みちあき神父のふぉと日記

カトリック教会の司祭です。日記のテーマは「がんばらない―Take it easy―」。ここで、ひと息ついてくださいね。

ナタナエル

2006-10-11 17:09:22 | Everyday is special
きょうは「聖書を読む会」でした。

ともに読んだ箇所は、ヨハネ1章43-51節。
ガリラヤへの道すがら、フィリポを弟子にし、それからナタナエルが信じる者に変えられていった場面です。

今回も、素朴な疑問や引っかかった箇所、こころに残ったことを分かち合い、その後、真生会館聖書センターの「ゼーヘル」の解説を頼りに味わいを深めました。

その中で、ナタナエルが、イエスさまに「わたしは、あなたがフィリポから話しかえられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われて、すぐに「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」と信仰告白をする場面があります。

が、どうしてこんなに簡単に信仰者になることが可能だったのだろうと、皆で疑問に思っていたところ、雨宮神父の素晴らしい解説に出会いました。

「ナタナエルはこのとき、自分がイエスを見るよりも前に、イエスが自分を見ていた、という喜びに満たされたにちがいありません。神の子はすでにわたしたちのもとに来ています。しかし、それに気づくことのできないわたしたちのために、イエスがわたしたちを見つけます。」
(「ゼーヘル」福音書編、降誕後第1週号、2006年1月1日、11ページ)

新共同訳で「出会った」と訳された言葉は元々「見つけた」という意味だとか。
たしかにフランシスコ会訳の聖書には、そのように訳されています。

イエスさまに見ていただいていたことを知った喜び。

それは、たしかに感動するだろうなあ、という話になりました。

ナタナエルの喜びが、きょう初めて伝わってきたように思いました。

真生会館聖書センターのホームページはこちらです。
http://www.catholic-shinseikaikan.or.jp/seisho/index.html


写真は、友部修道院の庭。影が、もう冬の光に近づいてきました。

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2 コメント

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かくれんぼかな (イットウ)
2006-10-17 22:50:59
 そうっすよね。キリストをわたしが見つけるんじゃなくて キリストが私を見つけるんだと思う。前、サンパウロだったかで「神様を見つけた30人」なる新受洗者の本が出版され 違和感を感じました。「神様 が 見つけた30人」じゃないかと感じたんですね。



 でも最近 神様に単に「見つけられる」だけじゃなくてもっとしっかりつながる感覚がほしいな、と思います。私の理想的イメージだと神様が銭型警部で 私たち信者はルパン3世。銭型のとっつぁん(神様)は凄まじい情熱をかけてルパン3世(信者)を逮捕しようと追い掛け回します。「神様にタイホされちゃった!!」なんて甘美です。

…銭型のとっつぁんではじじむさいから リジューのテレジアにタイホされたいな。きっと甘美です。僕はテレーズにタイホされたら その手錠を聖遺物として家宝にします。一回500円で取手のみんなにも触らせてあげましょう。
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イットウさんへ (みちあき)
2006-10-18 08:47:03
なるほど、ルパン3世と銭型警部ですか。

おもしろいイメージですね。



たしかに、「神様を見つけた」というよりも「神様に見つけられた」という体験もさることながら、神様とつながっている感覚がほしいですよね。



ぼくのイメージは、孫悟空が仏さまの手の上を飛び回っていながら逃げているつもりになっている姿かなあ。
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