元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ワールド・ウォーZ」

2013-09-06 06:56:37 | 映画の感想(わ行)

 (原題:World War Z )ゾンビどもが群れを成し、巨大な人柱を形成して高い建物を乗り越えようとする映像は凄い。そして、ゾンビ軍団から逃げ惑う群衆を俯瞰で映したショットもかなりのものだ(どこかの内戦のように見える)。さらにはゾンビが増殖する旅客機内からの脱出シーンも、キレがあって迫力満点である。しかし、それらを除けば大したことはないシャシンだ。

 妻子を連れてドライブ中であった元国連捜査官のジェリーは、突然フィラデルフィアの街中でゾンビの襲来に曝される。間一髪で難を逃れ、米軍の艦船に避難することが出来たジェリー達は、正体不明のゾンビ・ウイルスのアウトブレイクが世界的に発生して主要都市は既に壊滅していることを知る。かつての上司である国連事務次長のティエリーから“現場復帰”を要請されたジェリーは、解決策を求めて世界中を飛び回ることになる。

 おそらくはゾンビ映画史上最高の製作費が投じられた作品で、しかも堂々の夏休みシーズンでの公開だ。よって、従来のゾンビ映画のルーティン(?)は完全に無視されている。この手の映画に付き物の、派手なスプラッタ場面や粘り着くようなグロテスク描写は見当たらない。

 そもそも主演がブラッド・ピットである。今のところどう見ても“非・オタク系”の演技者である彼が、劇的な心変わりでもしない限り、B級テイストたっぷりの従来型ホラームービーなんかに出るはずもない。普通のゾンビ映画とは一線を画す、まさに“健全な”アドベンチャー作品と化している。

 行きかがり上は主人公に数多く修羅場を潜らせる必要があるのは分かるが、普通の勤め人とは異なる非現実的なタフネスを付与されているというのが、何とも腑に落ちない。いくら国連の有能な外回りスタッフだったといっても、ゾンビどもを難なく蹴散らし、飛行機が落ちても重傷を負っても数シークエンス後には平気の平左で復活するという筋書きはかなり無理がある。これはブラピではなくシュワ氏やスタローン御大の仕事ではないか(笑)。

 もっと“一般市民が非常事態に直面した”というシチュエーションを前面に出した方が切迫感が増したはずだ。ゾンビ・ウイルスに対する方策が発見される終盤の展開は、それまでの派手派手しい画面の連続とは打って変わった地味なもので、このあたりも気勢を削がれる。マーク・フォースターの演出は可も無く不可も無し。ブラピ以外のキャストは名前も知らないような者ばかりで、しかも演技面・存在感ともイマイチ。主人公に拮抗するようなキャラクターを有名俳優に演じさせても良かったのではないだろうか。

 なお、原作者のマックス・ブルックスはメル・ブルックスとアン・バンクロフトの間に出来た子だというのは驚いた。コメディ映画の巨匠の息子がホラー作家とは、そっちの事実の方が映画自体よりもインパクトがある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ウィンズ・オブ・ゴッド」

2013-09-02 06:18:18 | 映画の感想(あ行)
 95年松竹作品。かけ出しの漫才師コンビが交通事故に遭い、気がついてみるとそこは1945年8月1日だった。同じ外見の戦時下の特攻隊員の魂と入れ替わってしまったのだ。敗戦を知る彼らは隊員仲間を説得し、なんとか特攻をやめさせようとするが、刻一刻と8月15日は近づいてくる。主演の今井雅之が手掛けた戯曲を舞台演出家の奈良橋陽子が監督。舞台の方は海外でも上演され、好評を博したという。

 これはつまらん映画である。この設定で何を描けばいいのか、バカでもない限り誰でもわかる。特攻という行為の冷徹な分析、それに対する徹底的な糾弾であり、それ以外はない。ところがこの映画は“それ以外”のことに終始し、本題を投げた。よって観る価値はないと断言できる。



 主人公の二人は、原爆投下の日さえ知らないアホな現代の若者なのだが、魂は入れ替わっていても肉体は戦時下の思想と技術が身に付いていて、だんだん特攻隊員としての“本性”が表面に出てしまう。この筋書きは一見ユニークなようでいて、批判の鉾先を巧妙にかわそうという作者の下心がミエミエだ。主人公がこういう二重人格的なキャラクターであると設定すれば、現代の若者が特攻を願うようになるという仰天もののシチュエーションも、可愛い恋人を残してまで死にたくなるような設定も、“二重人格だから仕方ない”で片ずけられてしまう。

