宿無しの 旅の路上の 乞食(バム)の逝く(雲爺JUN)
PONが、死んだ。チェルノブィリ24回忌(原発事故から24年目)だったこの4月26日午後2時20分ころ。訃報はメーリングリストや、ブログ、ツィッター、mixiなどを通じて多くのひとが知ることになった。PON本人はPCの操作も知らない化石のような世代に属していたにも関わらず。
PONってだれ?と思われることだろう。PONがPCを操るはずがない。かれは、この世界を生きた真に「縄文時代」の野蛮人だった。1960年代の初め頃、バビロンシティ新宿にこのような野蛮人(聖なる野蛮人)、放浪者(バカボンド)、ホーボーやビートニクスが集い、集まったのだ。かれらは自ら「部族(TRIBE)」と名乗った。そして、その集ったカフェ、そこが「新宿風月堂」だった。
その頃ボクは新宿の夜を徘徊する行き場もなく、家もないフーテンで、歌舞伎町の入り口の銀行前で、酔客相手に似顔絵描きをしていたひとりの侏儒と出会ったのだ。それが、PONで、似顔絵描きのPONはまるでインドのサドゥのように結跏趺坐をしてマントラを唱え、焼酎をガブガブと飲んだ。
深夜ジャズ喫茶から「風月堂」へ鞍替えしたボクは、こうして山尾三省、サカキナナオ、マモ、ナーガ、秋庭ナンダ、シロなどの「部族」グループの連中と知り合うことになる。「部族」が「部族」と名乗った年、それが1967年で、アメリカではサンフランシスコのゴールデン・ゲート・パークで「Human Be'In」がアレン・ギンズバーグ、アレン・コーエンなどの呼びかけによって行われ、この年はのちに「Summer of LOVE」と呼ばれたのだ。
その同じ年「Human Be'In」と呼応したアングラ新聞『プシュケ・ジャーナル』が刊行され、さらに年末には目も彩な多色刷りの新聞『部族』が刊行された。その表紙と裏表紙を飾ったのが、PONのイラストだった。そこには、息を?むようなヒンドゥ的な世界が踊っていた。たった三色のカラー刷りが、まるで多色刷りのサイケデリックな色合いに見えたのは、PONの絵の力量によるものだった。
「部族」は、トカラ列島の諏訪之瀬島をはじめとする島々や、山奥などの辺境にコミューンを建設しだした。その中でも、PONのつくった無我利道場はヤポネシアからの独立を射程においた過激な運動だった。直接には奄美の枝手久島に計画されていた石油備蓄基地(CTS)の反対闘争だったが、地域を二分する対立の中で、無我利道場は賛成派の肩をもつ右翼の車の突入でケガ人を出すまでの犠牲を払うことになった。
PONは「おまつりポンタ」という異名をもっていた。宇宙大のまつりを考えていたPONは、新宿のグリーンハウスから八ヶ岳山麓、位山どこであれ、体制にまつろわぬものとして万物をまつる祭司のような存在だった。ボクが、PONと再会したのも「88いのちのまつり」の会場だった。
さらに、晩年のPONはマリファナ解放運動の先陣を切る。PON自身が初期の逮捕者と言う因縁もあってこの国では、古代からの有用植物であった「麻」を戦後、GHQの押しつけもあって「麻薬」に指定した。それでも、60年代半ばまではこの「麻」は、ありふれていて都会の片隅に群生をつくっていたりした。
ポンはこの我が国にとっても伝統的な植物「麻」に「聖なるしるし」を見たのであるらしい。桂川大麻裁判の支援グループをつくったり、その広報・資金稼ぎの「アナナイ通信」などを刊行するその信念と情熱は晩年まで一貫していた。
ありがとう!PON!お前の遺志はボクたちと若い世代が引き継ぐだろう。
お前はシバ派のサドゥだったとボクは思っている。最後におまえと一緒に唱えよう!
シャンカラ・シバを!
ボン・シャンカール!
?シャンカラ~シバァ~♪
?シャンカラ~シバァ~♪
?シャンボーマハデバ♪
♪シャンカラシバァ~♪
(永遠に繰り返す!)
