ウヰスキーのある風景

読む前に呑む

歯車は回る、されど進まず

2022-06-29 | 雑記
凡そ一年近く放置していたこのブログも、消えることなくまだ存続している。

今もたまに読みに来られる方がおられるようで、感謝の念が絶えない。


去年にも書いたと思われるが、以前の職から放り出され、今はまるっきり違う仕事に着いている。
それまでは夜勤で朝寝て夕方から仕事、夜が明けたら日中ぶらぶらしてから帰るといったのが、朝起きて夕方帰ってまた次の朝、というよくある形に変貌した。
その上肉体労働である。ただ、人員が減ったため、就業した当初は数人で行っていた仕事を己一人で回すという状態になっている。要するに二人前の仕事量と言える。

今は休みになると身体が痛くて動きたくない、動いても動きづらいという辛いとしか表現できないような日が多々あった。
今日は比較的軽症といえるが、休みだから楽しもう!という氣分になりづらいところではある。用事があったのでそのために外出して戻って来て、これを書き始めた。


さて。先週のことであった。

同居している弟と一悶着あった後の金曜日から日曜に掛けて、弟は帰宅しなかった。

日曜は仕事なので夕方帰宅すると、弟の家財道具の大半、机といった大型の家具までもが綺麗さっぱりなくなっていた。
書置きなどもなく、電話にメールもないし、電話にも出ようともしない。といっても23時ごろにかけたのだが、いずれにせよ、今も何もない。

親に電話してみたが、何も知らされてないようだった。ただ、以前からお互いの関係が芳しくないことは伝えてあったので、特段、驚いてもいなかった。

何があったのかを以下に述べる。

水曜夜、こちらが食事をしている最中に弟帰宅。弟は料理を始める。
出来上がった料理を自室に持っていったのでこちらは自分が使った食器を洗う。
そこに弟がやってきて、食器を片づけ始めたので「お菓子買ってきたぞ」と伝えると、「そんなことより流しの生ごみ捨ててない」と明らかに自分の機嫌が悪いだけから来た口調で言い出す。
「俺はあんまり生ごみださんし、兄貴の方が出すだろう。俺は多く出る程やった時はすぐ取り換えてるから」と吐き捨てるように続けた。

「おう」と答え、弟が部屋に去ってから、生ごみを叩きつけるように片付け、分けるつもりだった菓子は握り潰して一緒にゴミ箱に投げ入れた。

ただただ己の機嫌が悪いのを解消するための言い草だったことを見抜いたので、こちらも即座に機嫌が悪くなったというわけである。

思い切り部屋の戸を閉じてしばらくすると、弟が声をかけてきた。

「今のは言い過ぎた」というのだが、その後は上記の通り。「忙しくて余り寝られなくてイライラしてて」などと。

ゴミの量がどうこういうなら、外に出すゴミ出は週によってお互いの量が増減したりするだろうに分担してない(弟がいつも先に捨てているが)よな?
それにコーヒーの殻入れてあるのはなんだ?ほとんど出してないってなんだ?と詰問すると、「あそこは一時的に水切りする場所だから」と言い逃れをしようとする。
答えに窮したのか、とりあえず言い過ぎたことは謝る、という風に来たので「わかってたらいいよ」と横柄に返した。

すると弟は自室に戻って部屋の戸をさっきこっちがやったように大きな音を立てて閉めたり、風呂場で何やら大きな音を立てていた。

さらに大きなことを後日こちらがするのだが、その結果が最初に述べた話になる。

とはいえ、もう少し上記の状況を考察しようと思う。


台所の生ごみ云々は、住み始めた当初にこちらが先ほど弟が述べたような具合で押し付けたことがあった。
鬱病云々だったとかいうので、衛生には氣を付けた方がいいのだろうと考えすぎた結果ではある。
何故考えすぎたか、についても思い当たることを書く前に思い出したが、引っ越し前の状況から仏心を無駄に出し過ぎて心配し過ぎたからではある。

ともかく、余り現実的でないやと結局そういうやり方はしなくなった。しかしまあ、拙も間抜けなので「捨ててねぇ!」と直接怒鳴ったりはしなくても大げさな音を立てて捨てていたこともある。

これを踏まえて上記の弟の態度を見て、違和感を覚える人はいるだろうか?

