ウヰスキーのある風景

読む前に呑む

夢にて少女となる

2018-07-09 | 雑記
もう二ヶ月近く前だかに、とあるところで聞いたことがある。

目が覚めたらすぐに見た夢の内容を書きとめることを繰り返すと、記憶力があがるという。

毎日見ている、のかもしれないが見た覚えがなければ書かず、たまに疲れていて書くのをサボったりはしているが、何度か書いてきたものである。

実際やってみると、小学生向けの方眼ノートでは文字数が足りないのではないかと思えるくらい、書いていると足りない時もある。

記憶のコツというのは、覚えるのではなく思い出すことだとは、先日、そのとあるところの別の箇所で読んだものだが、その理屈にそった訓練と相成る。

教えていた人が「忙しい朝の五分をその時間にさけれるかどうかが分かれ目」という風なことを言っていたが、書いていたら三十分以上経っていたので、我ながら書きすぎだと思うこともしばしばである。

書きすぎる気がしたので、細かい描写はあきらめつつ書いているのだが、やはり色々と訳が判らない光景があったりする。


昨日は夜勤明けで、日勤の社員(以前シャイン氏と紹介した人物)が何かの流れかはわからないが、飯をおごってくれるとのことで、夜勤明けのもう一人と日勤全員でピザを食べていた。

挙句の果てに、自分は近くのコンビニでワインを買って来て、一人だけ飲むという有様。家に帰ったのは夕方だった。


そのせいか、日付が変わる前から寝ていたのに、今日はかなり疲労感が激しく、昨日、家路の途中で買っておいた米をようやく開封し、米を炊いて茶漬けを食べたりしていたが、やはり、どうにもならない。

今週は家でゆっくりしようと思っていたので、願ったり叶ったりではある。そう思ったのもあり、食べてしばらくしてから籐の枕で昼寝していたら、変な夢を見たものである。

詳細は上記の訓練に従ってノートに書きとめたのだが、アーミテージみたいな大男の足元に自分がいて、その大男を見上げながら何やら話しているというのがあった。

「何でかな」と言いながら不思議に思って首を傾げると、その大男が身体ごと同じ方向に傾く。向こうも「何ででしょうね」と言っていたかもしれない。

面白かったので反対にやると、大男もまた反対に動く。見た目以上の優しげな雰囲気の、謎の大男であった。

それから、大男を見上げていた視線から外れて、それをやっていた自分と思しき姿を別の視点から見ると、どうも小さな女の子だった気がする。

その後、何かを食べに行くとなり、喜んでパタパタ走っていくさまは正に少女。話を聞いていなかったのかは判らないが、乗る車を間違えるさまも正しく少女であった。

荘周夢にて胡蝶となる、とは漢籍にあるが、夢にて少女となるとは、実に不思議な気分である。



さて。またいつもの話になる。


文明とその生活に溺れた存在を憎んで、森での生活こそが地球とそこで生まれた人間のためのものである、と考え、実践し始めたラクダ達がいると、何度も書いてきた。

ラクダ云々も何度も説明してきたので割愛するが、単なるあだ名である。ゴリラみたいなごつい人にゴリラというのと同じだと思ってくれればよい。

いきなりだが、一つ問題をだす。すぐ下に答えを書くので、答える必要はないが、考えてもらいたい。

現代社会には、数多の宗教がある。古いのもあれば、新しいのもある。

先日、「宗教とは生活パターンである」と書いたので、混乱されるかもしれないが、そのことは措くとして、一般的な認識での宗教というもので考えてもらう。

では、本質的な宗教らしい宗教と、カルト宗教とを分けるものはなんであろうか?



