ねーさんとバンビーナの毎日

「静」→ 「淡」→ 「戻」→ 「無」→「休」→「解・涛」→「涛・停」→「抜」→24年「歩」 最終章序章スタート!

自分の会社を作るとしたら。

2009年10月23日 21時10分15秒 | おもうねーさん
まず、「ルール設定」というのは「極力」と言わずに、あえてでも(ぜってーに)やりたくない。


やりたくないったらやりたくなーーーーーいっ!!(笑)


そんなものをいちいち学校みたいに「守りましょう。」と言わなくても、常に節度が保たれる人間を集めたい。


行儀は厳しく、マナーは少し「うるさめに」言いたい。


なんでって、見ていて美しいもん、そのほうが。
見ていて粋だもん、そのほうが。




作業の「標準化」もする。
「標準化」とは骨子になるものを固めることね。
「マニュアル化」とかそんなことじゃないのね。

何かがブレた時でも、元に戻る基準線だけ決めておけば、安心して羽目を外した思考が出来るじゃん。
標準化しておくことで、共通認識が取れるじゃん。




就労規則はがっちがちにあらゆることを固めない。基本的なものだけ。
だって、世の中の状況や会社の状況は可変だからね。
「動きが取れやすい状態」にしておきたいっていうか。

正確な情報。

2009年10月23日 20時50分25秒 | おもうねーさん
数日前のニュースで、評論家だか教授だかが、

「外交で大事なことは、とにかく第一に、出来るだけ正確な情報を入手することです。」

って語ってたのね。


見ていて「ふむーーーっ。」って思ったのね。


「「これは正確な情報だ。」と判断する基準は一体なんなのよ?」って思ったのね。


「著名人から入手したから確かだ。」とか、「言葉遣いが正しい」とか、「理論的である」とか、「ルールが守られている」とか、「マナーに添っている」とか、そんなところだったりしません?


これさ、やりようでは、「作り」も出来ちゃう訳なんだよね。


「やらせ」はまだいいの。てか、ぜんぜんいいの。

「作り」を掴まされちゃったら。
も~馬鹿を見るじゃ~~~ん。


「だからかえって正確じゃないかもよ~?もしかしたらぁ。」って、ニヤニヤにやける私は、ひねくれモノでしょうかね。


多分ね、占い師にもズバリ指摘されたんだけど、「ものすごい勘が鋭い」「ものすごい用心深い」っていう側面が、そうさせるんだと思う。

勉強や情報入手だけじゃダメだなぁ。

2009年10月23日 20時37分26秒 | おもうねーさん
それよりやっぱり「実経験」「実体験」。


人に甘えず(いいように使わず、いいようにやらせず)自分で抱えて、どれだけの場数を踏んで進んできたか。


これには勝るものはないねぇ。(つくづく)


勝ち負けを競う為じゃなくて、社会への向き合い方としては「基本中の基本」なんだよなぁ。


というかね。


これをしてないと、ホントにどうしても「思考が膨らまない」は、「他人が言わんとしてることを理解する能力も鍛えられない」は。


つまり、社会で上手にタフに生きていけないわけなんさよ。



「実経験」「実体験」はアウトプットだからね。
「勉強」はインプット。



「インプット」ばかりだと、頭にば~~~~っかり染み付いて、身体やココロに染み付いていかないから、ほらね、社会不適合に偏りやすくなっちゃう訳よ。


気をつけようね。



(自分への戒めも兼ねてる)

なんだろう、意外な出費って?

2009年10月23日 20時20分53秒 | 観察屋ねーさん
ゼクシィの吊り広告を見ながら若い女子達。


うーんと、そうねぇ。
オバチャマの経験談から言える意外な出費…。


司会者とか宴席の係の人達とか着付けをしてくれる人とかへのチップというかご祝儀というか。


これは親が配っていたけど。


「料金支払ってるんだから別にいいんじゃないのぉ?」って言ったら、
「いいのよ、こういうことは別なの。」って言うのね。

「なんか「特別な取り計らいお願いしますね!」的でやらしくて嫌じゃん、こういうの。」って言ったら、
「そういうことじゃないでしょう。あんたも失礼ねぇ。今日一日お世話になる労いよ。」って言うのね。


お世話になりました、親。

今日突かれたお言葉・その67

2009年10月23日 09時55分14秒 | 突言葉ねーさん
幼年時代の空想の、これはなんという楽しさ!
きみにはそうした空想があるのかしら、それともあったかしら、わたしにはわからないのだが、あらゆる事物は、興味深く入れかわり、去り、また来る。すべてが目に映るけれど、つかの間の幻影のようにしか目に入ることはない…
そして人は、なかば盲目のように人生を歩む---その途上に浮かぶさまざまのイメージを、内からながめたり外からながめたりしながら。時には重くるしいイメージを魂の暗がりへ葬り去って。また時には、まぎれもない一輪の花のように、太陽へむかって詩の花びらを開かせ、照り輝く魂のまことの岸辺にその花を咲かせたりしてね---けれどもその花は、あとになってからは、もう二度と見つかることはないのだよ。




ヒメネスの「ラプローテとわたし」より。



「空想」の中で「とびきりの花」が咲いてしまった時、それが「創造」の中で「とびきりの花」が咲いたと錯覚して行動してるようなことはないだろうか。あるよね?



「アレ?上手くいかない。」

「アレ?あの花自体がどっかに行っちゃった。」

「何やってもダメなんだ自分。」

「これは私が悪いのではない。あいつのせいだ。」

みたいな。



だって「空想」なんだもん。


「空想」は「妄想」「想像」「創造」に姿を変えないとね。


「妄想」は欲望に遊ばれてるから、もっと冷静に「とびきりの花を咲かせる」ということ自体を具現化しなければ。

「想像」に姿を変えた時、無意識にノートに書き留めたり、図面を引き出したりしてるだろう。

「創造」に姿を変えた時、無意識に「とびきりの花」をこさえ始めてるって。身体が。


後になって二度と同じ花が見つからなくてもそんなのはどうでもいいこと。
だってもう創ったわけだから。



「想像」の中で「とびきりの花」が咲いてしまった時、「創造」の中で「とびきりの花」が咲いたと自惚れて棚にあげるようなことをしていないだろうか。あるよね?

ほんまにツマラナイ人生ですぞ、それ。