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あみの3ブログ

ラーメン食べ歩きとお城歩き、その他感動したことを写真で綴る雑記帳
更新は不定期です

2020年5月のまとめ

2020-05-31 23:06:09 | まとめとカレンダー
5月に食べたラーメンの杯数、、、15杯
1月からの累計杯数、、、128杯

【月別グラフ】


【訪問店リスト】



【杯数上位店】



【削減目標】
概ね 40杯/月 以下、、、〇


【考察】
前月5月比、、、-23杯
昨年同月比、、、-19杯

◆原因、、、コロナ禍
◆要因、、、遠征中止、店舗休業、自粛効果が大きかった
◆杯数上位
4杯以上、、、なし
3杯、、、貪瞋癡
2杯、、、、金色堂、福座、ちゃるめらぐっぴ~、

◆初訪、、、なし
◆新店、、、金色堂

137 福井城@福井市 令和二年(2020) 5月29日 柴田勝家の北庄城を全面改築した、天下普請の巨城

2020-05-31 20:54:58 | 城歩き
【福井城】
広大な城域を多くの水堀が取り巻く城

【歴史】
天正3年(1575)越前北庄を信長から与えられた柴田勝家は自ら縄張りをして北庄城を築城した。勝家は天正11年(1583)の賤ケ岳の戦いで敗死し、北庄城も焼失する。その後慶長5年(1600)に徳川家康の二男結城秀康がこの地に入り、翌年から6年がかりで北庄城を拡張して、全国諸大名の天下普請による新たな城を築いた。3代目松平忠昌の時、城名は「福居(福井)城」と改名された。創建時の四重天守は寛文9年(1669)に火災により焼失した。

【縄張り】
勝家の北庄城は足羽川と吉野川の合流地点に築かれ、足羽川を堀の一部として利用していたと推定され、安土城に匹敵する巨城であったという。秀康が大修築した福井城も約2km四方に及ぶ広大な城域に四重五重に水堀を巡らし、輪郭式の縄張りを構えていた。本丸北西隅には天守台上に四重五階の天守が築かれていた。
※出典、、、続日本100名城 公式ガイドブック・日本城郭協会監修(学研)
、、、櫓門資料館展示




現在本丸跡には「福井県庁」「同議会堂」、「福井県警本部」が建設されている。
また当時の「西二の丸」「西三の丸」は「中央公園」となって市民の憩いの場でもある。

【見所】
内堀に架かるメガネ橋「御本城橋」を渡ると、福井県庁舎・県警本部庁舎がある行政の中心地。



県庁舎前には初代城主「結城秀康」の騎馬像が建立されている。



南西隅の石垣と内堀
背後は福井県警本部庁舎



北西隅の石垣と内堀
天守台上に四重五階の天守が築かれていた



本丸に至る3本の橋の一つ「北側土橋」
天守台から見る内堀と土橋



「西二の丸」「西三の丸」は「中央公園」となって市民の憩いの場でもある。
松平春嶽などの藩主の住居であった「御座所」が西三の丸にあった時代には、藩主は御座所から「御廊下橋」を渡り、「山里口門」を通って本丸へ向かったと考えられています。、、山里口御門パンフより抜粋、



◆本丸に至る三本の橋の一つ「御廊下橋」
平成20年(2008)に復元された



藩主は御座所からこの屋根付きの橋を渡って本丸へ向かった




◆「山里口御門」
平成30年(2018)に復元
福井城本丸の西側を守る門として築城当時からあり、「廊下橋御門」や「天守台下門」と呼ばれていました。寛文9年(1669)の大火事で焼失してしまいましたが、その後再建されました。構造と向きが異なる二つの門(櫓門と棟門)と周囲の石垣が方形の空間(枡形)を形成する枡形門の構えをしており、敵の侵入を食い止める空間となっていました。
、、、山里口御門パンフより抜粋


御廊下橋を渡ると「土塀」が復元されている
枡形石垣の上にあり、外部からの攻撃に備えて内部に砂利が込められた強固な造りとなっている。腰下には笏谷石(足羽山産)の板石を貼り、鉄砲狭間が設けられています。、、、山里口御門パンフより抜粋



