坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

プレステ&コショウの一大事

2006年03月19日 | 坊主の家計簿
 3月19日

 雑費   缶コーヒー     100円
      エスカップ12本  648円

 合計      748円
 3月累計  55763円

 おつかれ~っす。
 と、ワイン飲んで早く寝よ。

 仕事中に30分程中途半端な時間が出来た。次に行く所は、すぐ近くだったので動くのも面倒だ。ので、近所にあったブックオフに避難。寒いし。
 例の『PSE法』と云う悪法のせいなのか、プレステが550円で売って居た。で、ここから2割引なので440円か。。。悩む。。。
 ちなみに『PSE法』は何処かのリサイクル業者が覚悟を決めて4月からも電化製品を売るべきだな。で、摘発されたら裁判で最高裁まで闘えば良い。支援カンパぐらいなら多少はする。恐らく最低でも1000万人ぐらいは『悪法』だと思って居るはずなので、一人当たり10円でも1億だ。気合い入れて闘え。支援はする。どぶろくを公然と作って居るおっさんを見習え。

 話がそれた。プレステが440円だ。440円は今月はあまりお金を使っていないので買える。っちゅうか、飲みに行った帰りの天下一品こってりラーメンを辞めてだな、ん?天下一品は辞められへんから。。。っちゅうか、440円ぐらいなんとかなるわい。
 で、これに『実況パワフルプロ野球』の古いソフトが680円で売って居たので、合計1120円で我が家にゲームがやって来る。
 Macはゲームが圧倒的に少ないし、やりたいゲームがない。
 しかし、これは安全なのだ。私はゲーム大好きっ子であって、『子』やないから、『ゲーム大好き中年』か、まあ、なんでもええわ、とりあえずゲームが好きで前にウインを持って居る時など大変だったのだ。ウインから足を洗ったと云う事はゲームからも足を洗ったのだが。。。
 最近、ミクシィでネットで知り合った旧知の人と再会した。信長の野望のオンライン版にハマっているらしく、無茶苦茶気に成るのだが、信長の野望は私にとっては禁物であって、平気で一ヶ月ぐらい遊んでしまう。仕事以外の時間を信長の野望に費やすであろう。しかもオンライン版はかなり難しそうなのできっと延々とやってしまうであろう。よってプレステ2は「買っては行けない」し、ウインも同じである。
 しかし、「プレステぐらいエエやんけ。。。」と。しかもプレステ本体が440円やし。
 うぅぅぅぅ。。。悩む、迷う。

 とりあえず今日の所はプレステに勝った。

 で、最近掲示板よりも圧倒的にこのブログの方が観ている人が多い事が判明。掲示板のアクセス数なんてイチイチ数えてられるけい!んが、ブログは勝手に出てくるし。しかも御丁寧に『閲覧数』と『アクセスIP数』と分けて出てきやがる。このブログは無料なので(家計簿をなんで金払ってつけなあかんねん)、噂に聞く『IP解析』とやらは知らん。
 &、このブログは無料のクセして結構頑張って呉れてテキストなんぞで埋まる事がない位に容量があってやな、
 っちゅうことで、聖カミソリ新聞に書き込んだ中で、お気に入りのネタも転載する事に決定。両方観てる人は無視しといて下さい。
 
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 彼岸の中日 投稿者:エロ坊主 投稿日: 3月19日(日)22時36分26秒 eaoska255116.adsl.ppp.infoweb.ne.jp   引用
 葬儀の控え室で、「彼岸の中日に感話して」との住職よりのお達し。
 何しよかなぁ~。法事とかなら、座っているすぐ眼の前に人が居てるわけやし、まあ、法要でも似た様なもんやねんやろうけど。。。人が眼の前に居てたら安心出来るわけやし、どっかにネタなんか転がっているわけやし、そのネタを元に喋って、で、会話しつつ、また喋れば結構時間なんぞ過ぎるし。まあ、『法要の場』と云うのにまだ慣れていないからなぁ。。。

 やはりここはスタンダードに『コショウの一大事』か。


 「この間よ、ある有名な歴史あるラーメン屋に行ったら、コショウ置いとれへんねん。ラーメン屋にコショウがないっちゅうのはどういう事やねん。笑わせるで、あれで名店やて。あそこのラーメン屋で喰ってるヤツ等に気が知れんわ。まあ、『伝統』に溺れて『コショウ』を忘れよったんやろうけど(笑)」
 「え?その店って、ただ単に味に自信があってコショウを出せへんだけ違うん?」
 「でも、コショウやで。ラーメンには絶対必要やろ。コショウのないラーメンなんてラーメン違うで。しかもコショウの代わりに変なもん置いとるし」
 「変なもんって何が置いてあったん?」
 「なんかな、『ホワイトペッパー』っちゅうのとな、『ブラックペッパー』っちゅうのを置いとるねん。変なもん2種類も置くねんやったらコショウを置いたらエエやんけ。絶対にあそこは潰れるで。コショウのないラーメン屋なんてラーメン屋違うしな。客は『伝統』とか『名店』とかの看板に騙されてるだけやで。哀れな客なや(笑)」
 「あんな。。。『ホワイトペッパー』『ブラックペッパー』って、コショウやぞ。呼び方が違うだけやし、SBとかのコショウにしたかったら混ぜたらエエだけやんけ。。。」

