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教科書検定をやめさせよう

2007-10-06 | 政治
 沖縄戦における日本軍の命令で集団自決した歴史を、当時の隊長が命令していないと提訴したことを理由に教科書の書き換えを要求した文科省検定。その歴史をねじ曲げる論理に沖縄県民が島ぐるみで怒っている。先の県民大会には県知事を始め沖縄県すべての市町村長が全員出席して、政府の対応に抗議した。県議会の抗議の決議は自民党を始めすべての会は全員の賛成で成立している。それだけ沖縄県民の怒りは大きい。

 渡海文科大臣は、「沖縄県民の心を重く受け止める」と言っていながら、検定意見の撤回には応じられないと教科書の文面を曖昧にして決着しようと画策しているようだ。しかし、この問題は教科書の文章を多少手直しして終わる問題ではない。そこを文科大臣は分かっていないのではないか。検定意見を変更させるのは政治が口出しをすることになるのでできないというのがいつも出される理由だが、それではそういう検定意見は政治的な検定意見ではないと思っているのだろうか。

 これまでも家永教科書裁判に見られるように、文部省の検定意見は常に政治的に利用されてきた。それを積極的に推し進めてきたのは文部省自身ではなかったか?日本軍の中国侵略を「進出」と書きあらためさせ、中国などの批判を浴びるとあわてて侵略の言葉を復活させたことをわれわれはよく覚えている。文部省が政治的に利用してきた検定意見だからこそ文科省自身が検定意見をどうにでもできた。

 教科書審議会なんてどうせ文科省の役人が選んだ人間ばかりだから、文科省の検定意見に文句を言うものなんかいないはずだ。審議会の結論だから文科省は口出しできないというのはまったくの虚言だ。審議会の人間を入れ替えれば簡単にできる。それを政治の口出しだというなら、沖縄県民の意見はまさに政治の口出しである。沖縄県民はそう要求しているのだ。検定官だって文科省の役人の意向を汲んだ人間ばかりだ。これまで文科省は検定官を選ぶのに政治的に中立な人を選んできたとはとても言えないだろう。自分たちがまいた種だ。いまこそ文科省にまいた種を摘んでもらおう。

 もっともいい解決策は政府による検定をやめること。検定こそ政治の口出しそのものだから。検定をしなければ良い教科書ができないというのは単なる口実。政治的に口出ししたいために作った検定制度なのだから。政府の検定など無くても教科書会社(執筆者)同士の自由な競争は質の高い教科書を作り出すことができる。自民党の好きな市場主義で問題ない。

 民主党は検定制度の見直しを主張しているようだ。ぜひともその主張を貫いて、見直しをさせてほしい。集団自決だけの問題ではない。今の教科書は国定教科書に近くなっている。大政翼賛政治を支える教科書は、若い世代を政府のいいなりに作り替える。戦争への道ならし教科書をもっとまともな教科書に戻したい。アベシンゾー無責任政治家が事務局長をしていた「日本会議議員連盟」が悲願とした「愛国主義」教科書に近づいていたこの問題を沖縄県民だけがきちんと指摘したことを、ヤマトのわれわれは恥ずかしいと思う。われわれがそのような教科書(と検定制度)を止めさせなければならない。