「棟門」
枡形に入るための最初の門。二本の柱とその上部を連結する冠木で切妻造りの屋根を支える構えで欅材が使われている。、、、山里口御門パンフより抜粋



「櫓門」
高石垣に挟まれた場所に建っており、門の上に櫓を設けた構をしています。櫓の内部は武具倉庫として使われていました。、、、山里口御門パンフより抜粋



櫓門の内部は「資料館」となっており、無料で見学できます。(土足厳禁)



この櫓門を抜けるとすぐに天守台に登る階段があります。
内堀の外から見上げた際には天守台の石垣には気付かなかったのですが、本丸の平坦地から見るとずいぶん高いですね。



天守台は二段になっており下の段には
個人所有だった城の土地を県に寄付した当時の顕彰碑や



福井の地名の由来伴ったと言われている「福の井」の井戸が復元されている



福の井



なんと天守台が二つもある
大きさが異なる「大天守台」と「小天守台」



小天守台(控え天守台)
1948年(昭和23年)6月28日に発生した福井大地震で崩壊した石垣



大天守台からみた崩壊した小天守台(控え天守台)の石垣



大天守台の石垣



大天守台の石垣の一部にもズレが見受けられます


大天守台の礎石部分はちょっとした児童公園並みに広い
この全域に天守が築かれていたとは思えないが、往時の巨大さが伺える。



ちなみに設計図が残っており



それをもとにジオラマが製作展示(櫓門内資料館)されています。

本丸御殿を中心に北西隅に天守がそびえ立ち、残り三つの隅には「巽櫓」などが睨みを効かせ
三つの橋にはそれぞれ枡形と櫓門で敵の侵入を阻止する機能があったようです。



また足羽山麓にある高照山瑞源寺の本堂と書院が福井城本丸御殿の移築遺構であることが判明したそうです。



現代では福井城復元アプリでCG化された福井城を楽しむこともできるようです。







【福井城】
《家康の二男結城秀康が築城した天下普請の巨城》

名称(別名);北の庄城、福居城
所在地;福井県福井市大手3丁目17
城地種類;平城
築城年代;慶長6年(1601)
築城者;結城秀康
主な城主;結城氏、越前松平氏
文化財区分;なし
近年の主な復元等;福の井、平成20年御廊下橋、平成30年山里口御門復元
天守の現状、形態;結城秀康1601年北の庄城を全面改築、望楼型4重5階非現存
         
地図;



※出典、、、続日本100名城 公式ガイドブック・日本城郭協会監修(学研)



00 北庄城@福井市 令和二年(2020) 5月29日 柴田勝家がお市の方、浅井三姉妹と暮らした豪壮な平城

2020-05-31 04:50:14 | 城歩き
【北庄城】

柴田勝家によって天正3年(1575)に築城開始された、越前北庄にあった平城。
天正11年(1583)賤ケ岳の合戦で秀吉軍に敗退し城を包囲されると、妻のお市の方と共に北庄城で自刃、城は炎上。秀吉の戦勝報告の手紙によれば高い石垣と9層からなる天守閣だったとある。
その後慶長6年(1601)徳川家康の二男・結城秀康が(68万石で入府)新たな北庄城(福井城)を築き始める。
この際に元の北庄城の堀や遺構の上に重複する形で築城したため、長い間地下に埋もれた「勝家の北庄城」の実態は不明であった。
幕末の福井藩主・松平春嶽らの尽力でかつて北庄があったとされる場所に柴田勝家を祀る「柴田神社」が建立され、現在では「北ノ庄城址・柴田公園」として市民の憩いの場となっている。なお柴田神社本殿隣には「北庄城址資料館」があり遺物や史料の展示、休憩スペース・トイレも併設されている。(入館無料)


【見どころ】
場所は福井市中央町。
足羽川沿いの主要道路「城の橋通り」に面しているが駐車場は少し離れたところにある。そのため一筋駅前通り寄りの「北庄通り」から侵入した方がコインパーキングが多数ある。
北庄通りにある標識



この路地には鳥居が建っているので目立つ



そこから数十メートルで「柴田神社」参道



市中心部ビル群に囲まれたこじんまりした境内には「お市の方」と「浅井三姉妹」の銅像が並ぶ
彼女らが本殿に正対しているのに対し、主の柴田勝家の甲冑を身にして槍を手にした像は横向き。これはかつての北庄城本丸を背にしているのだろうか?