昔怒られたことを根に持ってやり返しているだけ、というのは見て取れるだろう。

それぐらいなら、たまたま機嫌が悪かったから、で済むとは言わんが、そうなる。


しかし、そうとは言えないのである。

常にこうなった場合、弟はこう言う。「俺はやってるから」と「兄貴はやってない」をセットでいう時もあるが、こうである。

根に持っているのだが、持ち方がどうも奇妙である。言われたことを言われた通りにだけやっている、である。

これは他の例でいくつも見受けられた。

スパゲッティの電子レンジ調理器というのがある。水とスパゲッティを入れてレンジにかけて、終わったら付属の蓋を被せてお湯を切るという形のものである。

かつて拙が夜勤だった時はあまり影響はなかったので、水切り籠に「別に拭かずに乗せても構わない」とは当初は言ったものである。

仕事前に起きて料理することも当時はなかった。

しかし、去年から朝飯を作って食べるようになったりして、仕事が変わったことを受けてか弟は何かの話の折りに「状況が変わったから」などと述べていたので、何か考えて動くのだろうなと思っていたら、皿は相変わらず拭かない。
皿はまだ浅いので乾く方だが、他の食器はほぼ濡れているのと変わらない状態だったり、件のスパゲッティ調理器はくぼみに水がたまったままである。

この器についてはもっと前に水気をまったく拭くどころか切ろうともしないので、「せめてこう叩いて落とすとかやってくれんか?片づけた先がかびたりするだろう?」という風に伝えたら、そうやるようにはなった。
しかし。せめて、と言ったかどうかはもう定かではなくなったのだが、それ以上の行動は一切しない。
言われたことを言われた通りにだけやって、「俺はやってるから」なのである。前後の話は何も聞こえていない。
皿を拭かないのも当初に「言われた通り」なのであろうと思う。

直近の生ごみの喧嘩より一か月ほど前だったか。
弟が夜、食器を片づけようとしていた、というのもこちらは拭いて水切り籠に入れてあったので、それを片づけてから自分のを乗せるという流れである。
そこで不意に皿の割れる音がした。乾いた食器の片付け場所は、拙の部屋のすぐ目の前で、戸を開けているとお互いが丸見えの場所である。
そして先ほど書いたのとほぼ同じく不機嫌な弟はほとんど同じ内容を怒鳴り散らし、ゴミ箱をひっくり返して壊した。
他にニ、三、以前からたまにあった内容も付け加えてだった。「理不尽な事ばかり言いやがって」とか「どうすりゃいいんだよ答えろよ」とか。
以前からすさんだ顔が何日か続くと、先ほど書いたようなことやこれに近いことを始めることは何となく感じていたのと、激しい剣幕で怒っているのに怖いというより「何を言っているんだ?」が先に来た。
理解できないから、ではないが、もうこの時点で「怒っていること自体に腹を立てていたのではなく、ただの切っ掛けに過ぎないレベル」と見抜いたのかもしれない。
※そう思った理由をはっきり思い出したので追記する。「気に食わなかったら人の物壊しやがってよぉ!」とも言っていたのだ。はて?以前にこちらもやったが、そもそも誰がいきなりやった?無関係な理由でやったのは誰だったか?このことについてはもう少し下で。
吹っ飛んだゴミ箱のパーツを怒鳴られながら拾い集め直した。側面は割れたが、蓋を開け閉めする機構は問題なかった。

そこで拙は一計を案じ、「理不尽がどうこう」というのならばと、後日酔っぱらって家に帰り、弟の部屋を開けてこのように語った。
「理不尽がどうこというならば、引っ越し直前の泣きながらの上京を辞めるかもしれないなんて電話なんぞ理不尽だろう。引っ越してからも己の苛立ちでお互いの喧嘩でもないのに他人のザルと共同でしかも友人が車出してくれて買ったゴミ箱をぶっ壊された。そんなこといきなりされる時点でわしが出ていくかお前を放り出すべきだったのだが、そんなことせずに今までわしは理不尽を自身に掛けてきたんだわ」と。演技ではなく感極まって泣きそうな具合に語った。

