風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

言の葉の 魔術遣いに 幻惑(まど)わされ 処女の血に似た 童貞捨てぬ……

2005-06-12 16:23:28 | トリビアな日々
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言葉が吃立するということがあるのだ。まるで、活字の行間から詩句は匂い立つように立ち上がる。


死は一瞬のめまひに肖つつ夏はやも少女らが亜麻いろの腋の巣
(「感幻楽」 1969年 白玉書房刊)

火の星の夏 淡き血の夏 われは襤褸翩翻(らんるへんぽん)として架(かか)る
(「星餐図」 1971年 人文書院)

難解でデレッタント、そして耽美的なほとんど言語の魔術とでも言いたい言葉使い。塚本邦雄の歌にあふれるものは、短歌という日本語の深部にまで降りるような厳格な美意識でもあったろうか。
それは、こんな自作の跋として記した自負もしくは矜持にも窺われる。


前歌集『黄金律』の跋に私は、短歌、それは負数の自乗によって創られる鬱然たる『正』のシンボルであると記した。單なる正數的宇宙に浮遊してをゐたのは、前衛短歌以前の定型詩であつた。そして負:正逆轉の秘を司る三十一音律詩型こそ、まさに<魔王>と呼ぶべきであらう。(『魔王』跋文)


古今東西の古典に精通し、塚本邦雄の歌は本歌どり、パロディもしくは歌の中に古典作品を隠しおおせることによってまるで錬金術の秘法のように、たおやかにひそやかに作用してくる。


「十二」とは殊に私の愛着の深い数字である……歌集標題を案ずるにあたって、この感慨は更に深かった……短歌なる詩形がいかに特殊であり、いかに困難を極め、かつまた日本語の母胎、根幹として、恐るべき力を秘めてゐることが、身に染みて感じられる。言語芸術は勿論叡智の所産であるが、韻文定型詩が形を成し、生まれでようする言語空間は、明らかに知性の介入を許さぬやうな気象学にも、大いに支配されてゐるやうだ。精妙巧緻な技法と、稀有の秩序と調和なくしては成立せず、しかも歌はそれらを超えた非合理の、真空状態で一瞬に調べを得るのではあるまいか。
言葉の遊燕流動する宇宙の、「天変」とも呼ぶべき透明で神々しい暴力が、単なる言葉に新しい命を与へ、一篇の詩歌に変貌させる。殊に短歌はその時に発する最も美しい詩語の火花と、結晶と、そのしたたりであると言ふ他はないだらう。(『迷宮逍遥歌』跋文)


夏いまだ童貞の香の馬を責む恋いつの日に解かるる魔法
(「されど遊星」 第十歌集 1975年 人文書院刊)

馬を洗わば馬のたましひ冴ゆるまで人恋はば人あやむるこころ
(「感幻楽」 第六歌集 1969年 白玉書房刊)


このように言葉を魔術師のようにあやつる先駆者がいるところでは、自分の才能のなさを思い知らされるばかりと覚悟して中学生のころに手ほどきを受けた短歌をボクは潔く捨ててビート詩を書き出したのであった。しかし、塚本邦雄という歌人の存在には長い間幻惑されたことは確かだ。この文章(ふみ)は、塚本邦雄への追悼と言うよりは嫉妬であり、怨みである。

(写真は自選歌集「茴香變」1971年6月 湯川書房より)
※この記事のタイトルは塚本邦雄ではなく、僭越ながらボクの創った追悼歌です。


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2 コメント

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http://cambrian.jp/ (ユミ)
2005-06-16 11:37:14
http://cambrian.jp/
 
先日来、友人が主催するこういうお遊びの場で5-7-5で、おおいに盛り上がり、遊びほうけておりました。
セッション2の5-7-5カンブリアンのコーナーです。
(今回の星座作用はその麻薬的な世界に引きずられるとお仕事捗らなくなりそうで意識的に私は避けましたが。。。)

お知り合いになれたのがもう少し早ければJUNさんの華麗な句も繋がれたのかと少し、残念。

ココの管理人の中村理恵子と安斎さんはmixi友達でもあります。おもしろがりやたちなのでご興味あれば覗いてみてください。
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ありがとうございます。こんど覗かせていただきま... (フーゲツのJUN)
2005-06-16 19:18:48
ありがとうございます。こんど覗かせていただきます(いまは、京都への準備で気忙しいので……)。
しかし、現在ボクは短歌は作っておりません。遊びならやるかもしれませんが、塚本邦雄、寺山修司、岡井隆などなど……足下にも及ばないことを自覚して短歌は詠んでません。
カンブリアンという命名でもまたつながりそうな予感が……。
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