 誰もがそれぞれの人生を生きておられます。で、それぞれの人生の中でかけがいのない出会いも会ったでしょう。先の彼にとってはある店で食べた『コショウをかけたラーメン』が無茶苦茶美味かったのでしょう。しかし、彼はその事によって自分を縛ってしまったのです。『コショウをかけなくても食べて美味しいラーメンの味』に出会おうとせずに、また、『ホワイトペッパー』『ブラックペッパー』がコショウの別の呼び名だと気づく事が出来なかったのです。また、『コショウのないラーメン屋で食べている客』を馬鹿にしだしたのです。
 しかし私は彼を笑えません。何故なら、私も彼と同じ間違いをしているかも解らないからです。皆様にもないでしょうか?自分の人生の中で出会ったものだけを頑なに信じ込み、そこで満足してしまい、新たな世界に踏み出そうとせずにそこから他を裁きあざ笑っている。そういう事はないでしょうか?
 例えば、私にとって原始仏典と云うのはそういう対象でした。どうしても『大乗』『真宗』と云う『名前』に私はこだわってしまいます。その中で『原始仏典』と云うと何かレベルの低そうな、いや、この場合の『レベルが低い』とは『難しい』『誰にも出来ない』と云う意味での『レベルが低い』と云う意味ですが、そういう偏見を持っていました。それは私自身が『仏教=真宗』と云う出会い方をしただけの話です。しかし、私は私の人生を生きている中において『そういう出会い方』をしたので、私にはそれしかなく、それしかないが故に原始仏典を偏見でもって読もうとすらしませんでした。
 先の彼で云うなら『ラーメンにはコショウ』と云う事です。そういう決め付けでもって、自分の体験でもってしか物事を観ようとしませんでした。真宗こそが仏教であると。
 いや、やはり私にとっては『真宗こそが仏教』なのです。しかし、『真宗こそが仏教』なら原始仏典にも『真宗』があってもおかしくないのです。しかし、私はそういう確かめを自分自身でしようとせずに、原始仏典を学んでおられる方々を馬鹿にしていました。申し訳ございません。
 原始仏典については今日はお話致しません。
 今日は、私達が如何に自分自身の体験に甘え、相手も自分も固定化してしまっているのか?と云う事を問題にしたいと考えています。
 ここで少し本を紹介したいと思います。竹中智秀と云う方の『大悲を行じる人』と云う東本願寺から出ている薄い本です。私は200円で買ったのですが、今値上がりしていてもそれほどは値上がりしていないと思います。
 この本の中で竹中先生はこう書かれておられます。
 【本願に帰し、念仏申す者となったということですが、いつの間にか、如来の本願の名号を自我を中心にしながら、それを私有化するといいますか、本願の名号すら自我を立てるための手段にするといいますか、それを利用するという問題が出てくるのです。それほど根の深い自我の問題ということがあって、それを私に外から知らせてくるものが十七願です。すなわち諸仏善知識の教命といいますか、勧めです。それと同時に、実はその本願の名号をすら私有化するというそういう根の深い自我を私自身に、その内から知らせてくれるもの、それが果遂の誓いといわれる二十願です。だから、その本願に遭い、すでに念仏を申す生活を始めている中で、なおその本願の名号すら私有化してしまうという、さらに深い自我を、さらに深い自力の執心を知らせてくださるもの、それが十七願の諸仏善知識であり、二十願の果遂の誓いであることを、親鸞聖人は克明に見い出されているのです。実は本願の名号と言い、念仏の信心と言っているけども、さらに深い自我があったと。そういう自力の執心を深く懺悔しながら、十八願の世界へ転入してゆくという、これが転入です。だから、いつの今か、ということではなしに、本願に遭い、念仏申す身になった者にとっては、「いつでも今」というかたちで、さらに深い自我に目覚め、いよいよ本願に帰してゆくという意味を持つのが三願転入です。】
 ここに居る私達は先程も一緒に勤行をして、念仏申しました。しかし、何処かで自分が出会った念仏と云う事で、自分や他人を固定化していないでしょうか?自分のモノサシを絶対的な『善』とし、あるいは言い換えて『愚かな凡夫でございます』と言いながら固定化していないでしょうか?そういいながらも賢者に成っていないでしょうか?賢者になって自分のモノサシで計っていないでしょうか?自分が出会ったモノサシを絶対的なものにしていないでしょうか?
 『浄土宗のひとは愚者になりて往生す』とは親鸞聖人が書かれた『教え』の言葉です。私達はどこまでも『教えを聞く身』であるはずです。
 今年の始め、和田先生と云う大切な長老が亡くなられました。先生はよく仰ってました「『解った!』と云う瞬間から眼がトロンとして来よるのです。」と、特に私達僧侶が座っている辺りを見つめて仰っておられました。


 いかん、最初、最近気に入って居る『ネタ話し』で遊ぼうと思ってたら、酔っぱらって来てマジに成ってしまった。。。んが、これは使えんな。酔っぱらって書いたし(笑)
 まあ、15分ぐらいで2座やし、お勧めの本を紹介しながら、その場でその本から感じた事をその場で喋ろ。