今になって思うが、その弟の返答の言葉には本来絶句するところだったろうが、こう返ってきた。

「俺も一つ言わせてくれ。生ごみ捨ててくれよ」と。

「兄貴もそんなに追い詰められてたのか」みたいな一言はなかったように思う。そして即座に返してきた言葉が上記となる。

改めて思い返して書き出してみたが、一体何を相手にしているのかと慄然とする。日常の動きを含めて見てきたが、まるで人間らしさを感じない。

時系列をあっちこっち飛ばして申し訳ないが、つい先日辺りに話を戻す。

頭の腐ったような物言い(状況もみずに自身にのみ正当性ありと一方的に述べる態度)に腹を立てたこちらは、量を多く出してる云々ならあれはなんだ?これはどういうつもりだ?というのを示すために、その次の日の朝五時に思い切り部屋の戸を開け放ち、そのままガスコンロに向かった。
もうここしばらく、フライパンで料理を作るという事はこちらはしていない。しても数えるほどだった。
しかし、ガスコンロは飛び散った油で円を五徳の下に浮かばせているほどになっている。
思い切り音を立てながら拭きまわり、また思い切り部屋の戸を閉じた。
その後起きた弟は何か言うかと思ったが、何も言わずにそのまま仕事に出ていった。

そしてこちらも仕事に向かい、帰りに大酒をかっ食らい、なのだが、ちょっと楽し気なお話をしておく。

通り道にはツバメが巣を作っている建物がいくつかある。

今年も来たんだなぁと、一つ一つを覚えているわけではないが、町の人も壊さず見守っているのが多いようだった。

その建物のうちの一つで、とある民家がある。十年経ったかは忘れたが、もう何年も目にしているお宅である。

そこの玄関にも、通りから見える位置にツバメが巣を作っており、子育てをしていた。

うっかり見るのを忘れて通ったりする日も多かったが、夜の帰りに見て、数羽が寄り添ってるのを見たりしたものである。

そしてその大酒云々の帰り道にその家の前を通りかかると、そこの奥さんらしき人が庭の手入れをしている。

つい「玄関のツバメ、旅立っちゃいましたね」と声をかけると、奥さんはパッと明るい顔になって、「見守ってくれてたんですね!」と話が弾み、「また見守りましょうね」と言って別れ、何だか嬉しい氣分になって家路についた。

そして帰宅。

こうしてやろうああしてやろうと細かく考えていたわけではないが、ドンドンと部屋に入り、物音を立てながら風呂場に向かいシャワーを浴びた。
浴びながら、弟のシャンプーやらをぶん殴り続け、ポンプは破壊した。
理由はある。風呂場のシャワーを浴びたり身体を洗ったりするところの床の四隅がよく赤くなっている。
弟のシャンプーだかが赤いのがあるので、それのせいか?と聞いたこともあり、気付いたら拭えよと言ったことがあるが、弟はほとんどやっていないようだ。やったなら「やってるから」とか前に言ったことを注意でも何でもない会話でも「もう聞いた」などと返してくるほどの奴なのだから。
よくよく考えれば石鹸カスでもなり得るだろうが、実は拙はほとんど石鹸で洗ったりはしていない。お湯のみである。

それならば夕べの理屈なら、弟がやるべきであるはず、と別に伝えたわけではないが、それからの連想で破壊した。

それから風呂に上がって壁を蹴り殴りした後着替えて、冷蔵庫の上に五千円札をたたきつけ、今朝も拭いたくせにガスコンロをガリガリ拭き始める。

泥酔しているうえに拭くことに氣が向かっていたので、部屋から出てきた弟が声をかけてきたことが分からなかった。声が聞こえた気がして「ああ!?」っと返すと怖気付きつつ「おかえりっていったんだよ」と言うので「小さくて聞こえんわ!」と返し、拭き続ける。
一瞬の間の後、「昨日の事で怒ってるんだと思うけど」と言ったところで間髪入れずにこう返した。
「それだけちゃうわ!お前、住み始めてすぐに関係もないザルぶっ壊したやろう!?許してないからな!あんなことは通り魔の人殺しと変わらんのじゃボケ!」

