風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

鳥は哭き 魚の目はなみだ

2006-03-30 00:45:16 | トリビアな日々
Basyo_1そう、一昨日書きたかったことは昔の自分の無知さかげんに気付いたということだった。
最近、MIXIでのマイミク仲間がさかんに高校時代の自分の写真をアップしたり、回顧趣味に走っているがそれに近いことだ。だが、ボクの場合、それがつまり自分の高校時代というものが、いかに偏狭な視野の狭いバカモノだったかということにあらためて気付いたという情けない話なのである。

たびたび学校をフケながらも、どうにか温情で卒業させてもらった高校に一昨日行ったのだ。あることのために証明書が必要になったために、いまは東京の反対側にある母校に……。その帰りだ、懐かしいという回顧モードに入っていたボクは当時のボクのバカさ加減を思い知らされたことがあった。
当時は、そのような親切な文化財の表示などなかったからかもしれないが、高校の入りしなにある神社は、なんと「芭蕉碑」の建つ由緒ただしい神社だったのだ。

ああ、情けない! 当時のボクはこの神社で近くの中学生の美少女を見初めて、モデルになってくれとクドいていた思い出くらいしかないのである。そう、ボクは写真部の部長とかいうことをやっていて、愛機で撮ったモノクロネガフィルムなどを暗室で焼いたり、撮影会などということもやり、千住大橋の上を東京オリンピックの聖火ランナーが走る時など、学校の御墨付きで撮影にいったりしていたのだ(自分でも信じられません(笑))。

その千住大橋は芭蕉が奥の細道の旅に出立した折に、千寿(千住)で船を降りて、日光街道を歩き出したその折に「矢立ての初め」と言われる有名な句が詠まれたところなのだ。まさしく、旅のはじまり、そのひそかな不安と決意が詠み込まれた一句。

行く春や 鳥啼(なき)魚の目は泪

そして、これは調べて分かったことだが、その日は元禄2年3月27日、ボクがそのことに気付いて自分の無知さを嘆いた317年前の前日だった(太陽暦に直すと5月16日になってしまうが……)。
この神社の碑は、1820年の「芭蕉忌」(10月12日)に、芭蕉を偲んで千住周辺の文化人が建立したものだという。

それこそ、「昼行灯(ひるあんどん)」同然だった当時のボクは、近くにあったこのような偉大なる俳聖のゆかりも知らず、いったい何に関心があったというのだろう?

(写真は、碑文の下の芭蕉の肖像をアップで撮ったものです。さすが、元写真部部長(笑)!)