*亀田 和毅(TMK)は3階級制覇に届かず、井岡 一翔(志成)と重岡 銀次郎(ワタナベ)は世界王座への返り咲き失敗。また、力石 政法(大橋)も世界初挑戦に失敗。結局残るのは井上 尚弥(大橋)ということなのですね。しかし本日中に、その状況を変える可能性がある選手が誕生するわけですね。
Photo: Amazon.co.jp
*亀田 和毅(TMK)は3階級制覇に届かず、井岡 一翔(志成)と重岡 銀次郎(ワタナベ)は世界王座への返り咲き失敗。また、力石 政法(大橋)も世界初挑戦に失敗。結局残るのは井上 尚弥(大橋)ということなのですね。しかし本日中に、その状況を変える可能性がある選手が誕生するわけですね。
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先月末日(2025年5月31日)、「ボディー・スナッチャー」という二つ名で知られ、ジュニアミドル級/スーパーウェルター級からライトヘビー級の3階級で世界王座を獲得したマイク マッカラム氏(ジャマイカ/米)が永眠されました。
(往年の名選手マッカラムが逝かれました)/ Photo: Jamaica Observer
アマチュア時代には1976年のモントリオール夏季五輪に出場するなど、250勝10敗というとんでもない記録を残す大活躍。1981年1月にプロに転向後は世界の一流選手たちとの対戦を繰り返しながら、1997年2月までの長きに渡り戦い続けました。その壮大なキャリアを、ザっと振り返ってみましょう。
1976年:カナダのモントリオールで行われた夏季五輪にジャマイカ代表として出場。3回戦で敗退。
1981年1月:米国ネバダ州でプロデビュー。
1984年10月:ショーン マニョン(アイルランド)に大差の判定勝利を収め、空位だったWBAジュニアミドル級タイトルを獲得。
1984年8月:稀代のKOパンチャー・ジュリアン ジャクソン(バージン諸島)に2回TKO勝利を収め、保持するWBAジュニアミドル級王座の3度目の防衛に成功。
1987年:元ウェルター級王者ミルトン マクローリー(米)、ドナルド カリー(米)を立て続けに破り、その評価を不動のものにする。
1988年3月:スンブ カランベイ(ザイール/伊)の保持していたWBAミドル級王座に挑戦するも判定負け。
1989年5月:へロール グラハム(英)を下し、空位だったWBAミドル級タイトルを獲得。世界2階級制覇達成。
1991年4月:スンブ カランベイ(ザイール/伊)に判定勝利を収め雪辱。同時にミドル級王座の防衛に成功。
1991年12月:WBA王座を返上し、IBFタイトル保持者だったジェームス トニー(米)に挑戦。大激戦の末痛み分け。
1992年8月:トニーに再挑戦するも、今度は判定負け。
1994年3月:ランドール ヨンカー(米)にTKO勝利を収め、WBCライトヘビー級暫定王座を獲得。同年7月にジェフ ハーディング(豪)を下し正規王者に昇格。
1995年6月:ファブリス ティオーゾ(仏)に敗れ、ライトヘビー級王座と決別。
1996年11月:ロイ ジョーンズ(米)とWBCライトヘビー級暫定王座を争うも判定負け。
1997年2月:トニーとの3度目の対戦に敗れる。この試合を最後に現役から引退。
プロボクサーとしての終身戦績は49勝(36KO)5敗(ゼロKO負け)1引き分け。タフでディフェンス能力に優れた万能型だったマッカラム。全盛期には、あのマービン ハグラー(米)が対戦を避け、実力はトーマス ハーンズ(米)以上とまで言われていました。惜しいことにそのボクシングに華が無かったため、誰もが認める実力者でしたがスーパースターという名声を獲得する事が出来ませんでした。
引退後は後進の指導に当たっていたマッカラム。1956年12月7日生まれと言われていますが、実際はもう少し年長だったとか。
(実際は70を超えていたようです)/ Photo: Youtube
今から30年前の昨日となる1995年6月2日、米国コネチカット州で行われた試合結果です。
WBOスーパーバンタム級戦:
王者マルコ アントニオ バレラ(メキシコ)TKO2回1分55秒 挑戦者フランキー トレド(米)
*この年の3月末日にマイナー団体ながらも世界のベルトを腰に巻く事に成功したバレラ。後のIBFフェザー級王者トレドを迎え、早速初防衛戦を行っています。
