元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「時の翼にのって ファラウェイ・ソー・クロース!」

2013-07-14 06:15:58 | 映画の感想(た行)

 (原題:In weiter Ferne, so nah!)93年作品。「ベルリン・天使の詩」(87年)の続編である。前作で天使から人間になったダミエル(ブルーノ・ガンツ)の仲間であった天使カシエル(オットー・ザンダー)も下界の魅力に誘われて人間となるが、厳しい現実に直面するというお話。監督は前作と同じヴィム・ヴェンダース。

 だいたい「ベルリン・天使の詩」の後日談を作ろうという考え自体がおかしい。私はあの映画は傑作だと思っている。無味乾燥に見える天使の生活から、文字通り人間味豊かな下界の生活にあこがれて人間になる主人公を通じて、この世に生きるということの奇跡を、まさに祝祭的にうたい上げた珠玉の作品である。

 当然、霊的存在から生身の肉体になった主人公は多くの困難に直面するであろうことは誰でもわかる。それでも、どんな生活をしていても、“生きる”ということはそれ自体が奇跡であり、かけがえのない素晴らしいものであることを観客に実感させることが作品のテーマであったはずだ。

 ところが、この続編は“人間にはなったけど、東西ドイツ統合後はロクなこともないし、いろいろ苦労も多いよ”ということを言っているにすぎないのだ。そんなことはわざわざ続編作って教えてもらわなくても結構。日々人生の苦労(?)を味わってる観客には“ほっといてくれ”と言われるのが関の山だ。

 それでもなんとか退屈させないようにと、マフィアが登場してダミエルたちをピンチに陥れたり、ウィレム・デフォー扮する悪魔が出てきてカシエルを誘惑したり、女の天使としてナスターシャ・キンスキーをキャスティングしたり、果ては元天使のピーター・フォークが登場して誘拐されたダミエルの仲間たちの奪還作戦を指揮したり、アメリカ映画ばりの娯楽路線を見せたりする。でも、はっきり言ってヘン。雰囲気と合ってないし、やればやるほど悪あがきにしか見えない。

 よかったところといえば、ルー・リードのコンサート場面とゴルバチョフ本人がゲスト出演していることぐらい。2時間27分、居心地の悪さを始終感じる映画だ。

 それにしても“旧東ドイツの奴らはセックスと暴力以外関心を示さない。マトモな映画を観ようともしないクズだ”というセリフはけっこう重いものがある。ヴェンダースの本音かもしれないが、マトモな映画を撮れる新人が出てこないドイツ映画界の状況を示していてガックリきてしまった。
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「フィギュアなあなた」

2013-07-13 06:35:15 | 映画の感想(は行)
 見終わって、結局は石井隆監督はデビュー作の「天使のはらわた/赤い眩暈」の世界から一歩も出られないのではと思った。本作もいろいろと今風なモチーフを採用していながら、着地点は「赤い眩暈」と同じである。

 もっとも、一般的に言えば決してワンパターンが悪いということでもなく、手を変え品を変えて観客を単屈させないように“変奏曲”を展開してくれるならば文句はない。しかし、どうもこの監督は作品ごとにヴァリエーションを付けることは苦手のようだ。

 大手出版社の編集部に勤めていた主人公の内山は、上司の失敗の責任を押しつけられて閑職に追いやられ、そのまま会社を辞めてしまう。再就職活動も上手くいかず、鬱々とした毎日を送る彼は、ある晩飲み屋でチンピラ相手にトラブルを引き起こす。



 チンピラどもから逃げるうちに、内山は廃墟のようなビルにたどり着くが、そこで人間そっくりに作られた等身大の少女フィギュアを見つける。そのあまりに精巧な作りに驚いていると、人形は突如として動きだし、追っ手どもを始末してしまう。彼はそのフィギュアを家に持ち帰り、勝手に心音(ここね)という名前を付け、一緒に暮らすようになる。

 是枝裕和監督の「空気人形」と似たような設定だが、あの映画同様に細部の練り上げ方が足りない。主人公は自分の殻に閉じこもりがちのオタク青年という設定らしいが、そう思っているのは作者だけで、観ている側は“これのどこがオタクなんだよ”と思ってしまう。

 職場ではけっこう自己を主張し、極度に内向的な人間には見えない。しかもオタクがオタクたる所以であるマニアックな趣味も持っていない。部屋には申し訳程度にフィギュアが何体か置かれているだけで、自分だけの世界を構築しているようなタイプとはとても思えない。せいぜい過剰に挿入されるモノローグぐらいで“どうだ、オタクっぽいだろう”と居直られても困るのである。

 斯様に主人公が感情移入しにくいキャラクターなので、そいつの周りでいくら超常現象(?)もどきの出来事が起ころうとも、こっちは“どうでもいい”と思ってしまう。人形との奇妙な共同生活にしても、大して面白いエピソードが展開されるわけでもない。



 そして終盤はやっぱり「赤い眩暈」の方法論の二次使用だ。ただしあの映画には観る者に共感を覚えさせるようなストレートな作劇と、マジメなドラマ運びがあった。しかしこの「フィギュアなあなた」にはそれがない。過去に何度も取り上げられて手垢にまみれたメソッドを、小手先の変化球で取り繕って見せたというのが実情だろう。

 だが、この映画は観る価値が無いのかといえば、そうではない。石井監督の前作「ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う」が主演女優の佐藤寛子の柔肌を堪能する映画であったように(爆)、本作はフィギュア役の佐々木心音のエロいボディを鑑賞するためのシャシンなのだ(笑)。彼女のカラダは実にワイセツで、イメージビデオがバカ売れしているのも頷ける。かと思えばチンピラ相手に大立ち回りを演じたり、空中バレエを披露してくれたりと、けっこう身体能力が高いのも見逃せない。

 主人公に扮する柄本佑は熱演だが、演出が上滑りしている分、空回りしている感が強い。あとのキャストは特筆するべきものなし。音楽担当はお馴染みの安川午朗だが、劇中に流れる「ラブ・ミー・テンダー」が印象的だ。もっとも同じく往年のナンバーである「テネシー・ワルツ」を使用した「赤い眩暈」との類似性が指摘されるので、諸手を挙げての評価は出来ない。
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「ワンダフルライフ」

2013-07-12 06:15:40 | 映画の感想(わ行)
 99年作品。天国への入口で死者たちの面倒を見るスタッフを描く是枝裕和監督作。彼らの仕事は、死んだ者たちに人生の中で一番楽しかった想い出をひとつ選んでもらい、それを映像化して見せることだ。そうすると、彼らはその想い出を抱いたまま天国へ旅立つのだという。

 ハッキリ言って、ダメな映画である。デビュー作の「幻の光」を観た時も思ったが、是枝監督の姿勢というのは“映像美とはこういうものだ”とか“自然な演技ってのはこういうものだ”とか“ドキュメンタリー・タッチとはこういうものだ”とかいう具合に、自分一人で納得して観客に押しつけてくる傾向がある。さらにテレビドラマ的な明解・平板な作劇に対する憎悪にも似た気持ちもうかがえる。



 まあ、そのスタンスはいいとして、致命的なのは肝心の実力がまるで付いていってないってこと。今回も、頭の中だけで作ったようなホラ話を約2時間保たせられない。

 ディテールも大甘。だいたい、人の一生を記録したビデオテープとやらがあるのなら、わざわざセコいセットで撮り直す必要なんてあるものか。デジタル合成ぐらい出来ないのだろうか。観ていて恥ずかしくなるような“ドキュメンタリー・タッチもどき演技”も願い下げ。主演二人(井浦新と小田エリカ)は救いようがないほど大根。脇に寺島進や内藤剛志、谷啓、伊勢谷友介、吉野紗香、香川京子、由利徹といった多彩な顔ぶれを配しているにもかかわらず、大した演技もさせていない。

 それにしても“良い思い出だけを抱えて永遠の時を送る場所”である天国というのは、あまり愉快な所じゃないようだ。退屈で死んでしまう(もう死んでるけどさ ^^;)。
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「エンド・オブ・ホワイトハウス」

2013-07-08 06:21:52 | 映画の感想(あ行)

 (原題:OLYMPUS HAS FALLEN)アクション映画としては凡作だが、本題とは関係のないところが妙に面白かったりする。まず、同様のネタで「ホワイトハウス・ダウン」なる映画も作られていること。

 9.11同時多発テロから10年以上経っているとはいえ、アメリカ本土が攻撃されたショックから完全に抜け出せない映画人が少なからずいるのだろう。さらにボストンマラソンの会場でのテロ事件も記憶に新しく、そんな危機感が全米を覆っているというのも事実かと思う。

 そして、北朝鮮系ゲリラがホワイトハウスを占拠するという非常事態において、アメリカ当局が協力を呼びかけるのが中国とロシアとインドであるというのは失笑した。第七艦隊の拠点の一つがある我がニッポンは最初から存在しないかとのごとく扱われている。韓国の扱いはもっと酷く、政府中枢に易々とゲリラ側の人間が複数入り込むという失態を演じるばかりではなく、首相なんか人質にする価値も無いとばかりに簡単に撃ち殺されてしまう。

 アメリカにとっては中露印だけが交渉するに値する相手であり、核を持っている(らしい)北朝鮮はかろうじて悪役を振られているものの、その他の国は限りなく軽く見られているのだろう。こんな構図を見せつけられるに及び、やはり日本も他国からナメられないために核武装を議論すべきだと思ったりする(爆)。

 さて、ゲリラの奇襲により簡単に制圧されたホワイトハウス内で孤軍奮闘するのが、ジェラルド・バトラー扮する元シークレットサービスだ。ちょっと見れば「ダイ・ハード」に設定が似ているように思うが、緊張感や脚本の出来において雲泥の差がある。本作の主人公の行動は行き当たりばったり。しかも、無意味に強い。例えて言えば、「沈黙」シリーズのスティーヴン・セガールに近い。

 そもそも、正体不明のガンシップ(局地制圧用攻撃機)が堂々とワシントン上空に侵入してくる導入部から噴飯ものだ。さらには、いつの間にかホワイトハウスの周辺に武装した奴らが続々と集結している。公安当局はいったい何をやっていたのだろうか。相手に強力な武器があることを予見していながらヘリでの急襲に固執する軍幹部の脳天気さも、ただただ溜息が出る。

 まあ、要するにマジメに対峙するよりも突っ込みどころを指摘しながら笑って観るのがふさわしい映画だ。アントワン・フークアの演出はいつもながら大味。ただ、アクションシーンはハデなのでそれほど退屈はしない。

 モーガン・フリーマンやアーロン・エッカート、アンジェラ・バセットといった脇の面子も大した仕事をさせてもらっていない。そういえば「ホワイトハウス・ダウン」の監督はフークア以上に大雑把なローランド・エメリッヒなので、こっちもあまり期待出来ない(苦笑)。
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「学校II」

2013-07-07 06:26:23 | 映画の感想(か行)
 96年作品。北海道の養護学校を舞台にしたヒューマンドラマ。山田洋次監督による「学校」シリーズの第二弾だが、夜間中学を題材にした第一作とはストーリーは繋がっていない。その年のキネマ旬報ベストテンで8位にランキングされている。

 劇中、主人公である教師(西田敏行)のこんなセリフがある。“あんな天使のような心を持った子供たちがなんで普通の生徒と一緒に勉強できないんだ!”。私は椅子から転げ落ちそうになった。ハッキリ言おう。そんな重大なことを軽々しく口にするもんじゃない。

 もちろん、決して知的障害者を差別しているわけではない。ただ、健常者と彼らは違うということなのだ。書き方に問題があると言われるならば、“健常者中心の競争社会の最前線では知的障害者との共存はかなり困難だ”と言い直そう。



 学校だってある一面から見れば競争社会だ。この映画を観て涙する大人たちは、自分の子供がもし学校で勉強そっちのけで授業中に奇声を発する生徒や失禁する生徒の世話までしなきゃいけなくなったらどうなるのか考えたことがあるのか(しかも小学校ではなく映画のように高校で)。現実は厳しい。安っぽい理想論でお茶を濁すヒマはないのだ。

 もし“そもそも、そういう現実が間違いである”と言いたいのなら、こんな松竹大船調のお涙頂戴予定調和ご都合主義的なアプローチはやめることだ。容赦ないリアリズム演出で観客をねじ伏せるか、いっそのことファンタジーにしてしまうとか、別の方法があるはずだ。だいたい何だ? 自分の娘もロクに教育できない奴が養護学校で生徒の信頼を得られるわけないだろ。

 前作「学校」(93年)も大した映画じゃなかったが、夜間中学という題材の面白さと、突っ込めば成果を上げそうな素材が多く転がっていることから、とりあえず最後まで観ていられた。しかし、今回の養護学校という舞台は、比較的良く知られた素材である反面描き方がステレオタイプになりがちだ。映画はモロにそれにハマっているというか、雰囲気がリアルっぽいのにもかかわらず、印象に残るようなエピソードは見当たらず、出てくる教師たちに魅力がなく、それでいて全体として説教臭いという、困った作品なのだ。

 それにしても、ラスト近くの熱気球に乗せられた二人の生徒を追いかけていくうちに何となくドラマが収束してしまうという強引な展開には目が点になるばかり。今までの苦労は何だったのか(-_-;)。
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「旅立ちの島唄 十五の春」

2013-07-06 12:49:07 | 映画の感想(た行)

 シンプルな構図の青春ドラマだが、シンプルな故に突き詰めれば大きな求心力を発揮する。しかも、南大東島という極上の舞台が用意されていて、鑑賞後の印象は格別だ。

 主人公は南大東島に住む中学三年生の優奈。地元の少女民謡グループのリーダーでもあるが、この島には高校が無く、卒業後は島を出なければならない。島で暮らしているのは家族の中で彼女と父親だけだ。兄は那覇で働いており、島にはめったに戻ってこない。姉は高校進学と同時に島を出たが、元々この島の出身ではない母は、姉に付き添うことを口実に逃げるように島を後にしている。優奈は両親がいつかヨリを戻してくれることを願いつつ、中学最後の学年を過ごす。

 誰しも子供から大人へのステップを上るものだが(まあ、トシ取っても頭の中は子供みたいな輩もいるけどね ^^;)、この映画のヒロインは生まれ育ったロケーションと“家庭の事情”により、世の中の相場からかなり早い時点で“大人”になることを義務付けられてしまう。通常ならば、親身になって面倒を見てくれるはずの父母は別居状態。兄と姉も自分のことで精一杯だ。加えて15歳で島を出て自立しなければならないことは“決定事項”でもある。

 このような設定だと主人公が捨て鉢になって道を誤ってしまう筋書きが用意されるのも当然だが、本作ではそうならない。考えてみれば、年若い登場人物が(逆境に負けて)道を踏み外すというプロセスには、その契機となる環境が付随しているものだが、この映画においてはそういう“後ろ向きのモチーフ”というものが介在する余地は無い。

 何しろ主人公をそそのかす悪い仲間は島には一人もおらず、それどころか地域総ぐるみで若いヒロイン達を見守り育てているのだから。そのため、主人公の成長物語をいわば不純物フリーで提示することが可能になっている。

 優奈の望みも、ドラスティックな“大人の事情”の前には無力で、また彼女の男友達も“家庭の事情”で挫折を余儀なくされる。そんな理不尽な境遇を受け入れた上で、毅然として明日を信じ、その想いを最後のコンサートでの別れの曲に託す場面は感動的だ。

 オリジナル脚本で挑んだ吉田康弘の演出は粘り強く、南大東島の豊かな自然と人々とを対比させる画面構成も見事だ。主役の三吉彩花は好演で、悩みつつも手探りで前へ進もうとする十代の姿を上手く表現している。前作「グッモーエビワン!」でも印象が良かったが、今回は歌や三線の演奏まで披露するなど芸達者なところを見せる。ルックス面でも正統派の美少女だし、今後の活躍が期待される。

 両親に扮しているのが小林薫と大竹しのぶというのも見逃せない。ことさら能動的な演技を仕掛ける場面は無いが、ドラマをしっかりと支える存在感はさすがだ。主人公が島を去るラストの哀切も忘れがたく、余韻は深い。観て損の無い佳編である。
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「ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ」

2013-07-05 06:28:55 | 映画の感想(は行)
 (原題:Hilary and Jackie )98年イギリス作品。65年に吹き込まれたジャクリーヌ・デュ・プレとバルビローリ&ロンドン響によるエルガーのチェロ協奏曲は間違いなく名盤だ。もちろん、ヨー・ヨー・マとかハレルとか、戦後すぐにリリースされたカザルス御大の力演など他にも良いものはあるし、デュ・プレ自身も70年にバレンボイム&フィラデルフィア管と再録しているのだが、完成度の高さでは65年盤の方が突き抜けている。これを上回る演奏は当分、というか、たぶんもう出ないのではないかと思う。



 で、この伝記映画だが、目を見張るような出来ではないものの、マジメな作りでそれなりに見応えがある。少なくとも、同じく実在のクラシックの音楽家を主人公にした「シャイン」よりは完全に上。監督はドキュメンタリー出身で本作が劇映画デビューとなるアナンド・タッカーだが、ソツのないドラマ運びが光る。

 同じエピソードをジャクリーヌの姉ヒラリーとジャクリーヌ自身の双方の立場からそれぞれ描くというのは悪くないアイデアで、凡人と天才という普遍的なテーマを強調することに成功。そして冒頭とラストをつなぎ合わせる手法も効いている。

 演奏場面は破綻がなく仕上がり、映像も的確である。エミリー・ワトソンは好演。ヒラリーに扮するレイチェル・グリフィスやボレンバイム役のジェームズ・フレインも良い仕事ぶりだ。見終わって、デュ・プレのもうひとつの名盤であるシューマンのチェロ協奏曲のディスクを購入したくなった。
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「インポッシブル」

2013-07-02 06:26:33 | 映画の感想(あ行)

 (原題:The Impossible)ハードな場面の連続だが、実録映画らしい切迫感と力強い演出、そしてキャストの頑張りにより見応えのある映画に仕上がっている。

 2004年、ベネット夫妻と3人の子供たちは、クリスマス休暇を利用してタイのリゾートホテルにやって来る。ところが12月26日に大地震が起き、ホテルも津波の直撃を受ける。母マリアと長男のルーカスは水に呑まれながらも何とか生き延びるが、マリアは重傷で歩くこともままならない状態だ。それでも生き残った現地の人たちに助けられ病院に運ばれた二人だが、当然のことながらそこはケガ人の山で、いつ治療してもらえるのか分からない。

 マリアとルーカスはヘンリーとあと二人の子供達の安否は絶望的だと考えいていたが、実はヘンリーと幼い子供達は無事であった。ヘンリーは行方不明になっているマリアとルーカスを見つけるため、各地の避難所や病院を探し回っているのだった。

 スマトラ沖大地震の津波を生き延びた家族の話を元にしており、主人公達の国籍がスペインからイギリスに変わっていることを除けば、ほぼ事実を追っているという。もちろん実際は映画では描けないほど悲惨な光景が繰り広げられており、映画化にあたってはそのあたりの“手加減”はあるのだが、次から次へと提示されるショッキングなモチーフの数々は、観ていて息苦しくなってくる。

 日本人としてはどうしても東日本大震災を重ねずにはいられないが、あの惨事の中で助け合いの精神を発揮した人々が大勢いたように、この映画でもそれが描かれる。マリアを助ける村人達の献身的な努力を見せる場面や、マリア自身がルーカスに対して他の人たちの手助けをするように指示したり、居合わせた被災者がヘンリーに携帯電話を渡して本国の父に電話をするように言うシーン等には、思わず目頭が熱くなった。

 この一家が助かることは最初から分かっており、ラストもそうなるのだが、決してハッピーエンドではない。ルーカスが病院の中で大勢の患者達に人捜しを頼まれるのだが、ごく数人を除いて結局それに報いることが出来なかったように、生き残った者はこの悲劇に対する無力感を覚えたままこれからも生きていくことになる。しかし、自分が多くの他人によって生かされていることを強く認識したのも、また彼らである。これからの彼らの人生に幸多からんことを願わずにはいられない。

 フアン・アントニオ・バヨナの演出は終盤に“映像派的ケレン”が挿入されている点は気に入らないものの、骨太の求心力は発揮出来ている。夫婦を演じたナオミ・ワッツとユアン・マクレガーの演技は素晴らしく、特にワッツのパフォーマンスには圧倒された。アカデミー賞候補になったのも当然だろう。そしてルーカス役のトム・ホランドはナイーヴな力演を見せ、今後に期待を抱かせる。
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DynaudioのスピーカーとLUXMANのアンプ

2013-07-01 06:15:59 | プア・オーディオへの招待
 先日、LUXMANのプリメイン型アンプを何機種か聴き比べる機会があった。とはいえ、同社の製品は過去に幾度も接したことがあるのだが(笑)、実を言えばこの試聴会に足を運んだ個人的な目的は、アンプよりもスピーカーの試聴であった。デモに使用されたのはデンマークのDynaudio社のFocus 160で、次回のスピーカー更改の際の有力候補なのである。

 Focus 160は前に一回聴いたことがあり、その時は好印象だったが、LUXMANのアンプで鳴らすのを聴くのは初めて。同社のプリメインアンプはあまり強いクセがないと言われるのでスピーカーの素性は分かると思うのだが、今回もいい音で鳴っていた。

 解像度や情報量をしっかり確保した上での、スムーズで聴きやすい中高音。締まって音像が整理された低音。クリアなのに決して冷たくならず、明るく温度感がある。居合わせたLUXMANの営業スタッフが“何を鳴らしても破綻しない。クォリティの高いスピーカーだ”と言っていたように、ジャンルを選ばない汎用性の高さもある。



 ただし、Dynaudioは近々別のラインナップのモデルチェンジを予定しており、そっちの方の音にも興味がある。さらにその出方次第ではFocusシリーズの実売価格が変動する可能性もあるので、私としては導入を急ぐつもりはない。他社製品も含めてゆっくり検討したいところである。

 ついでながら(←「ついで」なのかよ ^^;)、LUXMANのプリメインアンプのインプレッションも述べておこう。Focus160に繋げたのは、L-505uXL-507uX、そして以前このブログでも紹介したL-305の3機種である。

 L-505uXおよびL-507uXに関して、両者の音質差は“価格通り”である。L-507uXの方が情報量や音場の広さに関して完全にリードしている。とはいえL-505uXも決して悪い製品ではなく、この価格帯としてはしっかりと作ってあると思う。強いクセも無く、接続するスピーカーを選ばない。

 だが、このL-500番台の製品は(同機のユーザー諸氏諸嬢には悪いが)個人的にあまり面白味が無い。同社の上級セパレートアンプのような作為的にハイファイ度を強調したような展開はそれほど見受けられないのは有り難いが、あまりに普通すぎてこちらにグッと迫ってくるような個性が(私には)感じられない。



 安い方のL-505uXでも20万円は優に超える(一般ピープルから見れば)“高級品”だ。繋ぐスピーカーが極端に限定されるような強すぎるキャラクターは不要だが(笑)、このクラスのアンプになると聴感上の物理特性の高さや汎用性以外にも何かチャームポイントが欲しくなる。でも、L-500番台の製品にはそれが無い。

 それと、国産アンプ全般にも言えることだが、L-500番台の製品のデザインも本当につまらない。図体も無駄にデカい。LUXMANの担当者曰く“ユーザーが現在保有しているアンプ類とデザインを合わせるために、シルバーとシャンペンゴールドカラーの2色を用意しています”とのことだが、そんな消極的なエクステリアの動機付けではなく、もっと“攻め”のデザイン手法でオーディオに興味の無い人でも惹き付けるような外観にして欲しかった。

 対してL-305は伝統的な“LUXトーン”と呼ばれる音質とレトロな意匠をフィーチャーしており、そのコンセプトが面白い。もちろん繋ぐスピーカーは選ぶタイプで、その意味では“難のある製品”とも言えるのだが、それを勘案しても所有欲をくすぐられるモデルである。こういう“カラーがはっきりした商品”も良いものだ。
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