Photo by aquilha/All night Rainbow Show at 1975
(4月30日にアースダムで配布された「ねたぞく新聞/ピースパイプ」にボクが寄稿した文章です。当日、Barスペースで読み上げました。写真提供の広島のaquilhaに感謝します。)
PONが、死んだ。チェルノブィリ24回忌(原発事故から24年目)だったこの4月26日午後2時20分ころ。訃報はメーリングリストや、ブログ、ツィッター、mixiなどを通じて多くのひとが知ることになった。PON本人はPCの操作も知らない化石のような世代に属していたにも関わらず。
PONってだれ?と思われることだろう。PONがPCを操るはずがない。かれは、この世界を生きた真に「縄文時代」の野蛮人だった。1960年代の初め頃、バビロンシティ新宿にこのような野蛮人(聖なる野蛮人)、放浪者(バカボンド)、ホーボーやビートニクスが集い、集まったのだ。かれらは自ら「部族(TRIBE)」と名乗った。そして、その集ったカフェ、そこが「新宿風月堂」だった。
その頃ボクは新宿の夜を徘徊する行き場もなく、家もないフーテンで、歌舞伎町の入り口の銀行前で、酔客相手に似顔絵描きをしていたひとりの侏儒と出会ったのだ。それが、PONで、似顔絵描きのPONはまるでインドのサドゥのように結跏趺坐をしてマントラを唱え、焼酎をガブガブと飲んだ。
深夜ジャズ喫茶から「風月堂」へ鞍替えしたボクは、こうして山尾三省、サカキナナオ、マモ、ナーガ、秋庭ナンダ、シロなどの「部族」グループの連中と知り合うことになる。「部族」が「部族」と名乗った年、それが1967年で、アメリカではサンフランシスコのゴールデン・ゲート・パークで「Human Be'In」がアレン・ギンズバーグ、アレン・コーエンなどの呼びかけによって行われ、この年はのちに「Summer of LOVE」と呼ばれたのだ。
その同じ年「Human Be'In」と呼応したアングラ新聞『プシュケ・ジャーナル』が刊行され、さらに年末には目も彩な多色刷りの新聞『部族』が刊行された。その表紙と裏表紙を飾ったのが、PONのイラストだった。そこには、息を?むようなヒンドゥ的な世界が踊っていた。たった三色のカラー刷りが、まるで多色刷りのサイケデリックな色合いに見えたのは、PONの絵の力量によるものだった。
「部族」は、トカラ列島の諏訪之瀬島をはじめとする島々や、山奥などの辺境にコミューンを建設しだした。その中でも、PONのつくった無我利道場はヤポネシアからの独立を射程においた過激な運動だった。直接には奄美の枝手久島に計画されていた石油備蓄基地(CTS)の反対闘争だったが、地域を二分する対立の中で、無我利道場は賛成派の肩をもつ右翼の車の突入でケガ人を出すまでの犠牲を払うことになった。
PONは「おまつりポンタ」という異名をもっていた。宇宙大のまつりを考えていたPONは、新宿のグリーンハウスから八ヶ岳山麓、位山どこであれ、体制にまつろわぬものとして万物をまつる祭司のような存在だった。ボクが、PONと再会したのも「88いのちのまつり」の会場だった。
さらに、晩年のPONはマリファナ解放運動の先陣を切る。PON自身が初期の逮捕者と言う因縁もあってこの国では、古代からの有用植物であった「麻」を戦後、GHQの押しつけもあって「麻薬」に指定した。それでも、60年代半ばまではこの「麻」は、ありふれていて都会の片隅に群生をつくっていたりした。
ポンはこの我が国にとっても伝統的な植物「麻」に「聖なるしるし」を見たのであるらしい。桂川大麻裁判の支援グループをつくったり、その広報・資金稼ぎの「アナナイ通信」などを刊行するその信念と情熱は晩年まで一貫していた。
ありがとう!PON!お前の遺志はボクたちと若い世代が引き継ぐだろう。
お前はシバ派のサドゥだったとボクは思っている。最後におまえと一緒に唱えよう!
シャンカラ・シバを!
ボン・シャンカール!
?シャンカラ~シバァ~♪
?シャンカラ~シバァ~♪
?シャンボーマハデバ♪
♪シャンカラシバァ~♪
(永遠に繰り返す!)
Photo by aquilha/All night Rainbow Show at 1975
(4月30日にアースダムで配布された「ねたぞく新聞/ピースパイプ」にボクが寄稿した文章です。当日、Barスペースで読み上げました。写真提供の広島のaquilhaに感謝します。)