勝家像を正面から見ると、左手が柴田神社本殿。背後が現在に残る「福井城本丸跡」方向となる。

神社周辺は福井市教育委員会による平成5年度から6回にわたる発掘調査で「福井城遺構」とその下から「北庄城」遺構が時系列で発見され、その実態が明らかになってきた。
現在は地下の遺構が目で見て分かるよう露出展示されています。



写真は主要道路「城の橋通り」から見た神社・城址
手前は勝家の功績のひとつでもある半木半石の「九十九橋」をイメージして復元した「モニュメント的」なもの。→こちら



柴田勝家の北庄城は秀吉によって陥落・破却後、その上に結城秀康によって新たに「福井城」が築城され、明治維新で廃城、戦災・福井震災によってその姿は失われてしまいました。現在は町の中心部であるこの地に、僅かにその遺構の一角が保存・整備され「柴田神社」「柴田城址資料館」が併設された「北ノ庄城址・柴田公園」として市民の憩いの場となっている。





「柴田城址資料館」
神社本殿隣に併設、遺物や史料の展示・休憩スース・トイレも併設されている。(入館無料)


城の橋通りに面して入り口がある。自動ドアだが「観音開き」には驚く!


一階は無料休憩所・トイレ完備。パンフレットや記帳コーナーもあり、狭いながら屋外展示(勝家とお市の辞世の句碑)もあります。


二階は資料展示コーナーで、じっくり読むと歴史が分かる。
家系図を辿ると日本画の「平山郁夫」画伯も勝家の血筋にあたるそうですよ。




【北庄城】
《お市の方・浅井三姉妹・柴田勝家・福井発展の礎を築いた、高石垣と7層とも9層とも伝わる豪壮な平城》

名称(別名);
所在地;福井県福井市中央1丁目21-17
城地種類;平城
築城年代;天正3年(1575)
築城者;柴田勝家
主な城主;柴田勝家
文化財区分;なし
近年の主な復元等;
天守の現状、形態;不明、7層(一説には9層)柴田氏北庄城時代(1575年)

地図;



※出典、、、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


20128 貪瞋癡「黒醤油ラーメン」@富山県氷見市 5月30日 正しく恐れて経済活動再開! 黒も旨いぞ!

2020-05-30 18:11:42 | 貪瞋癡
前回のエントリーは→こちら
ミシュランガイド2016年富山石川特別版においてビブグルマンに選ばれ
今や富山県を代表する全国区のお店
ラーメンが美味しいワインバー
貪瞋癡(とんじんち)

「人間たった一つの特技。。。」自分には活かせる特技などあったかなぁ(;^ω^)



土曜日はどんなもんやろ? 恐る恐る前を通るとナント!外待ちの行列が無いではありませんか♪
11時20分から店内に迎え入れた神対応。
窓際の風を感じながらゆったりと頂くことができました。

黒醤油ラーメン 700円(税込み)



前回3杯目に食べようとして敢無く断念した(笑)、、、黑
これも久しぶりや~♡

群馬県の正田醤油は(上皇后)の実家の親戚筋という格式のある蔵元。
ズッシリ重量感のあるコクと旨み。
「白」と同じ豚バラスライスの煮豚チャーシューから染み出す脂が、まるで鶏豚清湯のようなコクとキレのあるスープ。



粗挽き黒胡椒のヒリリとする辛さがスープをグッと引き締めてくれます。
粗みじんの玉ネギも清涼感のある薬味として、見事に仕事を果たしています。



麺は共通なんですが、スープを吸い込んで褐色に染まっています。
ザクっとした食感と濃い目のスープを纏った味わいは「煮干し」とは全く違う印象。


今迄の調子で連食するつもりでしたが、どんどん中待ちが増えてきたのでここらで失礼することにします。
20分ほど後に再び前を通ると10人くらいの外待ちとなっていました。

宣言解除で正しく恐れて経済活動再開!ですね。


♪ ♪
【お店情報】

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お店(店主)のtwitterは→こちら

貪瞋癡とは仏教用語。貪とん=むさぼり(欲深く物をほしがる、際限なくほしがる)、 瞋しん=怒り(自己中心的な心で、怒ること、腹を立てること)、癡ち=迷めい妄もう(物事の道理に暗く実体のないものを真実のように思いこむこと)、これを人間が持っている三毒と仏教では言います。

