ウヰスキーのある風景

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されど、蝉は鳴く

2018-08-08 | 雑記
確か、先週のことだった。

仕事帰り、といっても夜勤明けなのに、家も程近いところを歩いていたその時間は、夕暮れの時間であった。

通勤中に通る道を途中で曲がると、広くはないが、社務所もある神社がある。帰宅時も通ることは多い。

上記のその時間に、その神社の前の道を通りかかると、地面に何かいるのが目に入った。

もしくは、何か聞こえたので、聞こえた方に目を向けた、だったかもしれない。


そこには、道路のほぼ真ん中でひっくり返っている蝉がいた。



死んでいるのかと考え、つま先で小突いてみると、ジジ!となく。まだ息があるようだった。

「そんなところでひっくり返っている奴がいるか!」とひっくり返すと、のそのそ動き出した。かろうじて動くことは出来るようだ。

しかし、飛び立つ様子はない。そこは車も通る。車に轢かれて無残な姿を晒すことは許さぬ、と考え、進行方向に手を差し伸べると、のそのそと這い上がってくる。

「よし」と言ったかは忘れたが、手の甲に蝉を乗せ、自分の肩の高さまで掲げ、目の前の神社に向かう。その神社には幹が太めの木がある。

鳥居を潜ると同時に、神社から退散しようとしていたメガネをかけたおじさんが、拙の手に乗った蝉に気づく。

「蝉ですか」「ええ、そこの道でひっくり返っていたんでね。車に轢かれる前に拾いました」「蝉の命は一週間ほどですからねぇ」「でもまだ多少元気があるのか、ひっくり返し直したら、ゆっくり歩き出しましたよ。それで、せめてそこの木にでもと」「そうですか」

というやり取りをした後、すれ違いざまに、そのおじさんはこう言った。

「ありがとうございます」


えっ?と思ったが、道が汚れたりするのを防いでくれたから、みたいな意味なのだろうと思い、蝉を木に貼り付けた。

最初は上手く行かず、一度落っこちたが、まだ意識はあるようで、次には上手く張り付いてくれた。


そして、これを書いている時間からすると昨日の昼間に、蝉を貼り付けた木を見に行くと、既にいなくなっていた。

車に轢かれるよりは、食われるほうがよかろうと思い、神社を後にした。


その蝉の貼り付けと確認までの間のある日だったと思う。

近所の川原を歩いていると、物陰から鳥が飛び立つのを見た。

どうやら、蝉を食べようとして飛び掛ったのはいいが、咥えるところまでいったのに浅かったようで逃げられていた。


蝉の貼り付けよりもう少し前になるが、道を歩いていると、暑さにまいったのか、電柱に何度かぶつかる蝉を見たものである。

そんなのを見てから仕事場にたどり着くと、差し入れのお菓子があり、その折込の紹介カードを見ると、なんと、蝉の絵が描かれている。

同僚の旦那さんが差し入れをしてきたそうで、ついその奥さんに、「蝉が電柱にぶつかってるのを見たと思ったら、ここでも蝉だわ」などと語ったものである。


例の貼り付け蝉は、地面でひっくり返した時に、少々鳴いていた。木に貼り付けた時に鳴いていたかはもう定かではないが、今日は気温が多少落ち着いたためか、真昼の帰宅から夕方まで、蝉の鳴き声が聞こえていた。

例年、蝉の鳴き声が少なくなったかと感じていたが、それでも蝉は鳴いている。


蝉の腹は、音を響かせるために、空洞が大きい。

『老子』の一説だが、部屋を作るために穴を開ける。この空間は無駄ではない。また、車輪の間に穴があるのも無駄ではない。これを無用の用というとある。


蝉を拾って木に貼り付けてやる、なんぞというのは、実際無用のことである。


しかし、蝉は音を鳴らすために、無用な物を作り上げた。


人間もまた、己という音を大きく響かせるためには、無用を持つ必要があるのかもしれない。


我々は有用を追う余り、本質的には無用を抱え込んでしまっているのだろうと思わざるを得ないのである。



では、よき終末を。