芸術の規則


  うかつにこんな題名を付けちゃいけないんだけど…。私はブルデュー理論をほとんど理解できていないけど、頭にパッと浮かんだのがこの書名だったから。

  今、WOWOWでワーグナーの『パルジファル』(メトロポリタン・オペラの舞台だそう)を放映しています。

  『パルジファル』は、ワーグナーのオペラ(と呼ばせて頂きます)の中で、私が最も好きな作品です。ワーグナーの他の作品と違って極端でなく、バランスが良いというか、中庸を保っている感じのする作品だから。たまたまWOWOWにチャンネルを合わせたら放映してて、「つかまって」しまいました。さっき、第二幕に入りました。第二幕に入っちゃったら、もう最後まで聴き続けるしかない。

  あ、花の乙女たちとクンドリがパルジファルを誘惑する場面になった。ここから見どころだから、しばし休憩。(ほぼ1時間後)第二幕終了。面白かった。花の乙女たちがみんな貞子だったぞ(笑)。しかも足元、血の池だし。ジャパニーズ・ホラー。花の乙女の中でソロで歌う歌手が東洋系の人だった。この役を歌っているということは、他の作品では主役を歌っている歌手なんでしょう?何て名前の人なのかしらね。

  クンドリ役の歌手の歌と演技は迫力があった。クンドリって、ワーグナーのオペラに出てくる女の中で最も面白い人物。他のヒロインたちは、みんな頭にお花が咲いた女ばっかりでしょ(笑)。パルジファル役の人も、パルジファルが覚醒した後は、演技ばかりか歌声も一変していてすばらしかったです。クリングゾルの投げた槍がパルジファルの前で止まるシーンは、もっとドラマティックなほうが好きだなー。

  パルジファル役のヨナス・カウフマンって確か、2011年の震災後、出演予定だったメトロポリタン・オペラ(5月)をはじめとする各来日公演を全部キャンセルした歌手だよね。ジェームズ・レヴァインも病気だか故障だかでキャンセルしたんだった。いや、あの時点では、彼らは当然な決断をしたんだよ。

  一方で、あえて来日したプラシド・ドミンゴやズービン・メータのような人々もいる。頭では、カウフマンやレヴァインの選択は正しいと分かっている。でも感情では、今後もずっとカウフマンやレヴァインを、「そういう目」で見てしまうだろうことは仕方ない。

  「現代のベートーベン」騒動は、いろんな意味で興味深い。『週刊文春』も買って読んだ(やっぱり売れ行きがよいらしくて、最後の1冊だった)。「ゴーストライター」氏の記者会見も観た。

  文春やテレビが今回のことを報道するまで、その「現代のベートーベン」と呼ばれた作曲家のこと、名前も姿もまったく知らなかった。本当。すごく有名な人だったそうだけれど、いったいどこでそんなに有名だったのか、まったく見当がつかない。したがって彼の曲もぜんぜん聴いたことなし。

  私は新聞取ってないし、テレビも以前はほとんど観なかったが、ネットでニュースは毎日ちゃんとチェックしてる。こんな大騒ぎになるほど有名な「作曲家」を、どうして知らないでいられたのだろう?

  Amazonは、おそらく昨日の夕方から、この「作曲家」の作品CDの販売を中止した。騒動が大々的に報道されてから、出品者が大量に出て、ものすごい値段がついていた。動画投稿サイトには今でもアップロードされ続けているだろうが、そこまでして聴くつもりはない。Amazonのユーザー・レビューを読んだら、「後期ロマン派」、「マーラー」、「ブルックナー」という語がやたらと目についた。あのへんの音楽を想像すればいいらしい。

  WOWOWが放映している『パルジファル』は第三幕に入っている。放浪していたパルジファルがグルネマンツの許にたどり着き、クンドリがパルジファルの足を洗い、グルネマンツがパルジファルの頭に水を潅ぎかける。私が『パルジファル』の中で最も好きな部分。救いが感じられる穏やかな音楽。

  くだんの「現代のベートーベン」騒動は、音楽を聴いた者が抱く、こうした感動がしょせんは勝手な思い込みであり、ただの幻想にすぎない、ということをも暴露してしまった。この騒動で提起された問題はたくさんあるが、一点に集約すれば、「芸術とは本質的な価値を有するものである」という、芸術なるものを成立させている根幹の幻想をぶち壊してしまったことだと思う。

  矛盾している。文春の記事の中で、「ゴーストライター」氏はこう言っている。「依頼は現代音楽でなく、調性音楽(和音をベースにした音楽)でしたから、私の仕事の本流ではありません。…(略)…あの程度の楽曲だったら、現代音楽の勉強をしている者なら誰でもできる、どうせ売れるわけはない、という思いもありました。」

  だが実際には、「あの程度の楽曲」に感動した人々が多く出たわけだ。その後、「現代のベートーベン」氏の作品は、メディアや聴衆のみならず、クラシック音楽の批評家たちや同業の作曲家たちの称賛をも受けてきた(日本のある有名な作曲家も大絶賛している)。ネット上で「クラシック音楽を専門とする」人々の批評をいくつか読んでみた。意味のよく分からない難解な文章ばかりだったが、「現代のベートーベン」氏の作品を、その「本質のすばらしさ」において称賛しているものには違いなかった。

  (この芸術に関する本質論は、善意の健常者たちが障碍者に対して抱きがちな幻想、すなわち障碍者は心が純粋で清らかで天使のような人々である、という障碍者に関する本質論と共通するものがある。)

  それが今、彼らは一転して、しょせんはモノマネ、軽薄、底が浅い、一貫性がない、などと言い出した。私が最も「都合よく物を言うな」と思ったのは、「現代のベートーベン」氏がピアノが弾けない、楽譜の読み書きができない、つまりクラシック音楽家たるには必須な専門技術がないらしいことを理由に、彼のアイディア(文春やテレビが紹介している図面みたいな「指示書」)をも、「専門家」が「素人」を嘲笑し軽蔑し見下す、あのおなじみの態度で否定し始めたことだ。

  同時に、彼ら「クラシック音楽の専門家」たちの嘲笑と軽蔑と見下した物言いは、「現代のベートーベン」氏の音楽に感動した、無知でミーハーで俗物で真贋の分からない素人大衆にも向けられている。

  「芸術」が「本質的なもの」であるのなら、作品を表現する形式などはどうでもいいし、作品に感動するのは、それを受け取る側である素人大衆に任されることではないのか?

  「芸術家」たちは、「芸術は本質的なもの」であると言う。しかしその一方で、「芸術は専門的な知識と技術が必要なもの」であると言う。芸術を受け取る「素人」に対して、芸術の本質において感動することを求めながら、その本質性が危うくなると、しょせん専門的な知識も教養も技術もない素人に芸術は分からない、などと言い出す。

  今回の「現代のベートーベン」騒動がもたらしたのは、結局は「芸術」なるものの「危うさ」だと思う。だから、「本物」の「芸術家」たちと「専門家」たちは、本質論と専門用語との両方を総動員して場によって使い分け、「芸術」の権威を守ろうとしている。こうした行為そのものが、更に輪をかけて「芸術」に対する人々の幻想(で語弊があるなら)愛情を壊してしまうというのに。

  『パルジファル』は放映が終了した。アムフォルタスの傷は癒え、クンドリはようやく穏やかな死を迎えて救われた。素人大衆の一人である私のこの感動は、何物なのか?

  (仮稿)

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