二つの展覧会

2011-10-10 | 日記

                           和田誠 表紙画

きのうは二つの展覧会を見た。この日の午後、長岡市立中央図書館で 「 堀口大學展 」 が始まった。館所蔵の “ 堀口コレクション ” を中心にした展示で、ほとんどが書籍。中にはダイヤモンドを嵌め込んだ本もあって、大學らしい艶やかな装丁の本がたくさん並んでいた。垂涎であった。午後二時からは堀口すみれ子氏の講演会があったが、オーディエンスは小さなホールに満員だった。堀口氏がそのお話の中で、東京から関容子さんにも来て頂いています、とおっしゃっていたから、講演後、僕はお顔を存じ上げなかったので館員の方に紹介していただき、たまたまご自分の著書をもっておられたから、譲っていただいた。それが岩波から出版されたばかりの文庫版 『 日本の鶯 堀口大學聞書き 』 ( 2010年12月16日刊 岩波現代文庫 ) だった。見開きに関氏のサインと大學の詩の一節を書いていただいた。

        「 銀河 ( あまのがわ ) は 裸でねころんだ 天女です ― 大學 」

関氏は2000年に 『 芸づくし忠臣蔵 』 で讀賣文学賞をいただいているんですね、僕は何も知らなかったからご無礼があったかも知れない、でもお目にかかれてよかった。              

         越後タイムス ( 平成23年10月7日第一金曜日 第4747号 )

講演会終了後、以前このブログで紹介した柏崎市にある 「 文学と美術のライブラリー 游文舎 」 の特別展 「 フランソワ・ビュルラン展 」 を見た。チラシの写真で見るものとはおよそかけ離れた、いい展覧会であった。本物に接することが如何に感動的なことか!僕は9月24日のブログ 「 ヴィジョナリー・アート 」 で、まだ本物を見る前の感想を書いたが、これは御破算にしていただきたい。子供の絵のように偶然に描かれたものではなかった。確かに自由な想像の産物かも知れない、しかし画家・ビュルランは深い知性を持っていたのだった。

程よい空間に大作が並ぶ。しばらく佇んでいると、僕は忘れてしまっていた遠い記憶の、そう、最近読んだマルセル・プルーストの紅茶のマドレーヌの 「 失われた時 」 がドキドキと蠢いて来るのだった。言ってみれば絵画と文学の違いはあるけど、これはきっと絵画の 「 失われた時を求めて 」 に違いない。今のこの時代、人は人の方向を失路している。だから、忘れてはいけない 「 時代 」 があるのだ、それを思い出さなくてはならない。子供時代か、青春時代か、そうではなくもっともっと根源的な時代を。

暗い茶色の画面に引かれるクレヨンの白い線。まるで一筋の下降する光のように現在から過去へと僕を誘うのだった。導く白いクレヨンに素直に導かれる時、僕はもっともっと素直に内面への旅をしなければならない。深い深い闇の中にあってさえも、人は人と出会うことができるのだ、と。ビュルラン氏の知性はこの一本の白いクレヨンであった。

こういう展覧会が新潟の隅っこで行われているということを、隅っこだから誰も知らない。現に夜の懇親会に参集した人の数は、可哀相なくらい少なかった。心ある美術に関心ある人々よ、騙されたと思って見て見るがいい。絵画の力というものが改めて身に沁みるだろう。  

 


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