試合開始のゴングと同時に、丸太ん棒を振り回すようなパンチを振りかざしトレドに迫っていったバレラ。トレドはその勢いに飲まれる感じで押されまくられます。続く2回、コンビネーションからの得意の左ボディーで立て続けに2度のダウンを奪った若きメキシカン。その後の連打で一気にケリをつけました。
(得意の連打でトレド(右)を圧倒したバレラ)/ Photo: Youtube
バレラの強打と圧力の前に全く歯が立たなかったトレド。しかしこの試合の前には、後のWBAジュニアフェザー級(スーパーバンタム級)王者クラレンス アダムス(米)や、同じ興行に出場したWBC王者エクトール アセロ サンチェス(ドミニカ)にも勝利を収めていた中々の実力者でした。
(バレラには歯が立たなかったトレドでしたが、後にフェザー級で世界王座を獲得しました)/ Photo: BoxRex
この試合が終わった時点(1995年6月2日)での、スーパーバンタム級/ジュニアフェザー級の世界王者たちの顔ぶれは下記のようになります。
WBA:アントニオ セルメニョ(ベネズエラ/防衛回数0)
WBC:エクトール アセロ サンチェス(ドミニカ/2)
IBF:ブヤ二 ブング(南ア/3)
WBO:マルコ アントニオ バレラ(メキシコ/1)
*「勢い」のみで判断すると、バレラが他の3王者を圧倒しています。しかし実際に拳を交えていれば、どの対戦カードも接戦になっていたことでしょう。
WBCフェザー級戦:
王者アレハンドロ ゴンザレス(メキシコ)TKO9回31秒 挑戦者トニー グリーン(メキシコ)
*この年の1月に、ケビン ケリー(米)との大激戦を制し世界王座に就いたゴンザレス。その試合から僅か5ヶ月後に、早くも2度目の防衛戦を行うことになりました。
中堅選手グリーンを相手に、少々時間を費やしすぎた感のあったこの日のゴンザレス。勢いに乗る選手をドンドンと売り出したいという気持ちは分かるのですが、少々試合間隔が短すぎる感がします。
今から30年前となる1995年6月2日、米国コネチカット州で行われた試合結果です。
WBCスーパーバンタム級戦:
王者エクトール アセロ サンチェス(ドミニカ)引き分け(1対0:117-111、116-111x2)挑戦者ダニエル サラゴサ(メキシコ)
*アマチュアで8つもの金メダルを獲得してきたサンチェスが、1980年夏季五輪に出場するなど、こちらもアマチュアで確たる実績を築き、プロでも3度の世界王座を獲得してきたサラゴサを迎え2度目の防衛戦に臨みました。
(古豪/強豪サラゴサの挑戦を受けたサンチェス)/ Photo: RoxRec
実力拮抗者同士による世界戦は、予想通りの白熱した接戦となる事に。4回に右の相打ちで打ち勝ちダウンを奪ったサラゴサ。試合全体を通じ、より威力のあるパンチでドミニカ人に迫り続けた大ベテラン。手数で勝負を挑んできたサンチェスを上回ったかに思われましたが、勝利の女神は微笑まず。3度目の同タイトル獲得はなりませんでした。
この試合の時点では、日本での評価はそれほど高くなかったサラゴサ。しかしその後のサラゴサの大活躍を顧みると、なぜあれほど評価されていなかったのか、首を傾げざるをえません。この試合後の戦績が50勝(25KO)7敗2引き分けで、その内世界出場が16度。そのすべてのタイトル戦をメキシコ国外で戦ってきました(この点はウィルフレド バスケスに類似しますね)。引き分けや、僅差の判定という試合もありましたが、対戦相手の質が高かったこともまた事実。そのボクシングスタイルに華が無く、泥臭かったというのが原因かもしれませんね。
しかしこの試合の時点で既に37歳だったサラゴサが、この試合後にさらにもう一花咲かせるとは。本人以外、予想もしていなかったことでしょう。
WBCライト級戦:
王者ミゲル アンヘル ゴンザレス(メキシコ)判定3対0(119-107、119-108、118-108)挑戦者マーティ ジャックボウスキー(米)
*日本では「東京 三太」のニックネームで知られていたゴンザレスが、米国東海岸のリングに初登場。この試合が何と92戦目となるジャックボウスキーを相手にワンサイドの試合を演じ、大差判定勝利。保持する王座の9連続防衛に成功しました。
実戦数が異常に多い挑戦者でしたが、意外にもこの試合が世界初挑戦。この試合以前となる1992年師走には、当時まだ無敵だったフリオ セサール チャベス(メキシコ)と無冠戦10回戦で対戦しているジャックボウスキー。そのチャベス戦で喫した敗戦が、唯一の黒星という驚きの戦績の持ち主です。しかしそのレコードを紐解いてみると、6回戦や8回戦などの試合出場が多く見られます。