それは、実に簡単な話である。「これこれを実践すれば幸せになれますよ」と言っているか言わないかである。

言わないのが本当の意味での宗教。言っているのは古今を問わずカルト宗教と相成る。

どちらにせよ、上記で断りをいれた「宗教は生活パターン」という意味では、どちらも宗教とはなる。

この区分は、カルト宗教とは言わなかったが、作家のひろさちやが書いていた区分である。ホンモノ宗教とニセモノ宗教という分け方で、ここでカルトと書いたのがニセモノ宗教に相当する。


釈迦は別に悟れば幸せになるとは言っていないし、何かに寄れば悟れるとも言っていないのである。

また、イスラムは神が創られたこの世での生活を正しく実践すれば、死後に神の元へいけるなどとは言っていない。

死後の話は死後のことで、生きている人間には判らない。それは神の決めたことだから。という訳である。

それはともかく、神のお創りになられたこの世でルールを守って皆仲良く暮らしましょう、というのが、イスラムである。

乞食にものを上げたりするのは、死後、神の元へ行けるからではなく、こうすることがお互い喜ばしくこの世を生きていくことだから、という訳であって、義務感だとか正義感でやっているわけではなく、喜んでやっているのである。

日本でも古来から言う。情けは人のためならず、である。回りまわって自分のためになるのだよと。


それなので、皆が森での生活を行えば地球はハッピー!なんぞというのは、大昔からあるカルト宗教である。

似たり酔ったりではなく寄ったりというより、パクリ元はニューエイジであって、彼らの志すものもまた、「古きよき生活」であって、森で原始人が暮らしていたころの生活を焼き直ししたというわけである。

その程度なので、理想に生きて理想に死ぬつもりもないのだろう。肉は一切食わないで生活している、某スポーツドクターのやり方を志していたはずなのに、「身体が喜んでいるから」と、自然に近いという理由で、草だけ食っている牛肉を食べたりしている。

肉を食う食わないはどうでもよい。理想を実現する気がないということだけは判ればよい。

それは現実の模倣に堕しているのである。理想はどこへやら。

文明生活と文明人を憎む彼らは、ただただ、その二つをひっくるめて現代人と言えばいいのだが、現代人となんら変わるところはなかったのである。

彼らのカルトっぷりは以前書いたが、改めて書いておく。

「馬鹿な人類はイルミナティに滅ぼされるがよい」である。

先日、死刑が執行されたオウム真理教の教祖と幹部何名かは、自身の組織で「馬鹿な人類」の粛清を実行したものである。

当時抱いていたであろうこの理想が他人任せという間抜け振りである。己の健康とやらもまた、森での生活という環境任せである。

自身で出来ることをしようとしない奴が、人に助けてもらえる道理はない。また、見える物からしか考えないのだから、見える森のことしか考えられないのである。

このような視野狭窄が地球などと語る。というより、自身の固定観念による地球どまりの考えしか披露していない。「地上天国」なんぞといっていたが、エベレストの天辺は天空にあるように見えるが、あれは地上ではないのか?蟻の視点からしたら、人間の目線の高さは天空であろう。


彼らの生活ぶりは実に楽しそうである。まあ、ネットのインスタもどきでそう書いてあるだけで、実際は知りようがない。


しかし、そうとしても、それは一時のものである。森や地球がなくならない限りという有限のものでしかない。明日どうなるかは、拙にも彼らにも実際は判らないのである。

こういう(明日死んでいるかもしれないということ)、本当はごく当然のことを言うと、愚兄に怒られたものであるが、その「当たり前」が本当は当たり前ではないと感じないのが現代社会なのは言うまでもない。


森は彼らにとっての財産である。それが破産した時、彼らはどう思うのか?森の悉くが消えうせてもなお、希望を持てるのだろうか?



砂漠を通り抜けられる人は、暑さや喉の渇きに人並み以上に耐えられる体を持っているからではない。

それは希望を持っているからである。その希望のイメージの中で生きているので、我慢しようと思わずに暑さも喉の渇きも気にならなかったりするという。


現代社会の生活を砂漠と感じるならば、この砂漠を抜けた先の楽しみを胸に抱くべし、である。



森もビル街も、砂漠に変わるときが来ないとは限るまい。既に例えて言ったが、物があっても砂漠に感じる人もいるのだから。


彼らをラクダとあだ名したものだが、彼らでは砂漠を越えられまいよ、というのが拙の思うところである。ラクダの名折れであろう。

あれらは、ビル街のみを現代文明として、また砂漠だと思いなしているのだから。



では、よき終末を。