ねーさんとバンビーナの毎日

「静」→ 「淡」→ 「戻」→ 「無」→「休」→「解・涛」→「涛・停」→「抜」→24年「歩」 最終章序章スタート!

今日突かれたお言葉・その62

2009年10月05日 21時39分03秒 | 突言葉ねーさん
映画と演劇の違いということを考えたことがあるかね。映画にしか無くて演劇には無い特権というのは何だと思う。

それは「眼」だ。

つまり、俳優の眼を、ありありと奥の奥まで覗き込むことができるということ。これは映画にしか無い特権だと思う。

だから、私は、この映画で、この特権をフルに活かそうと思う。ということは俳優にとっては、ごまかしがきかない、ということだ。

君はただ「正しく感じる」ということだけ考えればよい。それが自然眼にあらわれる。それを、カメラがとらえる。それ以外に観客を信じさせる方法なんかありはしない。

君が「正しく感じ」眼がそれを正確に反映したとしたら、後は芝居をしなければしないほどいい。顔の筋肉をやたらと動かしたり、盛んに身振りをしたり、何の意味もない。というより、むしろ有害な場合の方が多いのだ。


伊丹氏の本より抜粋。


同感~~。

いくら頬の筋肉が動こうが、いくら眉毛あたりの筋肉が動こうが、目に表情が出ないとなぁ。

泣いててもいいし、笑っていてもいいし、怒っていてもいいし、呆然としててもいいし、怯えていてもいい。

目に表情が出てこない人がいるのね。

笑ったり、怒ったりしても、目には何にも表情がない人がいるのね。

ああいうのって、

笑う=口を開けて横に広げ口角を上げる=「アハハハ」と言う。

こういう理屈の上で表情作ってると思う。


だから、「面白い」とか「楽しい」とかいうことも、「なんでそうなのか?」が頭で理解できないとわからないから、「感じる」ということをやってないんだよね。

だから、目が素直に笑ったり、怒ったり、できないんだよなぁ。

常になんでも頭が動いて理屈を追いつづけちゃうと、心が止まっちゃって動かないっていうかね。


しかし案外、ここしばらくって特に、「眼」っておざなりになってるかと。


「言葉が正しいか」とか「筋書きを追う」とか、そんなことばかり気になって、「人の表情の観察(目で見るより感じるっていうか)がおざなりになってないかなぁ…」と思う。


映画が「正しく感じた眼」ならば、舞台は「正しく理解した演技」になるのかなぁ。舞台は目の表情は関係ないもんね。客席からそこまで見えないし。目の表情さえ演技しないと映えないっていうかね。

知人の回想

2009年10月05日 01時01分12秒 | 知言葉
当時のホンダ(技研)の中というのはね、
「うちの会社はNECがやった失敗だけはやらないようにしよう。」
って、みんな(本田宗一郎はじめ)そう言ってたの。

NECがやった失敗って?

下請けにやらせていた仕事を全部海外(マレーシアだかなんだか)に持って行っちゃって、
採算が合わなくて、そのやり方は結局失敗して、そこから撤退して、
日本の下請けにもう一度協力してもらおうと思ったら、
下請けが潰れちゃったりしてて、国内の協力体制を再構築できなくなっちゃってさ。
あのPC98が無くなったのは、このやり方にも相当な原因があるんだよ。

ふんふん。
要するに言いたいことっていうのは、
「自分たちは下請けの協力無くして成り立たないんだ。」っていう「和してく気持ち」っていうか、
「そういう心配りが一番大事だろう?」ってことを言いたい訳ですよね。

そう。
本田はそういう点で「下請けなくして自分たちは無い。」っていう意識がすごくあったのよ。

なるほどねぇ。
ほら、わたしが最初に就職した時に本田のパーツリスト作りをやってた話をしましたよね。
会社自体、本田さんでいえば、2輪/4輪、ショップマニュアルからサービスマニュアルからオーナーズマニュアルから全部やってましたから。

アメリカホンダが出来た時にアメリカホンダ向けの仕様のパーツリストの自動組版のプログラムを作った話もしましたよね。
あれね、本当は、アメリカホンダ的には「紙のパーツリストはいらなかった」らしいんですよねぇ。
だけど、「お宅の会社とは長い付き合いがある。いきなりアメホン向けをゼロにするのも申し訳ないって、アメホン向けは100部だけ紙のパーツリストを残すからやってくれ。」みたいないきさつだったらしいんですよねぇ。
つい最近昔の仲間からその裏話を聞いたんだけど。

ふんふん。
だって、本田はとにかく、「下請けを大事にしなくてどうするんだ。」っていう考えがすごくあったから。

そうなんだねぇ。