「それからお前のシャンプーとかぶっ壊したからこれは弁償ぢゃ!」と冷蔵庫に載せてあった五千円札を渡す。一応受け取って部屋に行こうとしたらまさか五千円札と思わなかったのか「こ、こんなにいらんよ・・・」と返そうとしてくるので、「いるか!もってけボケ!」と持っていかせた。

それからこれまた昨日拭いたのだが、風呂の四隅を拭いに行った。

部屋に引き取り、寝転がりながら「はよぉ死ねや!」と二回ほど叫んだものである。
何故か外から猫の鳴き声がしてきたので「猫ちゃんごめんよ」となどと小声で言ったりするという滅茶苦茶ぶりであったとさ。


夜が明けて金曜の朝。するとあら不思議。いつもより遥かに速い時間にいなくなっていた。

そしてその夜は帰ってこなかった。電話したら一応は出た。まだ追加でいう事があったが、「はい」しか言わない。何となく理解もしていないだろうなとは思いつつ、家賃で渡す分にいくらか足してあるから全部持ってけよ、じゃあ、コンゴトモヨロシクと言って切った。

週末は友達の所で過ごすから。たしかこう言っていたように思う。

そして日曜に帰宅すると、もぬけの殻になっていた。冒頭の話と相成る。


弟の奴が鬱病と診断されて治療していた、というのは今から六年ほど前だろうか。それ以前はどうだったかは確認を取ってはいない。

ザルと友人の手伝い込みのゴミ箱を破壊したことは昔書いたと思う。まだ鬱病が怪しい状態だったなどとは当時言っていた。

兄にも電話をしたものだが、十数年ほど前、兄と弟が一時期同居していたことがあった。その時も兄と喧嘩したわけでもないのに、扉が破壊されたという事も聞いた。
理由などについては詳しくは覚えていないが、少なくとも兄と喧嘩したからではないようだ。その時は何病だったのやら。

ザルについては即日買い直して同じ型のを置いてあったが、ゴミ箱については人の言葉を額面通りに受けてそれ以外の行動をしようとしないというのが遺憾なく発揮され、半年以上放置されていたのでこちらが怒鳴った。

その際にこういうことを言った。「お互い金出しただけじゃなく、わしの友人も車出してくれたりしてた、そういうこともないがしろにしてるんだぞ!?わかってんのか!」と。

だから自分でも怖いぐらい怒ったのだが、怖いしか頭に出てこない弟は当時、駅前の交番に「DVとかで避難するシェルターないか」と聞きに行ったそうだ。

余談ではあるが、じゃあなんでまたザル?という事を。通り魔の人殺しは言い過ぎではないか?と思われる向きもあるだろう。

我々が物質と呼ぶものはすべて命である、という向きの話は理解に苦しむだろうから、もう少し分かりやすくいう。

拙も単純にたまたま気に入った色のを買い物に行った際に見つけたから、という理由で大事に使っていたのだが、その理由が出来上がること自体が理由なのである。


人というのは、例えば名前だけ取り出して「山田太郎」と呼んでも目の前の山田太郎さんかどうかは実は決定づけられない。

ここそこの今いくつでこんな見た目であんな笑い方する自分と交流のあるこの「山田太郎さん」と、別人で面識もない別の山田太郎さんは同じにはなり得ない。

こういった種々の要素が集まった状態で初めて浮かび上がってくるのが人であり物事なのである。仏教でこのことを「縁」と呼ぶ、というのはご存知の方もおられよう。

この「縁」を破壊するというのは、つまりその人を破壊しているのと同じと言えるのである。

弟は拙とザルの縁を破壊する、つまり当時までの拙を拙たらしめていた、同じザルは世にいくつもあるが「縁」を結んでいたザルを、人を破壊したのである。

そして兄弟間だけの仕事ではないゴミ箱も同様である。

そういうことを怒っているのに、脳が足らんので怖がるだけだった。


しかし、どうしてここまで情緒というか人の心というものを感じる能力がないのだろうか?と最近思っていた。

自主的にゴミ捨てしてるのかと思ったら「何故お前はやらん!」となってくるのか?