店名;貧瞋癡 (とんじんち)
住所;富山県氷見市朝日本町1-30
電話:0766-72-0104
営業時間;11:30~14:00 19:00~翌0:00(ラーメンバーなので夜のラーメンは概ね21時くらいまで)
火曜日の夜営業は不定休
定休日;月曜日
駐車場;なし
地図;

20127 まほろば「鶏醤油」@福井 5月29日 聖地の水鶏系に感涙!

2020-05-29 18:14:14 | 福井市内のラーメン
前回のエントリーは→こちら
金沢の『そらみち』と‬
‪福井の『めん屋さる』が合併してできた
まほろば
福井の旧『めん屋さる』店舗にて統合



今年初の福井、しかもナント2019年9月以来の訪問。
ご無沙汰するにもほどがある(笑)

外待ち席もゆったり間隔を採っていますが、実際の行列はどうなっているんでしょうね?


店内は「次亜塩素酸水」の噴霧で滅菌していますので安心して食事が楽しめます。


頂いたのは勿論、大好きな
鶏醤油 800円(税込み)


本当に久しぶりに目にする「目玉焼き」(笑)
日本一しょうゆの生揚げ醤油と比内地鶏の鶏油が織りなす二重構造。


北陸における水と鶏だけの出汁いわゆる「水鶏系」と言われるラーメンを提供するお店は、ここ福井に『まほろば』と『牟岐縄屋』があるだけで、『旧そらみち』が金沢から移転してからは福井がその聖地となっている(という説もあるw)
『自家製麺TERA』や富山の『ちゃるめらぐっぴ~』もそれに近く、また最近独立開業した中能登町の『鶏そばスプンヌードル』も青山氏直伝のレシピで頑張っていて地元でもこんなにレベルの高いラーメンが食べられることに感謝しているわけですが、やはり求道者のそれには一日の長がある。

美味い~!
美味すぎる~!
まさに感涙の美味さ!

速攻天地ガエシでスープと表層の鶏油を馴染ませる。
このスープが一番美味い!

そして、スープ・鶏油・麺が混然一体となって喉元を過ぎていく、あぁ~刹那♡


官能的なラーメンに酔いしれてKK!


福井のラー友とも再開。

久しぶりのスタッフの面々!
積もる話はいっぱいあったけど
互いの健康に感謝しつつ、
また再会することを誓って暖簾を後にしました(^^)/


♪ ♪
【お店情報】

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店名;まほろば
住所;福井県福井市渕4-207 (旧めん屋さる店舗内)
電話:0776-34-5436
営業時間;[月~金]11:00~14:00 17:00~20:00

※ただし、スープがなくなり次第営業終了します
定休日;火曜日
駐車場;あり
地図;

20126 自家製麺TERRA「鯛塩そば」@石川県野々市市 5月26日 丁寧な仕事と久しぶりに対面し、TERRAの鮮魚系ラーメンに感涙!

2020-05-28 09:33:00 | 石川ビブグルマン神樂・のぼる・TERRA
前回のエントリーは→こちら
各賞を総なめの若き創作ラーメンの雄
麺への拘りからついにNOODLE KITCHEN TERRAの店名を変更した
自家製麺TERRA(じかせいめんてら)

今回のコロナ禍でいち早く店内飲食の自粛休業から「テイクアウト」の業態に変更。
それが予約優先とはいえ、一部でも店内飲食を再開されたのは嬉しい限りです。

この日は再開を待ちわびたファンたちが夜の部営業開始早々に集まり駐車場は満車。
一旦仕切り直しで営業終了予告の「日没」寸前(笑)に戻って、予約優先にて先客を尻目に着席。

店内は「テイクアウト」の客や、予約無しで訪れた客の中待ちで立錐の余地もない盛況ぶりでした。

メニューが分からずとりあえず大好きな「鶏醤油ラーメン」を予約しておいたんですが、店内の「鯛塩POP」に目を奪われてしまいました(@_@)




鯛塩そば 950円(税込み)



