ねーさんとバンビーナの毎日

「静」→ 「淡」→ 「戻」→ 「無」→「休」→「解・涛」→「涛・停」→「抜」→24年「歩」 最終章序章スタート!

チリ ドッグ

2008年12月11日 00時20分53秒 | 2種分ねーさん
チリで車にひかれた犬を別の犬が路肩にひきずって助けようとしている映像がニュースになってました。


さっそくYOU TUBEで「チリ ドッグ」とキーワードを2つ入れて検索した人がいました。


すると「チリドック」の映像が引っ掛かった、と。


これ、どう受け取ります?

(ね)は「ウハハハ…オイオイ。こういうの好きだぜ。」と笑えます。


人によっては、「ったく無駄な動画が引っ掛かったぜ。チリとドッグで検索したのになんでチリドックなんだよっ。」とイラッとするんだよね?



情報の海から情報を引き出すところを、み~んなが平等に上手に引き出せる仕組みが仮に出来ちゃったら、そこでまた「人が人を頼らなくて済む」状況を作りだすことになるよね。


「うまく引っ掛からないよぉ。」
「どれどれ?こっちで検索してやんよ~。」
っていう、もちつもたれつのお戯れの光景がまたひとつ世の中から無くなる訳だ。


「それぐらい自分で鍛えないと!コンピュータを上手に使えないとおいていかれるよ!」って、スルーする人もいるでしょうが、ホントに苦手でついていけない人はいる。

「楽したいし考えたくないから与えて~」じゃなく、
「自分でやってみたけどマジで困った、出来ない、でもどうしても出来ないとマズイんだ、求める!」

の人。



上手な人が「欲」をかきだして、自分ばかり「得」を得ようとするから、そうやって出来ない人が「みんな平等に。誰でも同じように操作して、同じように答が返ってくるようにしよう。」が上乗せされてくんだよなぁ。


で、この連鎖が広がって、「みんな平等で、みんなが同じ。」を上乗せ~上乗せ~してったら、人間から感覚とか感情というものがなくなるでしょうね。

いや、「無くなる」というより、「吐き出し方が鍛えられない」から「吐き出し方が分からない」という状態になってしまって、「決められた通りじゃないからキレてやる」、こういう症状が勃発するじゃん。
それがもっと蔓延するでしょうね。


人間って矛盾とか間違いに振られたり揺さぶられるから、感覚が鍛えられたり感情が沸くんじゃん。

だからこそ「感情コントロールに気をつけよう」って気がつかされることもある訳じゃん。

「感情表現に味を付けよう。」とか「感情表現を上手に使い分けよう。技として使っちゃおう。」とかいう遊びも出来るようになるじゃん。


だからシステムとかコンピュータに「完全」とか「正しさ」とか「平等」とか「使いやすさ」をあまりにも追求しすぎちゃダメだよ。


で、「そうなってない!」って躍起になる前に、自分なりの別の切り替えパターンや抜け道を持っておいたほうがいいって。


決して「そうなってない!」を「よしよし。仕方ないな。」とばかりに相手してくれる優しい人を使っちゃぁいけないよ。頼っちゃぁいけないよ。
簡単に与えてくれる人に頼っちゃぁいけないよ。


そういう与えてくれる人を使う行動に走ったらねぇ、ホントにねぇ、悪ですよ。
平気で簡単に与えてくれる人を探す嗅覚ばっかり鍛えてたら、そのうち誰からも見放されますよ。

与える側は誠の親切で与えてくれてるのに、平気で土足で踏みにじってるのと同じなんですよ?それ。

だから「俺(私)使われてるな?」を関知するアンテナは常に張ってないと。
その電波キャッチしたら即座にスルーしないと。無視しないと。

「いいんです、求めてるんじゃなく与えて欲しいだけの人に使われても。」ってやってるんだったらそれまで。おしまい。
どこまで自分をないがしろにしてるんだか。


でさ、話を戻すと。
いや、突き詰めれば「集計結果が正しくない」ということさえ、どっちでも良かったりするんだわ。

だってさぁ、人と人の間の妥協や話し合いや調整でなんとでもなるんだも~ん。


だから「正しいか正しくないか」を延々突きあうより、行儀が大事なんだもん。


「行儀がなってない!」的なお叱りにはひとまず謝る。これ得策ですヨ。
てか、それも行儀のうちなんだよ。


「こちらに非はありません。」と言うのは、「答えが正しくなくてどちらの責任なのか?どちらが正しいのか?」が問題になっていた時だぜ?
マナーやルールが前提の時もこうなりがちだよね。


あ~ん、も~、どっちでもいいよ。
無くてはならないけど、別に取るに足らない感じ。


行儀を叱られた時は謝る。

「でも納得いかない」という場合は、それなりの考えをぶつけりゃいい。
「どうして(どういう考えがあって)私はこうしたのか。」を突き付けりゃいい。
けして、相手に「その態度はなんなんだ!」とばかりに問い詰めちゃいけない。
私の考えを突き付けりゃいいし、その考えの元、実行に移してやって、見返してやりゃいい。


それをまるでしないで、「私には非は無い。」とそっぽ向けば、行儀を叱った側はもう追いかけませんよね。



だけど不思議なことにね。
行儀の怒りはね、ナイフで刺し殺すような、そこでなにもかも永遠に終わらせるような、痛め付け合いにならないんだわ。

行儀で怒ったほうがパンチを入れる、パンチが入ったほうは一瞬気絶するか降参して自ら離れる、ひとまず解決、お互いがお互いに生きてく、パンチを入れたほうは気にしてる、パンチを入れられたほうは痛さを振り返る、振り返って冷静になる、謝る、関係復活


こんなようなサイクルを生むんだよね。


ナイフでやっちゃうようなケース(言葉のナイフもそう)は、人間関係をマナーやルールで縛り付けて、そこに上乗せで変な教養を付けちゃってたりすると、変なプライドばかりが増大して、結果間違った憎悪感を抱くようになっちゃうんだよぅ。


だからマナーもルールもほどほどにね。
なってなくても、知らないケースもあるんだから許容したりさ、許せなきゃスルーしたりさ、指摘したいなら揚げ足じゃなくその場でキッチリ注意してください。
すぐには訂正されませんから、根気良くやってくださいね。

ちなみに嫌われたなら、いくら言っても相手は聴きません。


あ、チリドックからこんな話に発展した。(笑)