坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

葬式仏教

2006年03月01日 | 坊主の家計簿
 3月1日

 外食   かき揚げそば    326円
 食類   発泡酒       149円
      えのき        48円
      国産豚       279円
      うどん玉       18円
 雑費   タバコ       300円
      缶コーヒー     120円

 合計     1240円
 3月累計   1240円

 昨日帰りの電車で読む為に買った小杉哲平『お葬式 ハプニング編』を読む。昨日お疲れモードで夕方から外出して、今日は仕事が忙しかったし、しかも雨だったので疲れまくってやる気ゼロ。
 一応将来の夢っちゅうか目標は『葬式坊主』である。よく葬式仏教とか葬式坊主とか批判されるが、あれは『葬式仏教』をちゃんとやっていないからである。ちなみに「坊主が葬式にかまけてどうするのだ?」と云う非現実的なレベルの低い話は問題外。顔を洗って出直して来なさい。
 昨日行った飲み屋のマスターのお父さんが亡くなったらしく、『マスター不在の閉店の日」と云うわけの解らん日だったのだが、まあ、葬式だったのなら仕方がない。
 と云う風に葬式は(ほぼ)必ず執り行われるものである。それが仏式であろうが無宗教の形式であろうが。で、現状では殆どが仏式である。

 寺で働いて居て云うのもなんだが、『寺』を維持する為には膨大な金が居る。なんせ殆どの寺は一般家庭の家よりもデカイ。内装(?)にも金がかかる。で、そういう『寺』と云う場を維持する為に膨大な金をかけていながらも寺を利用する事は余りなかったりする。週に一度利用すればかなり熱心な方ではないのか?と感じる。そういう『無駄』も大事だと思う。そういう『無駄』がある事によって、突発的な事に対処出来たりすると云う事実があるからである。寺を毎日毎日活用してたら突発的な事に対処出来ないし、また住職が忙しければ、突発的な悩み苦しみに対応出来ない。そういう『無駄』はよって評価する。
 が、それは『寺』をある種の信仰対象として成り立って居るが故なんだろうが、結構危なかったりもする。
 個人的な事で云えば、私の実家も大谷派の門徒であるが、実家に対して実家のお手次寺から寄付の要請があった場合に私は拒否をする。普段の付き合いがない現状で困った時だけ「金を呉れ」と云うのは違う。寺は寺と云う場を大事にする人が大切にすればイイだけの話であって、よって私にとって大切な寺は実家のお手次寺では決してない。私が所属している寺であり、働いて居る寺であり、遊びに行く寺である。
 また、現在は交通機関も発達している。つまり『徒歩』時代ではない。自転車・車・電車等で簡単に遠くの寺にでも行ける。それは新興教団をみればあきらかである。わざわざ電車で数時間もかけて信仰する教えを求めに行く、その人に会いに行く。基本はそういうものだ。極端な話で云うならば都市部なら一つの市で一つの寺があれば十分ではないのか?高額な伽藍を維持して行く経済的基盤を『押し付ける』のはよくない。
 数十年前に一度焼けたある寺の当時の住職は、寺が焼けた時に寺の再建をせずに「売り払う」と云ったらしい。門徒を試したのだ。「本当に寺が必要なのか?」と。そのせいかその寺の組織は非常にしっかりしている。非常に多くの人達がその寺を「我が寺」として支えようとしている。

 大谷派では「今後20年で半分以上の寺は潰れるであろう」とささやかれている。本願寺派でもそうらしい。
 この人は確か本願寺派の住職だったと思うのだが、某地方のバカデカイ寺の住職さんである。が、村自体が過疎化して門徒が数件(数十件ではない。数件)しか居ない。が、バカデカイ寺を維持する為に、改修費・維持費を捻出する為に都会に出て来て日当1万円でバイトをしている。こういう見事な住職さんも居られる。
 が、私は住職ではない。寺族でもない。実家が寺でもなく、将来住職になる道もほぼ無いだろう。それはマイナスでもあるが、『寺』と云う場が無いのはメリットでもある。規制の『寺』と云う『場』に縛られなくてもいいからである。それ故に新しい『場』を作りだして行ける。

 という事で、働いて居る寺、所属している寺に協力しながら色々と模索している。