店内照明は「電球色」なので色感度(ケビン値)が低いため黄色っぽく写ってしまいます(それが店主の狙いだとも伺ったことがありますw)
携帯電話のカメラのような連続光照明機能と違って、デジカメのストロボは閃光を発するので店内撮影にはやはり不向きですね。

いつもながら丁寧な作りですね~(^^♪
鶏と豚のチャーシュー2点盛り。しかも豚のレア感を少しでも長く保持するため、鶏の上に載せて断熱してあります。

ピンク色をした酢漬けの上には小花を付けた生のクレソンが彩を添えます。
エリンギのシャクッとした食感と、じゅわっと染み出す出汁の旨味が敢えてメンマを使わない拘りを感じさせます。

肝心のスープですが今回は鯛100%。鮮魚系ラーメンでは「能登の恵み」をはじめとして定評のある仕事ぶり。
最初の一口はおさかなならではのインパクトがあり、その後は旨味と塩味の海に漂うばかり。

自家製のプリプリ、ムニムニっとした弾力のある中太麺。
今回は塩味も効いて、とても輪郭がハッキリしたスープに仕上がっているので、この位しっかりした麺のほうがバランスが良いですね。


◆ ☆ ♪
通常営業に戻る前の移行措置として現在
【TERRA WORKS capriccioso】として営業
メニュー、営業時間等は以下の通りです。ご注意願います!



♪ ♪
【お店情報】

お店のwebページは→こちら
店名;自家製麺TERRA(じかせいめん てら)
住所;石川県野々市市扇ヶ丘9-20 扇ヶ丘ビル1F横
電話:非公開
営業時間;【 火・水・土曜日 】
11:00~14:00  17:30~20:00
     【 日曜・祝日 】
11:00~14:00
LOはいずれも15分前
※日曜夜営業は「テラ・ワークス」つけ麺専門店として営業 17:30~スープ無くなり次第
※注意 2019年3月をもって「テララークス」は一旦休止となりました

※お昼営業時は就学前のお子様は入店できないのでご注意ください
定休日;月曜日と金曜日の他に木曜日が追加となりました(2018年10月)
駐車場;あり
地図;

20125 麺や 福座「季節の醤油ラーメン」@金沢 5月26日 これは屋台では有りませんが、その雰囲気は今だけの特典!

2020-05-27 11:59:00 | 石川県(金沢・野々市他)のラーメン
前回のエントリーは→こちら
日本料理出身の大将、
京都で「福さん」を立ち上げたのち金沢へ移転してはや数年、
今や押しも押されもせぬ、金沢を代表する実力店!
麺や 福座(ふくぞ)

夜の部に再訪したいと願っていたら、ひょんなことからその願いが叶いました。

福座の鶏ガラ清湯
濃い~のも旨いけど、アッサリも負けてはいませんよ!

季節の醤油ラーメン並 800円(税別)ペイペイ使えます


やはりストロボを焚くと発色が鮮やかですね。
昼間のテント生地による悪影響は「日中シンクロ」で解決できますよね。忘れていました(;^ω^)
次回からは必ず実施しましょう(笑)


地元金沢「中初商店」の生揚げ醤油を使った、華やかさと重厚な旨味を兼ね備えたスープ。


プリっプリ、ムニュっとした弾力のある細麺。
中華そばとの相性の良さはこのツルっとした食感と喉ごし。全粒粉ブレンドの香りと縮れによるスープの絡みでめっちゃ美味しい!


福座の清湯ラーメンが他とは一味違うのはここ!
勿論丁寧な仕込みや醤油タレ「天祐」の底力もありますが、自分が思うのは大将のセンス。
日本食の調理人として培った経験と技術の引き出しの多さ。
それが「季節の、、、」に凝縮されている。
旬の食材だったり、季節を感じさせる演出だったり。なにより、素材を上手に活かす調理や味付けが施されている事。
まさに料亭や割烹の逸品を彷彿とさせるラーメンなのです。




