ウヰスキーのある風景

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割烹の遺伝子

2016-10-05 | 雑記
割烹、というのは高級な和食を出すところ・・・と幼き日にそう思ったものだった。

割烹というのは割いて煮る(烹の字の意味)というわけで、つまりは料理。


なんぞというのはずっと昔にやった気がする。


先日、久しぶりに米を買って家でご飯と味噌汁、なんぞという感じで飯を作ったりしていた。

しかし、問題があった。


近所の米やは玄米をその場で精米して売ってくれるのだが、玄米のままでも買える。

気取りだとかこだわりではなく、土鍋で食べる分だけ炊いていたのだが、先日は思いつきで精米2キロと玄米1キロを購入。

それをこれから封しようというところで「あ、それ全部一緒に混ぜてしまってください」とやった。


どこかで誰かが「疲れたときは玄米混ぜて炊いて食べてる」とかいうのを思い出したから。誰だったかは何かで読んだとしか覚えてない。


さて、炊いてみたのはいいのだが、やはりなんというか、玄米が硬い。砂利を噛んだかと思うほどである。
砂利を噛んだことがあるので、それよりは柔らかい。


何日かやってみたが、なんともいえないので、炊飯用の土鍋をつい買ってみた。

ガスじゃないので(IHでもないが)火加減がよくワカランかったが、なんとか炊けた。

この土鍋だったか忘れたが、これもどこかで紹介してた気がする。それだったかは忘れたが、近所の店で見かけて気にしていたものではあった。

素材は万古焼きだったか。萬の字だったかもしれない。

砂利玄米がアマランサスを大きくしたくらいの感じになった。ぷちぷちはする。

砂を噛むような生活はもうたくさんなので、これからはぷちぷちを噛むことにする。


ちなみにその鍋は二合まで炊ける。二合炊いて半分ちょい食べて、余ったら後でお茶漬けにしよう、という流れである。

とはいえ、初めて炊いたその日にそうやったらちと食べ過ぎたかと思った具合なので、再考すべきところかと思われる。



主食は酒か霞かと思われるのも侵害、じゃなくて心外なので、たまには雑談である。いままで全部雑談な気がしないでもないが。


先日、ラヂヲで進化論の話をしたが、多分誰も最後まで聞いてないということでついでに記しておく。


フルータリアンを主張する方々(どこぞの尊師もどきだけでなく)は、「人類の先祖は熱帯で果物を食っていたから、現代人もそれがいいのである」とライト、ではなく述べる。


進化論は科学的におかしいと主張する方々が種々の証拠を持っていう所(科学的創造論といったりする)は、遺伝子というのは現代人が発現しているような型がそもそも含まれていて、地域や生活習慣に合わせて、つまり大まかな人種を決めている肌でいうなら、日差しが強いところなら皮膚が黒くなったり、またその逆が遺伝子の組み合わせで出てきたのであるというのだとか。

進化したのではなく、元々ある遺伝子の組み合わせが変わったりしただけで、別に進化なんぞしていないというわけである。

組み合わせの妙で、黒人夫婦から白人(アルビノそのものとは厳密には違う)の子が生まれたり、白人夫婦から黒人(肌が黒いだけではない)の子が生まれたりしている。

白人夫婦から黒人の子供というのは現代の南アフリカで実際に生まれ、アパルトヘイトの憂き目にあったり、親と仲たがいしていたという実際にいる女性の伝記映画も作られたという。


というわけで、何が身体に合うかは本当に文字通り千差万別となりうるのである。


日本人に生まれたから米!とか。

肉食わないなんて身体が弱ってしまう!とか。

先祖が!とか。


というのをつらつら並べてふと思うのである。


我輩の身長はほぼ163cmといったところ。微妙に1mm足りなかったりする。細かいところはいいとして。

学校の身体測定で、高校なら男子高校生の平均身長なるデータが載っていたりする記入カードがある。

届いておらぬのである。他にも似たり寄ったりの背丈の奴もいるが、やはり「もっと伸びたいナァ」などとぼやいていたりする。

わしやその廻りがそうやってなじられていたかは記憶にないが、漫画だかドラマだかでないだろうか。

「平均いってないから小さいなぁお前はぁ!」といった具合のなじりが。


上の三つ思いつきで並べた主張も、これと大して変わらんような気がすると、ふと感じたしだいである。


日本の村の中であったかもしれないと想像するならば、他の人は雑穀食べてて平気なのに、ある人はなんだか食べると疲れて怠け者扱いされるとかあったのかもしれない。

その人の身体は、ただ日本に生まれただけで、白人夫婦に生まれた黒人のようになっていたのやもしれぬ、というわけだ。



先祖がそうだったから、我々もそうなっていて、だからそうなるべきだ、というのは間違いでもないが、我々は先祖そのものではないのである。

ついでにいえば、子孫は我々でもなくなっていく。ネコがライオンになるわけではないが、子は親の中にあるものを引き継いで組み合わせて別の型を作り出している可能性があるゆえ、子は親の単なるコピーなどではないのである。


多様性を持ってしまったのは多様性を持てる可能性を元から孕んでいたから故。

多様性を消し去り一つに集約しようというのはつまり、全体主義である。

進化論とナチズムの話もした。以前書いたり、前のラヂヲで言ったかは忘れた。


ナチズムはとりあえず措くとして、要約すると、
進化論からいえば、現代の人類の進化は何ももっていなかった所に刺激があって変わってきたと述べる。

その反対のほうの主張からすれば、そもそも人類、というより生命体は多様性を孕んだ存在であるがゆえに、現在に至ったと述べる。


植林で杉だらけになった山に嫌悪を示しながら、己を含めた全生命体の多様性の意味を考えないどころか、寧ろ存在の価値なしと断じておいて、「果物は果物の数だけ味があるんです」などとうっとりしている。

実に全体主義者らしいものの考えである。アーリア人は世界一!と言っているだけである。
別にアーリア人は云々はナチズムにかけただけである。


とはいえ。

現代文明のありようはまさに多様性を潰すためにある。

我も彼も全体主義者といえなくもない。

全体主義者は町を出て山に行こうが変わりはないのである。

別に人類は進化なんぞしておらんので。

寧ろ全体主義に進化してしまったのかもしれない。退化というべきか。

言語すら遺伝子の影響を考えられているのに。

言ってしまえば一人ひとりの存在自体が多様性を示し得るはずなのに。


そういえば言葉の意味がおかしくなってどうこうと。あぁ、これはこれは。
イルミナティの理想に皮肉などころか全面賛同だったのだなぁと苦笑を禁じ得ない。

む、またどこかの誰かの話になってしまった。


これはベジタリアンだかのブログが選民思想紛紛たることがある原因を考えての話ではある。
今さらながら予防線を張っておく。もう遅いな。



さて、いい加減に終ろうと思うのだが、別の話をしたかったのにまたいつもの話をしてしまった。


単純に本来しようとした話を書く。

同じ曲のピッチを変えて聞くと、元の曲を聞いていたら何故か目が痛くなった、である。


なんのこっちゃ?と思われるだろうが、気が向いたら書くかもしれない。

音ならラヂヲのほうがいいかもしれんが、そうなるともっと先になる気がする。



では、よき終末を。