三太戦後にも2度の世界挑戦と、チャベスとの再戦の機会を得る事になるジャックボウスキーでしたが、それらすべての試合で敗れています。
ちょうど20世紀と21世紀の境の期間に、米国で「ジョージ フォアマン グリル(George Foreman Grill)」というものが大ヒットしました。角度のついたサンドイッチ状になった電気プレートに肉などの食材を挟んで調理すると、余分な脂が食材から垂れ落ちヘルシーな食べ物に大変身するというもの。まあ、いつの時代にもある代物です。
(グリルを紹介するフォアマン)/ Photo: Men`s Health
この商品は名前から察することが出来る通り、元世界ヘビー級王者ジョージ フォアマン(米)から名前を冠したもの。フォアマンがどのぐらいか商品開発に関与したかは不明ですが、氏はこの商品紹介の番組に頻繁に登場していました。
(この商品は大きな進化を遂げ、様々なサイズやアウトドア用まで開発されました)/ Photo: Facebook
商品のページは氏のパートナーが行い、彼はひたすらに料理の出来具合を気にしていたことが印象に残っています。
(テレビに頻繁に登場していた当時のフォアマン)/ Photo: Youtube
もう2ヵ月も前になりますが、「ビック・ジョージ」の愛称で親しまれた偉人ジョージ フォアマンが永眠されました。
ボクサーとして偉大なる戦績を残したフォアマン。そのボクシングキャリアはあまりにも有名なため、ここではザっと触れるのもにします。
1968年:メキシコシティで行われた夏季五輪に米国代表として出場し、金メダルを獲得。
(星条旗を振りかざすフォアマン)/ Photo: Media Storehouse
1969年6月23日:プロデビュー。
1973年1月22日:ジャマイカの首都キングストンのリングでジョー フレージャー(米)を倒しまくり、世界ヘビー級王座を獲得。
(チャンピオンベルトを腰に巻くフォアマン)/ Photo: Athlon Sports
同年9月1日:日本の首都東京の日本武道館のリングでジョー キング ローマン(プエルトリコ)を瞬殺。世界ヘビー級王座の初防衛に成功。
(フォアマン、日本のリングに初登場)/ Photo: Wikipedia
1974年3月26日:ベネズエラの首都カラカスでケン ノートン(米)をボコボコにし、保持する世界ヘビー級王座の防衛記録を伸ばす。
同年10月30日:ザイール(1997年からコンゴ共和国に改名)の首都キンシャサで、モハメド アリ(米)の巧み(?)なボクシングの前に敗北。世界ヘビー級王座と決別する事に。
(さすがのフォアマンも、アリの前では引き立て役に)/ Photo: NPR
1977年3月17日:プエルトリコのサンファンで、世界王座への挑戦経験もあるジミー ヤング(米)に予想外の判定負けを喫す。試合後、脱水症/熱中症などもあり、一時的パニック障害に陥る。その間、「神の声を聞いた」そうで、それを期にボクシングから引退。
1987年3月4日:米国カリフォルニア州サクラメントでスティーブ ゾウスキー(米)にTKO勝利。10年ぶりに現役に復帰する。
1991年4月19日:米国ニュージャージー州アトランティックシティのリングで、統一ヘビー級王者イベンダー ホリフィールド(米)に挑戦。歴史に残る大一番で勝利を収める事は出来ずも、予想以上の大善戦。その結果、この試合後のフォアマンは「中年の星」として世間一般の大注目を浴びる事に。
(ホリフィールドと大激戦を演じるフォアマン)/ Photo: the Fight City
1993年6月7日:米国ネバダ州ラスベガスのリングで、現在(2025年5月末)までの米国白人最後のホープであるトミー モリソンと当時空位だったWBO王座を争うも判定負け。
モリソンは西部劇の大俳優ジョン ウェインの甥っ子で、「ロッキー5」にも出演。準主役のトミー ガンを演じる。
(トミー ガン(若い方)として登場したモリソン)/ Photo: Facebook
1994年11月5日:ヘビー史上初のサウスポー(左構え)のチャンピオンであるマイケル モーラー(米)に10回逆転KO勝利を収め、45歳10ヶ月にして実に20年ぶりに世界の頂点に返り咲く。
(20年ぶりに世界のベルトを腰に巻いたフォアマン)/ Photo: Texas Sports Hall of Fame
1996年11月3日:千葉県浦安市のNKホール(2005年に閉鎖)に登場。クロフォード グリムズリー(米)に判定勝利を収めマイナー団体WBU王座の防衛に成功。同時にマイナー団体IBAタイトルを獲得。