【仮設テントふくぞ】
◆外観
実店舗裏の駐車場に設置、アンカーでロープ固定
四面ネット張りで風通しよく、虫の侵入もないので快適



実店舗で注文し代金先払いの後待機
◆店内
アルコールスプレーで手指を消毒
テーブル1卓、丸椅子6脚
外待ち席として縁台1脚(2~3人掛け)
その他テーブル1卓、、、こちらは配膳用
実店舗から注文の品がここへ置かれますので、自分で引き取りテーブルへもっていく
食後は食器をここへ戻して、アルコールスプレーで食卓テーブルを拭く、、、以上セルフ方式


◆期間
5月末で終了との情報がありましたが、この日のお話では暫く続けたいとの事。
営業再開日や対策についても伺いましたがここでは割愛いたします。




♪ ♪
【お店情報】

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店名;麺や 福座 (ふくぞ)
住所;石川県金沢市有松4-1-1
電話:076-243-2930
営業時間;11:30~14:25(LO)
日曜・祝日17:30~20:55(LO)
平日・土曜18:00~20:55(LO)
定休日;月曜 (不定期に火曜,店頭に掲示)
駐車場;あり、共同駐車場
地図;


20124 麺や 福座「煮干し豚骨」@金沢 5月23日 仮設テントで食べるニボトン!今までも、これからも無い、切ない思い出になることでしょう!

2020-05-26 06:03:21 | 石川県(金沢・野々市他)のラーメン
前回のエントリーは→こちら
日本料理出身の大将、
京都で「福さん」を立ち上げたのち金沢へ移転してはや数年、
今や押しも押されもせぬ、金沢を代表する実力店!
麺や 福座(ふくぞ)

コロナ禍にていち早く営業自粛・一時休業に入った同店ですが、「昔取った杵柄」というか「本領発揮」!
お惣菜の持ち帰りとして新たなスタートを切りました。
メニューは「竹の子ごはん」と「自家製出汁巻き玉子」を中心に、「煮物・焼き物等の盛り合わせ」など日替わりで楽しめる。
そのどれもが和食料理人としての経験と技術に裏付けられた本格的料理。
特に「自家製出汁巻き玉子500円(税別)」はズッシリ重量感があって、じゅわっと鰹出汁が染み出しメチャメチャ美味しくて絶品ですよ~!


今回は仮設屋外テントにて提供されている「福座ラーメン」に「季節の醤油ラーメン」、さらに「ニボトン」までもが加わったと聞きさっそく行ってきました。

仮設テントは店舗裏の駐車場に設置してあり、実店舗にて注文し代金先払いの後テントで外待ちします。



この日は好天に恵まれ爽やかな風が吹くなか、開放的な雰囲気でラーメンを食べることができました。



煮干し豚骨 800円(税別)ペイペイ使えます


テントの生地がオレンジ色なので太陽光線が褐色に変換され被写体を思いもかけない色合いに映し出します。
アプリで補正しましたがお見苦しい点はご容赦願います(;^ω^)

福座ご自慢の濃厚豚骨スープに、細かく砕いた背黒煮干しを大量に合わせたトロンとしたスープ。
もちろん苦みえぐみは無く旨味・塩味がしっかりコントロールされている。


福座のニボトンと言えばプリプリ・モチモチな食感の極太麺。
このスープにはこの麺しか考えられないくらいの相性の良さ(個人の感想です)


そしてこのメンマ。
いつもながら、手抜きの無い仕事です。


昼間の外ラーメンも良いですが、提灯に灯が入り「屋台」風で頂くのも風情があっていいものですよね。テント営業がある間にぜひ夜の雰囲気を味わってみたいものです。
でも正直切ないです。


♪ ♪
【お店情報】

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店名;麺や 福座 (ふくぞ)
住所;石川県金沢市有松4-1-1
電話:076-243-2930
営業時間;11:30~14:25(LO)
日曜・祝日17:30~20:55(LO)
平日・土曜18:00~20:55(LO)
定休日;月曜 (不定期に火曜,店頭に掲示)
駐車場;あり、共同駐車場
地図;

