風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

『セーヌ左岸の恋』とサンジェルマン・デ・プレ族

2008-06-29 23:52:01 | アート・文化
Love_left_bank_2 1956年、一冊の写真集が出版された。オランダ出身の新進カメラマン、エド・ヴァン・デル・エルスケンが出版した『セーヌ左岸の恋』(英語名:Love on the left bank)である。

 この写真集はそれまでの「写真は真実(決定的瞬間)を切り取った(事実の)記録」という概念を揺さぶるものだった。というのも、エルスケンはパリに来て以来、撮り溜めていたサンジェルマン・デ・プレのカフェ、クラブにたむろする若者の生態や、街の風景に演出した写真を組み合わせてストーリー性に満ちた「作品」(エルスケンはそれを「ドキュ・ドラマ」と呼んだ)として発表したからである(出版それ自体はエドワード・スタイケンの勧めによる)。
 ボヘミアンとアーティストの吹きだまりであったパリは、世界中からこの街に魅惑されたひとびとを迎え入れたが、パリはコスモポリスであるのと同時に退廃の街でもあった。と、同時にパリはエグザイル(亡命者)やリフジー(難民)の街でもあったのだ。そう、不良外人にも開かれていたと大至急付け加えておこう(エルスケン自身が外国人である)。

 モンパルナスがその中心だったのは一時代前で、1940年代後半からサルトルの子供達、実はサルトルの著作など一冊も読んでいなかっただろう「実存主義者たち」は、いわばマスコミ、ジャーナリズムに踊らせられた形でサンジェルマン・デ・プレ周辺のカフェやクラブに集まってくる。
 「実存は本質に先立つ」、「人間は自由という刑に処せられている」??それらの断片化されて流布されたサルトルの言葉は、彼らには教養よりは、口説く時の格好のフレーズだったに違いない。彼らこそは流布された「実存主義者」と呼ぶよりは、ボリス・ヴィアンが名付けたように「サンジェルマン・デ・プレ族」と呼ぶべきだった。サルトルは地上のカフェにその拠り所をもったが、サンジェルマン・デ・プレ族は地下生活者だったからだ(ボリス・ヴィアン『サンジェルマン・デ・プレ入門』)。

 さて、エルスケンがフィクションの形でストーリー性をあたえて表現した写真は、その後「組写真」と呼ばれるコラージュ法のはしりのような作品だった。とはいえ、決してすべてがフィクションだった訳ではない。むしろ、その英語のタイトルに見られるようにややもすればクサくなるロマンを現実に与えた言えばよいだろうか?
 ともすれば、商業主義的なソフィストケーションとも見られるかも知れないが、すくなくともそのモノクロの圧倒的な美しさで「ある時代」のパリが、サンジェルマン・デ・プレが甦ってくる!

 同時代の日本の若きカメラマンにも圧倒的な影響を与えた写真集であったのは間違いない。たとえば、自らその影響を認めた細江英公の『おとこと女』などである。

 参考文献:『セーヌ左岸の恋』大沢類・訳/東京書籍出版1998年8月刊

(写真)『セーヌ左岸の恋』の裏表紙にも使われたアン(ヴァリ・マイヤーズ)の写真。