坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

生起するものはすべて滅するものである(律蔵・大品より)

2006年03月17日 | 坊主の家計簿
 3月17日

 雑費   缶コーヒー    120円
 食類   中華麺2玉     50円
      発泡酒      145円
      菜の花      198円
      豚バラ      380円
      鳥モモ肉     370円
 
 合計      1263円
 3月累計   53050円

 多分、私の坊主歴初めての一日3回枕経。ちなみに今居ている寺は別に葬儀業者と業務提携をしているわけではない。まあ、私みたいな役僧を雇える規模の寺だから、デカイと云えばデカイのだろうが。。。
 朝行って、枕経の予定が書いてあって、よく知った名前。入院中だったオーバー100のお婆ちゃん。「まあ、ここまで生きれてんから、今年の桜くらい観てからでもよかったんちゃうん?」とか思いつつ、一日の予定を考えて居たら、坊守さんより別の門徒さんが亡くなったとの事。え?っと思いつつも、最初のお婆ちゃんの枕経に行って、いったん寺に位牌等を置きに戻ると、また別の門徒さんが亡くなったとの事。
 さすがに、一日3件も枕経に行くと気分が滅入る。が、住職が体調不良で寝込んでいるので、気分を滅入らしている場合でもないので気合い、気合い、と、メシを喰う。
 今日は、中華麺を2玉使った豚バラと菜の花の焼そば。買って来た分を全部使って喰ったので栄養満点やな。

 この間に作って放って置いた『赤カブの酢漬け』は失敗。やはり米酢で作った事が最大の敗因である。何時もはレモンで作るのだが、レモンがなかったし。。。で、しゃーないので昨夜から水に浸けておいて塩抜き&酢抜き。で、この間買ったカットトマトの缶詰と、残って居た椎茸と、今日買って来た鶏肉で煮込む。まあ、パスタソースにするなり、スープとして飲むなり、適当にしよ。

 一日に門徒さんが3人も同時に亡くなると、何か意味を見出したくなる。が、当然意味はない。私の意味付けで人が、それぞれの中で生きてこられた人が亡くなった事、その人にとってはたった一度の生を終え、死を迎えられた事を、私の意味付けで判断を下してしまう事は亡くなった方に対する冒涜である。
 また、3人が亡くなられる事は、『私にとって珍しい』事であって、所詮『私』からの視点でしかない。私の価値判断でしかない。それを何か特別な理由でもって、『私』にとって意味付けをしようとする事は、ただ単なる『私と云う世界存在』から、『私と云う自我関心』に引き蘢る事でしかない。

 そういう事は往々にして、世の中に偏在している。
 『前生が悪かった』等とは、その最たるものではないのだろうか?或いは『先祖供養が足りなかった』『信心が足りない』等々。
 何か一つの意味付けをして『楽』に成りたい気持ちもよく解るが、その対象にされた人はたまったものではない。


 (1)”自分は仏となることはできない”というように自らを侮慢する過失によって劣弱心を有している人々に対して、菩提への勇猛心を発起せしめるため、
 (2)”自分は仏となれるが、他の人は仏になれない”というように慢思して劣れる人々を軽蔑する想いを断って、他の人々に対して師に対するが如きの尊重を生ぜしめるため、
 (3)有情の過失が本来的に空であるのにそのことを知らずにそれに執着することを断って、空の真実に対する正しい智慧を生ぜしめるため、
 (4)一切法が縁起であり本来的に清浄なる空であるという真実を知ることなく、それを虚無の如くに理解することを断って、本来清浄なる智を生ぜしめるため、
 (5)自分に対する強い愛着のために断つべきを断たず空性を虚無の如くに理解することを断って、自他平等性を見る大慈悲心を生ぜしめるため
     (小川一乗『仏性思想』P67より)


 【入園者たちは『人間回復の橋』と呼びました。その橋を渡って玉光さんは訪れ、こう言われたそうです。
 「人間回復というのは、あなたがたの人間を回復することだけではありません。皆さんが本当に人間回復されないと、そこへ閉じ込めた側の人間もじつは回復されないのです。」
 そのとき、叔父にひためいたものがあったそうです。
 「世を捨てた私を、外の世界の人はかかわりのないものと思っていると思っていたが、それがじつはそうではなくて、私という人間がここにいるということは、私だけの問題ではなくて、私にかかわりのある多くの人々の問題でもあったのだ。」
 と気がついたのでした。】(中村薫『いのちを差別するもの』P11より。但しブログの都合上、段落で表現すべき事を「」に変更)