お誕生日に、車折神社に行った折、石入りのお札を買い求めました。
お札の裏には、いろいろと注意書きが書かれ、「決して、札の中の石は見ないように。」と、固く書かれています。
そうなってくると、余計に見たくなるのが人情です。
昔、読んだ、「鶴の恩返し」では、おつうが、おじいさんに「はたを織っている間は、決して見ないでください。」と、言われているにも関わらず、おじいさんは障子に穴を開けて、はたを織っているおつうを見てしまうのです。
そんな、おじいさんの気持ちが今では、痛いほどわかるのです。
お札の中の石は、本当にパワーのある石なのか。
それが知りたくて、うずうずする私です。
そんな気持ちをひた隠し、ひたすらお札に願をかけます。
気のせいか、お札が願いを叶えてくれそうな気がするのです。
気持ちって、本当に単純なものなんですね。
その辺に転がっている石かもしれないのに、お札に入れられると、途端、神様に祈っているような気になるとは。
願いが叶わないといけないので、お札の石は見ないようにしているのですが、私の気持ちは、鶴の恩返しのおじいさんのように興味津々にお札の中身に夢中です。
願いが叶ったら、お札の石は、お札から出して地面に戻すんですが、それがいつになるやら私にはわかりません。
いつまでも気になって、気になって仕方ない気持ちを押し殺すことが出来るのか、今の私にはわかりません。