ねーさんとバンビーナの毎日

「静」→ 「淡」→ 「戻」→ 「無」→「休」→「解・涛」→「涛・停」→「抜」→24年「歩」 最終章序章スタート!

新型レクサスのどういった点が苦労しましたか?

2009年10月11日 16時39分35秒 | おもうねーさん
ハイブリットエンジンを積んでますので、切り替え音をなるべく出さないように苦心しました。



あ~、もう、乗りたくない。


トヨタ、迷走中。

どうして「みんなが主役」とか言い出す始末になったか。

2009年10月11日 15時05分11秒 | おもうねーさん
「主人公」には、それぞれのその人の「情念」というか、「一種の業の深さ」がないと、人物の的が絞りきれなくなってしまう。

バブルを経験し、崩壊し、バブルで儲けたマネー転がしの時代を経験し、これも崩壊した。

この間20数年かと思うが、すっかり「情念」とか「業の深さ」は厄介扱いというか、「だせー」とでもいうかのような風潮に様変わりした。

芸能界でも(一般社会でも。会社内とか。)こういうものを後ろに背負ってる人が必ず大衆を魅了してきたはずなのに、こういう方達がある時から去りだした。

みんなそんなことから意識的に避けるように演技し続けた。

そうしたら、その後にこういうものを背負っているような人が登場すると、プロデュースする側の「作り」に利用されだした。

わたしは華原の朋ちゃんがいい例かと思う。
彼女はホントにいい被害者だ。可哀相に。

華原の朋ちゃんのプロデュースの前に篠原涼子が利用された。
しかし2曲くらいやったらどうも篠原涼子から立ち去った感が見て取れた。(オバチャマには。)
彼女が歌番組か何か亜で、お茶目にからかう感じで、
「小室さ~~ん!! わたしのこと、捨てないでくださいね~~!」
と言ったのが、オバチャマには衝撃だった。
「あ、この子、賢い。やらせを通り越して売るための作りに利用されてる感じを嫌ったんでは?」って直感した。

それで篠原涼子の次ぎに華原の朋ちゃんが出て来た。
まぁ小室サイドは「恋人同士という「やらせ」をしたかっただけ」だろうに朋ちゃんは純粋だった。
いや小室さんって人も「やらせ」を「本気」に取られちゃって、相当困ったんだろうが、
「態度」や「言葉」がウラハラで勘違いさせたり、同情を向けさせるのが上手な人なんだろう。

その後去年の春あたりのグータンヌーボー(江角マキ子達のガールズトーク番組)にKEIKOがゲストで出た。
明らかに朋ちゃんらに当てたような相当なイヤミとしか思えない言葉を吐いてビックリした。
「この人、女性の趣味が悪い~ってず~っと思っていたのね。」そう言ったんだからね。