(再び日本のリングに登場したフォアマン)/ Photo: Wikipedia
1997年11月22日:後のWBO王者シャノン ブリッグス(米)と、自身最終戦を行うも0対2の判定負けを喫する。
*フォアマンは最初に引退する以前に4度の世界戦に登場しましたが、そのすべての試合を米国外(ジャマイカ、日本、ベネズエラ、コンゴ共和国(ザイール))で行いました。理由は、当時米国内で科された高額の関税を避けるためです。トランプ関税が世界を騒がせている今日この頃ですが、米国の科す関税というものは、今も昔も社会的影響力が甚大なようです。
一時引退前はいつも不機嫌そうなピリピリ感を漂わせていたフォアマン。再起後は常にニコニコの笑顔を絶やさない人懐っこい「おじさん」に大変身。アリ戦での敗北を含め、自身の内の中で様々な葛藤があったんでしょうな。
(中年と若き日のフォアマン。あくまで同一人物です)/ Photo: Culture Slate
プロボクサーとしての終身戦績は76勝(68KO)5敗(1KO負け)。凄まじい数字ではありますが、リング上でのパフォーマンスはそれ以上にインパクトがありました。またリング外でもジョージ フォアマン グリルをはじめ、庶民の生活に甚大な影響を与えた人物でした。「ビック・ジョージ」、永遠に人々から愛される事でしょう。
(フレージャー、フォアマン、アリ!)/ Photo: The Straits Times
今から30年前の明日となる1995年5月24日、横浜文化体育館で行われた試合結果です。
WBCジュニアバンタム級戦(スーパーフライ級):
王者川島 郭志(ヨネクラ)判定3対0(117-111、116-111x2)挑戦者李 承九(韓国)
*世界王者になる前から実力を評価され、世界獲得後も一戦ごとに評価を高めていた川島。3度目の防衛戦の相手に、前年1994年4月に来日し、当時のWBA王者鬼塚 勝也(協栄=この試合の時点ですでに引退)に挑戦した李を迎える事になりました。
タフで知られた鬼塚からダウンを奪うなど、ジュニアバンタム級としては驚異的なパンチ力を持った李を相手に、日本ボクシング史上屈指のテクニシャンである川島がどのようなボクシングを展開するかに注目が集まりました。
初回から強打の李を華麗なフットワークと多彩なコンビネーションで圧倒した川島。鬼塚とは全く違うボクシングを展開する川島を相手に、李は全く対応できない状態が続きます。そんな挑戦者を相手に川島は6回、左右上下の連打から大きくぐらつかせるなど、ストップ寸前まで追い込んでいきます。
しかし予想通りというのでしょうか、李はその強打で再び日本のファンを驚かせることになりました。このまま試合が終了するのではないかと思われた終盤10回、コンビネーションから王者をキャンバスに送る事を成功した李。しかし負い足のない李はスタミナ切れ、そしてそれまでの打たれ疲れから追い打ちをかけられず。挑戦者からすると最大のチャンスを活かすことが出来ませんでした。
(ダウンを喫するも、李に圧勝した川島)/ Photo: Yahoo!オークション
また、打たれ脆さが懸念されていた川島でしたが、それまでのキャリアで喫した2度の敗北(いずれもKO負け)を活かし、ピンチを冷静に対処。残り時間では再び安定したボクシングを見せています。
ダウン以外はほぼワンサイドの試合内容で強豪を退けた川島。また一歩、安定王者として前進しました。
今から30年前となる1995年5月20日、米国ニュージャージー州で行われた試合結果です。
ヘビー級戦(10回戦):
元統一王者イベンダー ホリフィールド(米)判定3対0(97-92、96-93、95-94)元WBO王者レイ マーサー(米)
*この試合が行われる13ヶ月前に、マイケル モーラー(米)に判定負けを喫し世界王座から陥落したホリフィールド。その後健康上(心臓に穴が開いていたとか...)の理由からブランクを作っていました。
ホリフィールドが再起戦の相手として選んだのは、1988年ソウル五輪ヘビー級の金メダリストで(同大会に出場したレノックス ルイスはスーパーヘビー級の金メダリスト)、元WBOタイトル保持者マーサー。現役の世界王者たちにも劣らない実力者です。
(ホリフィールドが元WBO王者マーサーを迎え再起戦に臨みました)/ Photo: Wikipedia
ホリフィールドには珍しく、体格で自身より小柄な選手との対戦となったこの一戦。マーサーは鋭い左ジャブで、対するホリフィールドは随所に左右のボディー攻撃を交えたコンビネーションで応戦していきます。
