映画と演劇の違いということを考えたことがあるかね。映画にしか無くて演劇には無い特権というのは何だと思う。
それは「眼」だ。
つまり、俳優の眼を、ありありと奥の奥まで覗き込むことができるということ。これは映画にしか無い特権だと思う。
だから、私は、この映画で、この特権をフルに活かそうと思う。ということは俳優にとっては、ごまかしがきかない、ということだ。
君はただ「正しく感じる」ということだけ考えればよい。それが自然眼にあらわれる。それを、カメラがとらえる。それ以外に観客を信じさせる方法なんかありはしない。
君が「正しく感じ」眼がそれを正確に反映したとしたら、後は芝居をしなければしないほどいい。顔の筋肉をやたらと動かしたり、盛んに身振りをしたり、何の意味もない。というより、むしろ有害な場合の方が多いのだ。
伊丹氏の本より抜粋。
同感~~。
いくら頬の筋肉が動こうが、いくら眉毛あたりの筋肉が動こうが、目に表情が出ないとなぁ。
泣いててもいいし、笑っていてもいいし、怒っていてもいいし、呆然としててもいいし、怯えていてもいい。
目に表情が出てこない人がいるのね。
笑ったり、怒ったりしても、目には何にも表情がない人がいるのね。
ああいうのって、
笑う=口を開けて横に広げ口角を上げる=「アハハハ」と言う。
こういう理屈の上で表情作ってると思う。
だから、「面白い」とか「楽しい」とかいうことも、「なんでそうなのか?」が頭で理解できないとわからないから、「感じる」ということをやってないんだよね。
だから、目が素直に笑ったり、怒ったり、できないんだよなぁ。
常になんでも頭が動いて理屈を追いつづけちゃうと、心が止まっちゃって動かないっていうかね。
しかし案外、ここしばらくって特に、「眼」っておざなりになってるかと。
「言葉が正しいか」とか「筋書きを追う」とか、そんなことばかり気になって、「人の表情の観察(目で見るより感じるっていうか)がおざなりになってないかなぁ…」と思う。
映画が「正しく感じた眼」ならば、舞台は「正しく理解した演技」になるのかなぁ。舞台は目の表情は関係ないもんね。客席からそこまで見えないし。目の表情さえ演技しないと映えないっていうかね。
それは「眼」だ。
つまり、俳優の眼を、ありありと奥の奥まで覗き込むことができるということ。これは映画にしか無い特権だと思う。
だから、私は、この映画で、この特権をフルに活かそうと思う。ということは俳優にとっては、ごまかしがきかない、ということだ。
君はただ「正しく感じる」ということだけ考えればよい。それが自然眼にあらわれる。それを、カメラがとらえる。それ以外に観客を信じさせる方法なんかありはしない。
君が「正しく感じ」眼がそれを正確に反映したとしたら、後は芝居をしなければしないほどいい。顔の筋肉をやたらと動かしたり、盛んに身振りをしたり、何の意味もない。というより、むしろ有害な場合の方が多いのだ。
伊丹氏の本より抜粋。
同感~~。
いくら頬の筋肉が動こうが、いくら眉毛あたりの筋肉が動こうが、目に表情が出ないとなぁ。
泣いててもいいし、笑っていてもいいし、怒っていてもいいし、呆然としててもいいし、怯えていてもいい。
目に表情が出てこない人がいるのね。
笑ったり、怒ったりしても、目には何にも表情がない人がいるのね。
ああいうのって、
笑う=口を開けて横に広げ口角を上げる=「アハハハ」と言う。
こういう理屈の上で表情作ってると思う。
だから、「面白い」とか「楽しい」とかいうことも、「なんでそうなのか?」が頭で理解できないとわからないから、「感じる」ということをやってないんだよね。
だから、目が素直に笑ったり、怒ったり、できないんだよなぁ。
常になんでも頭が動いて理屈を追いつづけちゃうと、心が止まっちゃって動かないっていうかね。
しかし案外、ここしばらくって特に、「眼」っておざなりになってるかと。
「言葉が正しいか」とか「筋書きを追う」とか、そんなことばかり気になって、「人の表情の観察(目で見るより感じるっていうか)がおざなりになってないかなぁ…」と思う。
映画が「正しく感じた眼」ならば、舞台は「正しく理解した演技」になるのかなぁ。舞台は目の表情は関係ないもんね。客席からそこまで見えないし。目の表情さえ演技しないと映えないっていうかね。