坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

個人

2006年03月29日 | 坊主の家計簿
 3月29日
 
 雑費    缶コーヒー   120円
 食類    たまご     180円

 合計       300円
 3月累計   86348円

 さすがに疲れたので、今日はサボリ。
 仕事が終わって、たっぷり寝て、宅配便で付いたプレステのゲームをしながらボンヤリ遊ぶ。
 ので、ボンヤリしてます。

 昨日、キヨスクで『朝日新聞社長 逮捕』とか云う見出しに惹かれる。なんの事はない、朝日新聞の社長の息子がドラッグで捕まったらしい。
 当然未成年ではなかったはずである。しかし『朝日新聞の社長の息子』である。
 頭が悪い話だ。

 例の『武部幹事長の長男』の話を思い出す。例え長男に入金していたとしても別人格である。名前は知らないので『長男』と記すが、『長男』は武部幹事長とは別人格である。長男を経由して武部幹事長に入金されていたのならともかく、別人格である。
 当然『朝日新聞の社長』と、その息子も別人格である。別人格にも関わらず平気でマスコミで騒ぎ立てる『頭の悪さ』は腹立たしい。

 我々日本国民は天皇の赤子ではない。天皇家は本家でもないし、本家だとしても別人格である。天皇家が、『分家』であるホームレス支援を行ったと云う話は聞いた事がない。
 寺社会には変わらず身分制度の名残りが残っている。それは『寺の坊守(住職の配偶者)』『寺の婿養子』に変わらず『寺族』と云う旧身分出身者が多い事からもあきらかである。

 また、『住職』とその家族とは別人格である。住職の配偶者並びに息子だからといって仏教に詳しいわけでもなんでもない。寺と云う場に居てるが故に、或いは住職と云う僧侶が家族に対して仏教教育をしていたならともかく、ただ単に『配偶者』『子ども』と云うだけで仏教に詳しくなれるはずがない。そんなもんは釈尊の時代の

 【生まれによって<バラモン>となるのではない。生まれによって<バラモンならざる者>となるものでもない。行為によって<バラモン>なのである。行為によって<バラモンならざる者>なのである。】
 
 でもあきらかな事だ。

 んが、そういう『武部幹事長の長男に入金』『朝日新聞の社長の息子逮捕』『寺族』と云う幻覚が多過ぎる。
 幻覚とは何もドラックを使わなくても観ているものである。

 姉歯氏の配偶者が自殺したらしい。病弱だった事などや、人が自殺する経緯など誰にも解らないのだが。。。
 しかし、今朝起きて一番始めのニュースがそのニュースだった事もありブルーだ。
 姉歯氏と、その配偶者は『別人格』である。仮に自殺した配偶者が、証人喚問(?)等で姉歯氏が「妻が病弱だったので。。。」と語ろうとも耐震偽装の問題で必要以上に責任を感じる必要はない。別人格であるからだ。耐震偽装の問題は姉歯氏の問題であってそこまで責任を感じる必要はない。

 少し、個人と云う事が忘却されつつある感を受ける。『個人主義』は評判が悪い。
 個人主義とは決して一人よがりではないはずである。個人としての自覚の中で、「私をとりまく社会」は当然必要不可欠な存在であるが、個人よりも先に『社会』が来ていいわけがない。社会の中に埋没する個人は『死人』である。
 まずは、個々の存在として『今此処に生きている私』と云う絶対的な事実の存在があり、そして関係存在がある。先に関係存在を持って来るのは自己の忘却である。
 
 仏教ならば、仏教に帰依するのは誰でもなく『私』である。その私を抜きにした『仏教』なんぞ『お話』にしか過ぎない。
 たまたま寺の配偶者であった『と云う機縁でもって私は仏教を学び始めた』
 たまたま寺で産まれた『と云う機縁でもって私は仏教を学び始めた』
 たまたま好きになった女の子が寺の娘だった『と云う機縁でもって私は仏教を学び始めた』
 たまたま友達に僧侶が居て関心があったので『と云う機縁でもって私は仏教を学び始めた』
 たまたま実家が仏教を信仰していて『と云う機縁でもって私は仏教を学び始めた』
 たまたま仏教系の大学に入学して『と云う機縁でもって私は仏教を学び始めた』
 たまたま生きてる中で様々な問題に出会って仏教に関心を持ち始めた『と云う機縁でもって私は仏教を学び始めた』
 にしても『私』である。
 『私』がないのは『お話』である。

 個人、『私』が忘却されて居る。
 煩悩を観たくない、綺麗な私で居たい。と云う保守。と云う幻覚。

 「私の家系は尊い血筋だ」
 「私の親は偉い人だ」
 「私の親は犯罪者だ」
 「私の配偶者は偉い人だ」
 「私の配偶者は犯罪者だ」
 「私の息子は犯罪者だ」
 すべて幻覚。個人がない。幽霊みたいなものである。

 国家の為に闘うと云う。
 国家の為に闘うのなら、国家の為に闘えない人達を隔離する事は何の理屈にもなっていない。それは国家エゴの証明ではないのか?国家の為に闘おうとしようとしない人達を『非国民』とするのは、国家エゴの証明ではないのか?

 私はボランティア活動が好きである。しかし、ボランティア活動を「しようとしない人達」を「冷たい人」「共に生きようとしない人」等と言い放つ事を避ける。云いたくなる自分を徹底批判する。

 個人的には阪神大震災以降、『個人』が忘れられようとしている動きを感じる。
 ボランティアで云うのなら、ボランティア活動をしようとしない人達に対して「共に生きようとしない」と言い放つ。
 あるいは、ボランティア活動をする人達に対して「偽善者だ」「聖道の慈悲だ」と。
 共に『個人』の忘却でないのか?

 縁起・無我と云っても『我』がない『無我』なら『お話』である。