00 末森城@石川県宝達志水町 令和二年(2020) 5月22日 見所編

2020-05-25 05:14:18 | 城歩き
お城検索→こちら

いしかわ城郭カード→こちら


石川県史跡【末森城】

歴史上「末森」の名前が現れるのは、上杉謙信が七尾城攻めの時に「春日山にあてた手紙」の中に書かれているものが最も古い記録です。江戸末期から明治時代に書かれた書物には、上杉謙信より前の時代にも城があったとする記録も見受けられますが証明できる文書は見つかっていません。
末森山を含む周辺での発掘調査から、旧石器時代から近世までの遺物が出土しており、古くから人々の活動の場であったことが伺われます。
山城としての活動時期は、出土品から14世紀から16世紀初めころ推定されています。全国の中世期の山城と同じく「一国一城令」で破却されたと考えられています。
この城に足を踏み入れた加賀藩主は、前田利家公・利長公の父子と、幕末の第13代前田斉泰公だけです。
、、、宝達志水町教育委員会、同埋蔵文化センター

金沢から羽咋へ延びるR159から「末森城跡」の標識と「駐車場」の案内通り脇道へ入ると「第1駐車場」がある。
ここには貨車を改造した奇麗なトイレとイラストマップの案内看板が設置されています。


ここから徒歩で進みます。


ところがこの先「第2駐車場」があったりして、車で来ればよかったと後悔してはいけません(笑)
ここにはパンフレット置き場と、俯瞰イラストの案内板が設置されています。


この先R159に架かる陸橋を渡り、登城口に向かいます。


陸橋の下を走るR159金沢方向


橋詰には「末森城跡」の大きな看板と「史跡末森山古戦場碑」、「NHK大河放映記念碑」、「前田家当主の碑文」が設置されています。




ここからは曲輪跡などの遺構を訪ねる訳ですが、
第1駐車場に設置してある「イラストマップ」
(※矢印、〇印、黒色の文字は筆者記入)


第2駐車場に設置してある「俯瞰図」


同じく宝達志水町作成のパンフレットにある「縄張り図」
(※矢印、〇印、黒色の文字は筆者記入)


これら3点の資料中「曲輪の名称」「位置表示」に統一性がなく、また現地における説明・案内看板が無いに等しく、初心者の自分には分かりにくかったのが非常に残念でした。


一番信頼度の高い町作成の「縄張り図」を頼りに歩きましたが
「大手門」の場所が分かりません。
現地に案内板がなく、イラストマップでは「三の丸」手前となっているし、、、(;^ω^)


やはりイノシシの被害が多いようで途中罠が仕掛けられていました。


大手道でしょうか?城跡までの遊歩道は整備され凄く歩きやすいです。

◆この辺りが「大手門」でしょうか?



◆「ササラ城戸」
これも現地に案内板が無く確信はありません。
両脇が切り立ち道幅が狭いので敵の侵入を抑制する工夫のようにも感じます。



◆「武家屋敷跡」
イラストマップにはあるが縄張り図には記載されていない曲輪
明らかに人工的な平坦面が数段にわたって広がっています。


最上段から下段部を見下ろした全体図
現在は植林地となっており、周囲は害獣の侵入を防ぐ竹笹の柵が巡らされている。


土塁?


空堀でしょうか?



◆武家屋敷から若宮に至る歩道を軽トラ軍団が占拠!
町からの以来でしょうか?除草作業が行われていました。
夏草の伸びるのは早く除草作業は大変ですが、そのおかげで遺構が見やすく歩きやすく、しっかり管理されているのがありがたいですね。



◆「若宮丸」
本丸方向から下ってきた町の職員。史跡紹介のTVクルーと鉢合わせとなったので一旦回避します。



◆「大手大門跡」
縄張り図には無く、イラストマップに記載アリ。但し現地に案内板が無いので詳細不明。
若宮丸から三の丸に至る土塁で挟まれた大手道辺りにあったのでしょうか? 確信はありません。



◆「三の丸」
どちらの資料もピンポイントで示されていないうえ、現地案内板が無いので非常に曖昧です。
大手道を挟んで左右に分かれた曲輪と、本丸に向かって数段に渡って広がる曲輪が混在し、明確な区分けが付きにくかったです。

本丸に向かって右手にある平坦地。左手の「二の丸下段」と思われる台地から見たところ。
これが三の丸と思われますが現地案内板が無いので確信はありません。


同平坦地



◆「二の丸」
大手道、本丸に向かって左手の平坦地、下段


同平坦地
ここにも現地案内板が無いので、二の丸下段なのか三の丸なのか確信がありません。


同空堀


二の丸上段への登り口(土橋?)