(激しい打ち合いを繰り広げた両雄)/ Photo: Youtube
実力者同士による一戦は白熱した打ち合いが繰り広げられました。両者が持ち味を発揮した好試合は終盤8回、ホリフィールドが左フックでマーサーにキャリア初のダウンを与える事に。結局はこのダウンが試合を決定づける事になりました。
(マーサー(左)にキャリア初のダウンを与えたホリフィールド)/ Photo: BoxRec
見事な戦線復帰を果たしたホリフィールド。敗れたとはいえ、見せ場を見せたマーサーも評価を落とすことはありませんでした。
(WBO王者時代のマーサー。古いバージョンのベルトを腰に巻いています)/ Photo: World Boxing Organization
この試合を遡る事数ヵ月、様々な出来事が起こった最重量級戦線の動きを時系列で見ていきましょう。
3月11日:元統一王者リディック ボウ(米)がハービー ハイド(米)を破り、マイナー団体WBOタイトルを獲得。
3月26日:元統一王者マイク タイソン(米)がインディアナ州プレインフィールドの刑務所から仮釈放されれる。
4月8日:オリバー マッコール(米)が古豪ラリー ホームズ(米)に競り勝ち、WBCタイトルの初防衛に成功。
同日:ブルース セルドン(米)が元IBF王者トニー タッカーを下し、空位となっていたWBAタイトルを獲得。
4月22日:ジョージ フォアマン(米)が2対0の判定でアクセル シュルツ(独)を退け、IBF王座の防衛に成功。
5月13日:前WBC王者レノックス ルイス(英)がライオネル バトラー(米)をTKOで下し再起に成功。同時にWBCタイトルへの挑戦権も獲得。
5月20日:元IBF/WBA王者ホリフィールドが再起に成功。
*当時の注目は世界王者たちではなく、夏に予定されていたタイソンの復帰戦に絞られていました。
今から30年前となる1995年5月19日、米国ニューヨーク州で行われた試合結果です。
WBOミドル級戦(王座決定戦):
ロニー ブラッドリー(米)TKO12回2分10秒 ダビド メンデス(メキシコ)
*当時、ロイ ジョーンズ(米)やオスカー デラホーヤ(米)に続くスーパースター候補生として謡われていたブラッドリーの世界初挑戦が実現しました。一年もの間、タイトル戦が行われていなかったWBOミドル級戦に出場する事になったブラッドリーの評価は高く、日本の専門誌にもその名を頻繁に登場させていました。
(将来性を謡われていたブラッドリー)/ Photo: Boxing Treasures
残念ながらこの試合の映像は検索できませんでした。しかし今後、こちらで頻繫に登場する可能性のある事は確かです。
ブラッドリーはニューヨークのハーレム出身。世界王者としては、伝説のシュガー レイ ロビンソン(米)以来となりました。手足は長く、左ジャブからの右ストレートという基本に忠実なスマートなボクシングを展開するブラッドリーのこの試合後の戦績は20戦全勝(16KO)という大変素晴らしいもの。この試合前までは、あくまで出身地ニューヨーク地区の実力者程度にしか見られていませんでしたが、徐々に全米、そして国際的に認知されるようになりました。
そしてこの試合から数年の間は、対抗王者IBFタイトルホルダーのバーナード ホプキンス(米)と同等の評価を得ていました。また、一時的ではありますが、竹原 慎二(沖=引退)と同時期の世界王者でもありました。
今から30年前となる1995年5月15日、後楽園ホールで行われた試合結果です。
WBAライト級戦:
王者オルズベック ナザロフ(協栄)KO2回2分57秒 挑戦者朴 元(韓国)
*世界戦4戦目にして初めて世界王者としての雄姿を第二の故郷に披露する事となったナザロフ。3戦続けて敵地で勝ち抜いてきたナザロフには、試合前から王者としての貫禄が漂っていました。
(世界を獲得後、初めて後楽園ホールにその雄姿を見せたナザロフ)/ Photo: Youtube
実力者相手に、怖気づくことなく果敢に立ち向かった朴。両者共に好コンディションを思わせるこの試合は、スピーディーなキビキビとした展開となりました。
2回2分過ぎ、ナザロフが左ストレートからの右で挑戦者をたじろかせると、接近戦での左ボディー一発で朴をKO。実力差をまざまざと見せつけ、貫禄の防衛に成功しています。
防衛記録を3に伸ばすと同時に、全勝記録を21(16KO)にしたナザロフ。世界王者となり、また一段レベルを上げたようです。