英の放電日記

将棋、スポーツ、テレビ等、日々感じること。発信というより放電に近い戯言。

落としちゃったご飯……ある幼児園(こども園)での話

2023-10-08 14:29:20 | 時事
【『天台ブックレット』(小冊子)の記事】(私は特段、信仰心が強いわけではありません。と言うより、信仰心は相当低い。今回お彼岸法要の帳場のお手伝いの際、頂いた冊子です)
《以下、青字の部分引用です。引用に当たっては、天台宗務庁出版室と筆者・桑谷氏の許可・了承を頂いています》
 
 3歳児のお昼ご飯の時、園児が誤って、持参した白いご飯を全部床に落としてしまったという。保育士の先生は、床に触れた個所ではない部分を丁寧にすくい取り、幼児園提供のおかずと一緒にその園児に食べさせたという。
 その日これを報告したところ、保護者の怒りは心頭に発し、烈火のごとく怒号は止まるところを知らず、その先生を始め園長や幼児園関係者、教育委員会は、二日間に及んで猛抗議を受けた。
 当然のことながら、その時の状況やその後の対応を話した。またその園児が先生の話を聞いて、嫌がらずに食べてくれたことなどを丁寧にその経緯を報告した。この度の行為に配慮が欠けたことを反省し、今後の園としての方針徹底を申し述べたという。
 しかしながら、その園児の保護者は、
「落ちたものを食べさせるという行為自体がそもそも許せない」という。

 この話を聞いて、早速、我が家の夕食時に話してみた。
「そもそも床に着いた箇所ではないところをすくい取ったのだから、問題はないんじゃないか」と私。
「昔は、落ちても、パッパッと払って食べたもんだよ。もったいないしね」と私の母。戦前戦中を生きのびた母なら当然の主張だろう。お百姓さんが育てた大事なお米。御仏飯(仏様にお備えられたご飯)を頂く身、一粒も無駄にしてはいけないと私はその母に育てられた。
「でもね。家の教育・子育て方針で、子どもを育てた親なら、絶対抗議するだろうね」と納得する妻。子育て体験者なら、それが正論かも。
「えーっ。絶対、あり得ない!」と、現役保育士である次女。お昼時は確かに猫の手も借りたいぐらいだけど、園の方針として、床に落ちたものを食べさせるのは有り得ないという。さすが、現役の保育士。模範解答だ。

 しかし、私にはどうしても、喉に小骨が引っ掛かったような違和感が残って仕方がない。
 《落ちたという結果を、園と先生だけで問題なしと判定して、次の行為に進むこと》が問題だという。
 《落ちたものを、口にさせた行為》がそもそも問題だという。
 しかし、部外者の私にすれば、それで病気にでもなれば大問題だが、事の経緯からすれば、衛生上の問題はなさそうに思うのだが……。

 つまり、衛生上の問題云々ではなく、子育て・教育を含めた生き方、ポリシーの問題であると主張し、どうあっても他人の意見を受け入れる余地はないという。
 確かにそれは各人の生き方の問題だから、他人がとやかく言うべきではないが、しかし、私はそれは危うい生き方だと思う。
 この頃は衛生上の問題に関わらず、他人が直接手で握ったおにぎりを食べないと聞く。今後南海トラフ巨大地震や大規模災害が想定されたりするが、その時でもその主張を貫き続けるのだろうか。地震多発国の日本は、過去にも多くの災害を経験した。そして、「命をつなぐ」、それを最も尊い行動と日本人は認識したはずだ。喉元過ぎれば熱さ忘れるということなのか。

 もっとも、この度はそんな鬼気迫る状況の話でもない。他者が、なぜこういう行動をとったのか、ちょっと考えてみる心の余裕が欲しい。寛容の精神も時には必要だろう。
 みんながご飯を食べている時に、この子だけ食べるご飯がない。この園児を不憫に思った咄嗟の行動だったとは思い至らないのだろうか。
 結果的には保護者の思いとは逆になったが、その先生なりの愛情の発露であったはずだが、弁解の余地なく糾弾会のようになったようだ。他者を思いやるどころか一切認めないという危うい世情が広がりつつあるようだ。
 顛末は、園の方針として、《落としたものは食べさせない》と改めて表明することになったが、それは致し方ない。