自分が好きになった男性に向けてこういう言葉を吐く女性はちょいと敬遠するし、
所詮そういう女性と一緒になるオトコってことだ。

「やらせ」が「作り」になってしまう人は敬遠だ。

それと質が違うんだけど窪塚君なんかもそのいい例かと思う。
彼の(過去の)奇行がどうであれ、ああいった持って生まれた純粋さを利用して追いつめる社会。

そんなんだから「的が絞られないような人」が沢山出てきてしまった。

いまさらそんな人達に、「情念を持て」だの「業の深さも理解しろ」だの言ったところで、「ぽかーん」とされるのがオチである。

だから手っ取り早く、「じゃぁみんなが主役でいっか。」とこうなる。

「阿呆もいい加減にしろ。」って、相当ムカムカ怒り出したくなる。

今日突かれたお言葉・その65

2009年10月11日 14時42分39秒 | 突言葉ねーさん
西ベルリンから東ベルリンへ秘密の連絡組織がある。

多分あの婆さんのやっているのはこういう事だろう。

則ち、西ベルリンの誰かが、秘密の組織を通じて婆さんに手紙を出す。

但し、今日手紙を出したからといって、明日相手がそれを受け取るというふうには事は運ばぬ。

時には一と月、時には半年、時には一年以上の時日を要する事すらまれではない。

それ故、手紙の差し出し人は、恐らく一年なり二年なり後の何月何日何時何分自分が壁の何処の地点にあってハンカチを振る、とでも書き送ったのであろう。

多分、今、この壁のどこかに手紙の差し出し人が来てるに違いない。

二人はお互い双眼鏡で相手の姿を確め合い、一○の短きに万感の思いを託してハンカチを打ち振るのである、と。

この話を聞いた時、何者かに脳天を一撃されたかの如く思った。

これは既に、国境がどうの、国家の体制がどうの、東と西との生活水準がどうのという次元の話ではない。

二年先きのハンカチの一と振りである。

声さえ届き兼ねる彼方との一○である。

唯それだけの事に、これだけの手間と時間をかけ、身の危険を冒して省みぬ。

これを則ち生きざまというのだろう。

生半可な生き方で出来得る事とはとても思えぬ。

自分の生きざまに強い信念を持つ者の初めて能く為し得る処であり、おそらくは日本男子たる自分の、決して与らざる境地であるに違いない…かように観じたのである。

○さんは既に不惑であった。自分が今まで、それだけ厳しい生き方を我が身に強いて来たか否か。

思いをその一点に致す時、俄かに自分の来し方が足許から崩れ去るかのように思えたのである。




婆さんはわたしかもしれない。

知人の分析

2009年10月11日 01時48分13秒 | 知言葉
なんだか最近身震いするくらい、過去のいろんなこととか、人とか、まぁちょっとした細かいことがリンクしていくのよ。
時々「気持ち悪い」って思うくらい。


あぁそれ、いいね。
それ、いいんだよ。

「記憶」と「記録」

2009年10月11日 01時16分41秒 | 2種分ねーさん
き‐おく【記憶】
1 過去に体験したことや覚えたことを、忘れずに心にとめておくこと。また、その内容。
2 心理学で、生物体に過去の影響が残ること。また、過去の経験を保持し、これを再生・再認する機能の総称。
3 コンピューターに必要なデータを蓄えておくこと。

き‐ろく【記録】
1 将来のために物事を書きしるしておくこと。また、その書いたもの。
2 競技などで、数値として表された成績や結果。また、その最高数値。レコード。
3 歴史学・古文書学で、史料としての日記や書類。



ほら、今日のフジテレビの「笑う50年」で、「「記録」に残るより「記憶」に残る・・・」って言ったじゃないですか。

わたくし、それで、またひとつ、わかったことがあります。

わたくし、「記憶」を「記録」してます。

「記憶」して忘てれないことは結局のところ「記録されてる」んだと思います。
だから今日の番組でも「あぁあぁ、あった、あった。」って引き出せたんだと思います。

「記憶」だけじゃ、なんかの拍子にクリアーされてしまう可能性があります。
だけどきちんと思い出すのです、あの当時のあの場面を。
だから無意識に「記録」してるんだと思います。

オバチャマの場合、この「記録領域が限界に達した」のが、
gooブログが開始された「2004年」だったのかと思います。
生まれてから2004年までの「記憶→記録活動」が限界に達していたのです。

だから「別の記録媒体に移動しなくちゃっ・・・」て、ブログに手を出したんだと思います。

「記憶」を初期化しちゃまずかったんです。出来なかったです。
特に1990年から見て来て関わって来た事は非常に貴重な体験だったわけで、
だから意識して「記録」しておかねば、仕事に影響して相当にマズかったんです。


「記録より記憶に残る・・・」


「記録」って「将来のために物事を書きしるしておくこと。また、その書いたもの。」な訳でしょう。
何かを見て感じて「記憶に残る」から「記録される」訳ですや。
ひょうきん族は「将来のため」でもなんでもないんだけど、「あぁいう趣旨のものがあった。」という事実を「記録」しておくことは「将来のため」でもあるわけです。

おまけに「記憶に残す」ってココロに貯めるだけだから、バランスがおかしくなるのよ。
「記憶」に残すようなことばかりあると、自分のバランスがおかしくなるわけなのよ。

だから多分みんな「記録に残す」ってことを無意識にやってらっしゃるかと。
今は特に「記録にかき出す作業」の時代なのかと。