の事情で家賃を払い続ける事が困難に成って来たので、誰か借りて呉れる人が居たら借りて欲しい、と。
 まあ、『想い出の場所』なので、そのオバちゃんも自由に出入り出来る様にしたい、とか諸々の条件があって、不動産屋を通じて貸すよりも知人関係で貸したかったらしい。
 で、私の登場。ちょうど諸々の事情でその店を辞める事にしてたので、「じゃあ、エロ坊主君、やってみるか?」と。
 
 店をやり始めて、私も2階に住む様に成った。ほぼ日当たりゼロ。一人でも狭苦しい。当たり前だ、2畳なんだし。一階の店部分も3畳と云っているが、もう少し狭い印象がある。しかも、カウンターや、椅子、バックカウンター等を入れると狭い、狭い。「よくこんな所で商売をやりながら女手一つで子どもを育てたものだ。」と、ちょっと感動。
 が、私にも生きて行く為に商売をしなくてはならないので、そのオバちゃんの大切な想い出の場所を落書きだらけの治安の悪いタマにボッタくれそうな人からはキチンとボッタくる店に変更。オバちゃんショックやったやろな。。。でも、オバちゃん、俺も生きていかなあかんわけであってやな、オバちゃんの想い出に付き合ってるヒマはないねん。と、鬼畜の私。

 『ハルコ』と云う映画のハルコと云う日本名のオモニ。逮捕歴37回。日本に来て、夫は働かず、かつ家に居ない。子ども達を養う為に非合法であっても働き続ける。働き続けなければ自分も子ども達も生きて行けない。

 ハルコのオモニは地獄に堕ちるのか?
 誰が地獄に突き落とす権利を、特権を持って居るのだ?


 【このような理由で知ることができる。念仏は容易であるから、どんな人にでもできるが、ほかの行為は行なうのに困難であるから、あらゆる人の能力に応ずることができない。それであるから、一切の生きとし生けるものを平等に往生させようとするためには、困難なものを捨て、容易な行為を取って、仏の本願とされたのであろうか。もしも、堂塔を建立し、仏像を造ることによって本願とされると、貧しく賤しい者たちは往生する望みが完全に絶たれたことになる。しかも裕福な者は少ないのに、貧しく賤しい人は非常に多い。もしも、智慧や才覚のすぐれた者をもって、本願の対象とされるならば、愚かな智慧のない者は往生する望みを完全に絶たれたことになる。しかも、智慧ある者は少なく、愚かな者は非常に多い。もしも、よく見、聞いて学問をしている者をもって、本願の対象とされるならば、わずかしか見聞きしないで、学問をあまりしていない者たちは、往生する望みが完全に絶たれたことになる。しかも、よく聞いて学問している人は少なく、学問のない者は非常に多い。もしも、戒律を堅持している者をもって本願の対象とされるならば、破壊や無戒の人は往生する望みが完全に絶たれたことになる。しかも、持戒の者は少なく、破戒の者は非常に多い。それ以外の行為をする者もこれに準じて理解することができよう。当然これで理解できたのであるが、以上の多くの行為をもって、本願とされるならば、往生できる者は少なく、往生しない者は多いであろう。】(法然 選択本願念仏集3より。但し現代語訳引用は、中公バックス『日本の名著 法然』より)