 百歩譲って、現代の若者が特攻に魅せられていくという展開をゴリ押しするならば、そこには切迫した葛藤あって当然だが、これも“二重人格だからね”で終わってしまう。要するに、核心に迫れない作者の力量不足がこういういいかげんな設定を生んだのだ。

 “愛する祖国を守るために特攻する”(劇中のセリフ)、だからどうして祖国を守るため犬死にするのか、この映画ではこのことが一種の既成概念として扱われており、“なぜ”という問題意識はゼロだ。少しは物事を真剣に考えろと言いたい。

 序盤の舞台劇風の展開や、ラストの弛緩した現代の描写は、物語に何のインパクトも与えない。学校みたいな特攻隊の基地も奇をてらったつもりだろうが、失笑を買うばかりだ。悪い意味でまことにアマチュア臭い、困った映画である。よかったのは大島ミチルの音楽だけである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「少年H」

2013-09-01 07:20:05 | 映画の感想(さ行)

 面白く観ることが出来た。児童文学作家の山中恒や漫画家の小林よしのりに酷評された妹尾河童による原作は読んでいないが、元ネタを知らなくても十分楽しめる映画だと思う。

 昭和初期、神戸に住む小学生の妹尾肇はそのイニシャルから“H”と呼ばれていた。高級紳士服の仕立て屋を営む父と優しい母、そして妹の好子との暮らしは、さほど豊かではないが幸せなものだった。しかし時代は戦争の影が忍び寄り、肇にオペラのレコードを聴かせてくれたウドン屋の兄ちゃんが特高警察に引っ張られたり、元女形の舞台役者で映写技師の通称“オトコ姉ちゃん”に赤紙が届いたりと、暗い出来事が相次ぐ。

 さらには父が特高の理不尽な取り調べを受けたり、妹を田舎の親戚宅に疎開させたり、肇の一家も辛酸を嘗めることになる。神戸の町が焼け野原になった後に迎えた終戦、日本人のパラダイムは手のひらを返したように一変する。そんな風潮に、肇は納得出来なかった。

 興味深いのは、肇を通して描かれる“インテリの敗北”のようなものだ。肇の父の顧客の多くが、戦前から神戸に数多く住んでいた外国人であった。そして母は熱心なクリスチャンで、外国人と接する機会を頻繁に持つことが出来た。当然のことながら、一家には他の一般ピープルが知らない対外情報が多く入ってくることになり、自然とリベラルな物の見方をするようになる。肇はこんな環境の中で“自分と他者とは違う”という認識を持つようになったのも、仕方のないことだろう。

 しかし、両親が外国人と交流を持てたのは、何も特別なことではない。たまたまその環境に置かれただけの話だ。基本的には戦争で右往左往する他の人々と同じであったし、それ以前に平凡なカタギの社会人であった。もちろん両親もそのことを自覚していたが、幼い肇にはそれが分からない。

 その矛盾が大きく噴出するのが戦後になってからだ。結局自分はリベラルでも特別な存在でもなく、その他大勢と一緒の、一人の少年に過ぎなかったことをイヤというほど思い知らされることになる。そしてそれが、新たに人生を踏み出す第一歩となる。このあたりのホロ苦い描き方は見事だ。

 ただし、世に言うインテリ達(マスコミも含む)は戦争が終わっても自分の立場を見直さず、それどころか反省もせず、簡単に軸足を好戦から反戦へと移し、知識人としての看板を下ろすことはなかった。その悪影響は現在まで尾を引き、日和見と自己保身しか考えない反国益的な言説が罷り通っている。肇のような大人への通過儀礼を経ないまま“なんちゃってリベラル”にドップリ浸かった言論人への痛烈な一撃を、そこに見たような気がした。

 監督は降旗康男で、キャリアが長い割にはパッとしないこの演出家の、数少ない代表作になるだろう。とにかく展開で丁寧で、しかも冗長にならない。両親役の水谷豊と伊藤蘭は言うまでもなく本当の夫婦だが、実に自然体の良い演技をしている。妹役の花田優里音も可愛らしい。そのせいか、肇に扮した吉岡竜輝の存在感が少し薄くなってしまったのは残念だ。音楽も撮影も及第点。当時の神戸の雰囲気はまさにこのようであったと思わせる舞台セットも、かなり見応えがある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする