ぶちょうほうの画(え)日記(一語一画(え))

亭主「ぶちょうほう」の身の周りのいろいろな風物を「画(え)日記」ふうに綴っています。

朝は朝星 夜は夜星  「もう」と「まだ」・・・・・あたりがうす暗いときの使い分け

2015-03-11 07:05:46 | 草花
家の近所に、ある技能を持つ職人さんが住んでいます。
そのお方は大変な働き者で、日の短い今時なら「朝は朝星 夜は夜星」を地で行っています。
ぐうたらな小生なら、山に行くときだけは、「朝星」と渋滞避けの「夜星」での往復となりますが、勤労の中で、これを何年も続けている、その職人さんの働き振りには頭が下がります。

山の話が出たついでに申し上げますが、ここのところ「膝休め」をしていて、山の記事が途切れます。

先日三河最奥の山を歩きましたが、その日の朝は目覚まし時計の設定を間違えてしまって、「もう」明るくなってしまった時に目が覚めるという失敗をやらかしました。
しかし、下山点に戻ったときは、幸いにも「まだ」明るかったのでした。
(「もう」と「まだ」の使い方の仕込みネタの部分でした。)

生活の場面で下のようなこんな例がありますね:

薄暗い中に、向こうから男性が近づいてきます。
でもその人が誰なのかは、はっきりとは顔がわかりません。

そのときに発する言葉が英語ならば、「Who is he?」ですね。
この英語を江戸時代の人が訳すなら

「彼は誰?」(か は たれ?)となることでしょう。
もしくは
「誰ぞ?彼」(たれぞ かれ)となるのではないでしょうか。
・・・・・・・・・・・・・・

この「誰」と「彼」の組み合わせで出来た言葉に
「かはたれ時」(彼は誰)と、「たそがれ時」(誰そ彼)があります。

両方とも「あたりが薄暗くて、その人がが誰なのか、はっきりわからない刻限」の意味でした。
この「かわたれ時」ですが、始めのうちは「明け方と夕方の薄暗い時刻」の両方を意味していたようです。
しかし、後に明け方を「かわたれ時」とし、夕方は「たそがれ(黄昏)時」と区別するようになったそうです。

つまり朝の「まだ」暗いときは:「かわたれ時」で、
夕方のもう「暗く」なったときは:「たそがれ時」となったようです。

家周辺の「まだ」と「もう」
○「まだ」の部
メジロ:メジロが「まだ」庭に来てくれています。

11月の下旬からカリン酒を造っていました。そろそろカリンの果実を漬け込み液から引き上げ時になり、それを引き上げてメジロの餌台に載せておいたところ、果実から滴り落ちた汁を吸いに来ました。



見ていると大分ご執心のようで、かなり近くまで寄らせてくれました。長い時間この場所にこだわり、何度も糞を落としながら、汁を飲んでいました。



どこまで近寄らせてくれるか試そうと思い、歩き出したら、途端に飛び立ってしまいました。




○「もう」の部
付近の民家で「もう」サンシュユが咲き出しました。 春が近づいていますが、昨晩からの雪を見る俄かのこの寒さです。

ネットのお友達のページでサンシュユの花を見ましたので、「我も・・・・」と思い、付近の民家にやってくると、なるほど春に先駆けて、花が咲いて来ていました。


他人の庭のものを背丈よりもよほど高い垣根越しに空を見上げる位置に咲いていますので、なかなか気に入った画にはなりません。





東日本大震災
あれから今日で丸4年経ちました。復興の進捗が「まだ」ですが、支援体制に「もう・・・」の手抜きは断じてあってはなりませんね。
あの大災害の恐ろしさと、被災された皆さんがその後もご苦労をなさっていることを、私たちは決して忘れるものではありません。
非力な小生は、現地まで出かけてお力になれることはできず、口で言うだけになってしまいますが、どうか被害に遭われた皆様が健康を保持されて、心を明るく・粘り強く生活され、元のもの以上のものを創り上げられることを心から祈願しております。
コメント (2)
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