 この話を聞いた時から、この保育士の先生と私は、似たような感性を感じたように思えてならなかった。そして、この原稿を書き上げる直前、その答えがようやく判明した。私はすっかり忘れていた。50年前の記憶を。
 当時私は10歳。弟は5歳。夏休みの須磨水族館での出来事だ。お小遣いで買ったソフトクリームを、一口食べて弟は、真っ逆さまに落としてしまった。
 半べその弟を連れてゴミ箱のところに行き、土のついた箇所を私は手で拭い去って弟に食べさせたことがあった。後でそれを話したら、母は「お小遣いまだ持っていたんでしょ?新しいのを買ったらいいのに」といい、笑いながら私を撫でてくれた。この原稿の最後の最後に、半世紀前の遠い記憶が蘇った。
 もし、私が自分の孫をどこかの幼児園に預けて良いといわれたなら、躊躇なく、私はこの保育士の先生に預かってもらいたいというだろう。
(文・桑谷 祐顕氏)
【引用 終】

桑谷 祐顕氏紹介『法藏館』ホームページより引用)
1963年、兵庫県生まれ。早稲田大卒、大正大大学院博士課程満期退学。専門は日本天台史、特に伝教大師教学や初期日本天台成立史。叡山学院講師、助教授を経て、2006年より叡山学院教授、学監を務める。種智院大講師、天台宗典編纂所研究員、天台宗総合研究センター研究員。元龍谷大講師。天台宗兵庫教区“沙羅の寺”應聖寺住職。


 私は桑谷氏のお考えとほぼ同じ。
 《時代は変わったなぁ》……つくづくそう思わせる出来事の経緯だ。
 私の子ども時代は、床に落ちた物でもパッパッと払って食べたもので、まあ、床が汚いと感じた場合は、床に着いたところを除いて食べた。
 食べずに捨てたなら「もったいない」とか「バチが当たる」と叱られたものだった。

 もちろん、現代の衛生理念や、(教育)施設としては、《床に落ちたものは食べさせない》という方針は正しいと思う。
 上述した《時代は変わったなぁ》という感想は、そういう衛生面の措置についてもそう感じたが、さらに、考えれば心……延いては(ひいては)、“いじめ”の問題に関連して考えないといけないのかもしれない。
 私の時代もあったとは思うが、“床に落ちたものを食べる”という行為が、《ばっちい》《汚い》《卑しい》に繋がり、揶揄される。私の時代は、そういう輩(やから)は少数で、一時的なモノですぐ忘れ去られた。しかし、現代においては、それがいじめに繋がる……という危惧を持たねばならない。そういう意味でも悲しい時代になったと思う。

 しかし、《時代は変わった》と思ったのはそれだけではない(というより、これから述べる方が、“主”である)
 この園児の保護者の態度(行為)や考え方が、私にしてみれば《あり得ない》のである。
【保護者の主張】
①衛生上の問題ではなく、「落ちたものを食べさせるという行為自体がそもそも許せない」
②《落ちたという結果を、園と先生だけで問題なしと判定して、次の行為に進むこと》が問題だ
③《子育て・教育を含めた生き方、ポリシーの問題である》
④その先生を始め園長や幼児園関係者、教育委員会は、二日間に及んで猛抗議


 ①と②は主眼点が異なる。
 私の憶測になってしまうが、保護者は①について激怒していると考える。
 ②は、幼児園での事故や事件についての対処の判断においては、問題にすべきであろう。例えば、頭部を強打したなどの健康面に関することや、園児を迎えに来た人がいつもと違う場合とかの場合がそうであろう。

 今回の場合は、園児の健康面に関することであるが、深刻な状況に陥るとは考えにくい(「保護者も衛生上云々の問題ではない」と言っているようだ)
 生活指導や教育に関する事象の中で、それほど重大なことではないと思える件に関しては、園や保育士の裁量に任せないと、現場はものすごく不自由である。

 今回の件に関して言うと、「お子さんが持ってきたご飯を(本人が)落としてしまいました。床に着いていない部分だけ食べさせますか?ご飯は抜きにしますか?それとも、ご飯を買いに行きますか?他の園児に分けてもらいますか?」と保護者の意向を尋ねるべきだったのだろうか?
 ②は建前で、①が本音で、許せないのだろう。園の説明によると、《園児は保育士の話に納得して食べた》と言っているが、もしかしたら、その園児は心の中では、“落ちたものを食べる”という行為で自尊心が傷ついたかもしれないし、お腹を壊すかもという心配が強かったかもしれず、そのことに関して保護者が激怒したのかもしれないが、文中で感じられるのは、《落ちたものを食べさせた》という行為を許せないと言っていたようだ。

 『子育て・教育を含めた生き方、ポリシーの問題であると主張し、どうあっても他人の意見を受け入れる余地はないという』(←記事中の文章)……《他人の意見を受け入れる余地はない》というのがその保護者の言葉なのか、取り付く島もないという保護者の様子だったのかは分からないが、後者だったとしても、そういう他人の意見を受け入れる余地がなく、『糾弾会のようになった』(←記事中の言葉)というのは、どうかと思う。
 “子育て・教育を含めた生き方、ポリシーの問題”と主張するのなら、人の意見や思いを理解し考えて判断するのが大事なのではないだろうか?