一応の目的としては一時的だろうとしても、いずれ一人暮らしするなら、自主的にやらざるを得んのだろうに、人のせいにしたばかりの言動が目立つというのは上記までの部分だけでも感じ取られるだろう。

かつてこうやって暮らすことになった切っ掛けは、母親に上京の際、お金が不安だと相談すると「じゃあ兄貴と一緒に住んだらどうか」と提案されたそうで、その脚で電話してきたようだ。

結構前から思っていたが、一緒に暮らしたくて暮らし始めたわけじゃないなこれは、とは感じていた。理由は金だから。
これまた受動的な理由。主体性のなさである。

引っ越し直前云々はかなり上の方で当時のやり取り部分のセリフにも書いたが、めそめそしながら「どうしたらいいのかわからんのや」とのたまっていた。
どうしたらいいかわからんのじゃなくて、どうしたいかじゃないのか?とは問いただしたものだが。
上記にも示した、弟の暴れながらのセリフも、態度が違うだけで同様である。

物事に常に決まりきった答えがあるといった、実に即物的なカチコチの脳みそだったのである。

そういうのは何も考えなくても出来るから、考えるという事を放棄し続けて来た結果がこの数年で噴出したのだと思われる。

俺はやった、だがお前はやってない、というのは考えて物を言う態度ではなく、既に決め付けている事から現実を見ずに機械的に正否を当て込んでいるだけなのである。

そういう人の常套句としてよく上がるのに「常識だろう!」もある。全部が全部ではないが。

そんな状態では主体性だとか自主性が育つわけもない。あるのは「俺が!俺が!俺が!」だけである。

人の脳の働きというのは一様ではなく、例えば仏教だとかは8段階だかまで心の層があるという。宗派によっては9とも言う。

岡潔に至っては10を提唱している。この辺りは長くなりすぎるので割愛するが、それぞれが陰に陽に働いて人が生きていたり物事が動いているのだと、大雑把に思ってくれればよい。

「俺が!」というのは人の心では「自我意識」と呼ばれる。英語や中国語の文法を見れば自我からしか物を見ていないのが分かるだろうと、岡潔が例に挙げていたものである。

反対に、かつての、と言った方がいいようだが、日本語は主語がない、もしくは弱い言語であるというのを聞かれた方もおられるだろう。
小さな子供に向かって「ボク、いくつかい?」と尋ねたりするような言葉遣いに現れている。

現代はこの自我が全てという、主に欧米からの思想で塗りこめられている故、自我というのは力強いのだろうと勘違いされているのだが、これは心の一部分でしかなく、いわば機械の歯車が一部だけ頑張ったところで機械全体の働きが良くなるわけがないのと同じ状態なのである。

機械の歯車の一つである自我がおかしくなってやたらに動こうとしているのを抑えて機械全体を統御する存在が必要なのである。

こういう話はさっきも引き合いに出したが、岡潔という方が昔、存分になされていた。そちらはもっと深い話なのだが、それはさておき。

自我を制御する心の働きを「自分」、と呼ぼうかと思う。

自我には「俺が!」しかないと語った通り、空回りしていることを自覚することもない。

一方の「自分」はちっぽけな自我も見てはいるが、それが全てではないことを感じているので、自我が変な動きをし始めて機械の別の箇所に変な負担がかかって支障が出た時に知らせてくれたりする。自我が強すぎると伝わりにくかったりするが、それでも何とか働いてくれている。


自我が暴走して「自分」が動かなくなったり動きが極限まで悪くなったりすると、OSのセーフティーモードよろしく、最低限の機能しか働かなくなるのと同様、視野も狭く痴ほう染みたコチコチの動きになっていくのだろうと思われる。

日本では昔から「人の事を考えろ」とか「相手の立場になって考えろ」という。

この機械の例えもまた、「縁」の話からすると、自我という歯車だけ取り出して示したところで、その機械の事はさっぱりわからないのである。

他人、それに「自分」といった他の歯車や操縦士と噛み合っているかを見ないことには、己も他人も何も見えてこないし、いずれネジが緩んで歯車が弾け飛ぶだろう。


自我はあれど「自分」はなし。

これが弟から見えた事であり、岡潔が語った現代の状態なのだろうと思う。


では、よき終末を。