 ここで、【このブログ記事を書くにあたっての、不確定要素】があることに気がついた。それは…
 桑谷氏自身も間接的に事の経緯を知ったようだが、私には、氏がどこまで詳細に把握しているのかが不明なこと。
 実際は、記事の内容より詳細なことを把握しているのかもしれないが、あの記事で私が事の経緯のすべてを知ることができないし、桑谷氏がどこまで把握しているのかも分からない。
 保護者が激怒一辺倒だけだったように受け取れるが、そうでない可能性もある。《子どもがご飯を落としてしまった時、どういう対処を園にして欲しかったのか?》を保護者が主張したのか?それがあるのかどうかで、かなり事情が変わってくる。

 なので、この記事を読むに当たっては、事の経緯に幅を持っていただきたいです。私もこの保護者について、上記のように、かなり批判的なことを書いたが、書き過ぎている可能性もあります。


 筆者は、『喉に小骨が引っ掛かったような違和感』『危うい生き方』『他者を思いやるどころか一切認めないという危うい世情が広がりつつあるようだ』と、やわらかい表現で述べているが、もし、私がその糾弾会(笑)に同じ保護者の立場で出席していたら、喧嘩になっていただろう。もちろん、私が園側の立場だったら、ひたすら説明し理解してもらおうとするだろう(その態度でいられるかどうかは、自信はないが)
 こういう《他人に厳しい人(他人を許さない人)》が増えている(←「“放電”ばかりしているお前が言うか!」という指摘は甘受します)
 アニメの話を持ち出すのは恐縮だが……
『AIの遺電子』 第9話「正しい社会」のエピソードで、破天荒なアニメの主人公を描いて非難を受けた作者が、「行儀のいい人間に合わせていると、悪いことはどんどん増えちまう」
「この国の犯罪率はどんどん下降していて、正し…」(非難者)
「そういうことじゃあねえ……“悪いとされること”が増えていくのさ
 "悪いとされること”の例として、「(自動運転が常識となっているそのアニメの時代背景で)ドライバー本人が運転することは、"無謀な行為”と認定される」と述べていた。
 かつては普通の行為とされていたことが、時代が変われば、"悪いとされる行為”、"違法行為”とされてしまう……

 少し事情が違うが、道端で女の子が泣いていても、迂闊に声をかけられない(変質者に間違えられる)。それに、子どもも「知らない人に声を掛けられたら、警戒しなさい」と教えられている世情だ。
 逆に、《法に触れなければしてもいい》という政治家やお金持ちが多い……

 今回の保育士の行為が、《その先生を始め園長や幼児園関係者、教育委員会は、二日間に及んで猛抗議を受ける》行為だったのか、はなはだ疑問である。
 その保育士が気の毒だ。この一件で。心に傷を負い、やめてしまわないか心配である。園に居づらくなって園を辞めるというのは仕方がないかも。でも、保育士はやめないでほしいな。



 今回の件、全く部外者の私が、しゃしゃり出てきて書いてしまったので、教育現場を良く知る友人に見解を聞きました。
【教育現場を良く知る友人の見解】
 私は、件の保護者にとって①と②と③は一体で、①の考え方(家庭のポリシー)に抵触するかもしれない(重大な)行為を選択する際に、②の保護者への確認作業を怠ったことは明らかなミスであり、とりわけ、園(保育士)が③の各家庭のポリシーを軽視して保育していることが許せない。と思考がつながっているように思うからです。英さんや桑谷さんが書くとおり、自分のポリシーを絶対視して他者を強く非難するのは滑稽で異常ですが、本人は自分の正義を疑っていないのだと思います。(その結果、④のような振る舞いとなる。)
 《時代は変わった》はおそらく正しく、このような主張をする保護者はどこでも珍しくありません。しかし、こうした保護者は少数であって、常識がある保護者が大多数です。教育委員会や園は今回の被害に遭った保育士の方をしっかりとサポートしてほしいと思います。


上記の見解で①②③④が出てきますが、このブログ記事の中盤辺りで書いた《保護者の主張》での番号です。

①衛生上の問題ではなく、「落ちたものを食べさせるという行為自体がそもそも許せない」
②《落ちたという結果を、園と先生だけで問題なしと判定して、次の行為に進むこと》が問題だ
③《子育て・教育を含めた生き方、ポリシーの問題である》
④その先生を始め園長や幼児園関係者、教育委員会は、二日間に及んで猛抗議
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