二の丸標識


二の丸平坦地、
西側に日本海が広がる



◆「本丸」
前田家第18代当主前田利祐記念植樹
古戦場石碑脇にある碑文と一体のもの


金属プレートの説明版と千畳敷平坦地


西側の端からは城下町と日本海が一望できる。


本丸北側の先端部
主郭から一段下がっており搦手門に至るはずだが


先端部は崖となっており、一旦迂回すると脇道があるものの整備されていないので危険。



◆ここから先へは進めないと判断し帰路に就く
途中三の丸から若宮丸に至る道で「本丸へ」という標識の脇に小路を発見!
これ、絶対見逃します!


搦手門に至る路と思い進んでみました。
するとどうでしょう♪
その先には平坦地が広がっているではありませんか♪


◆「馬掛場」
これもイラストマップにはあるが縄張り図には記載されていない曲輪。現地案内板が無いですが確信はあります。


三の丸の下辺りに隠れるように配置された曲輪
軍事施設なのか居住空間なのかは不明
見上げる方向に三の丸の高台



◆「若宮丸」
往路で一旦回避したので復路で立ち入りました。
若宮丸の標識


大手道から若宮丸平坦地に至る土橋
狭くて急な登り、脇は崖となっている。


土橋を上り詰めると平坦地が広がる


反対側から


曲輪先端部からは「若宮」が連なるそうだが、下におりる道は整備されていない。



◆末森城の戦い
押水の地は能登の中でも最大の荘園でした。
この「大泉庄」は宝達山系と海岸線が最もせばまった地形にあり、古くから加賀・能登・越中へ通じる交通の要となっていました。
越中の佐々成征は加賀と能登を分断し、前田氏の戦力を弱めるのに最も適した末森城を手にしようとしたのです。
、、、中略
前田軍の奇襲により佐々軍は退却
、、、中略
個の戦い以降、前田利家は勢力を越中にまで伸ばしますが、末森合戦こそ前田方が加賀・能登・越中三国を支配するきっかけとなったのです。
、、、宝達志水町教育委員会



※2022年6月12日 お城検索、いしかわ城郭カードリンク、写真追加


【末森城】
《末森城の戦い以降成政は守勢に転じ、前田利家は領国の防衛に成功し小牧・長久手の戦いで政治的勝利を収めた羽柴秀吉と協力し攻勢を強めていく》





名称(別名);末盛城、末守城
所在地;石川県羽咋群宝達志水町竹生野
城地種類;連郭式山城
築城年代;不明
築城者;土肥親真?
主な城主;土肥氏、斎藤氏(上杉)奥村氏(前田)
文化財区分;石川県指定史跡
近年の主な復元等;
天守の現状、形態;なし、土塁、曲輪跡
地図;


※出典、、、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

00 津幡城址@石川県津幡町 5月22日 木舟城主前田秀継の前任地、末森城救援軍議開催の城

2020-05-22 17:02:49 | 城歩き
お城検索は→こちら

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津幡町史跡【津幡城址】

富山県小矢部市の『今石動城』を訪ねその歴史を調べたところ、前田利家の弟の存在を知り→こちら
その前田秀継が城主であった富山県福岡町の『木舟城』では→こちら
「天正の大地震」で城の下敷きになって落命した秀継夫妻の霊を『菩提寺旧高徳寺』の廟にて弔った。→こちら
そこまで知るとこれも何かの縁、秀継が木舟城主になる前に赴任していた『津幡城』を訪ねてみたくなるのは必然!


兄である前田利家は四男ながら信長の命により嫡男利久と尾張荒子城主(前田家当主)を交代させられた曰くがあり、その確執から3人の兄より使いやすかった末弟の秀継に国境の守備固めの任を命じた。
つまり信長の下で北陸方面軍として戦っていた柴田勝家と前田利家。その信長亡き後の「賤ケ岳の戦い(秀吉と勝家の戦いで前田は勝家方)」以降(小牧・長久手の戦い)で豊臣方と徳川方に分かれた佐々成征(越中)と前田利家(加賀・石川・河北)
その両者の間で緊張が高まっていた天正12年(1584)に国境警備の任で国境の『津幡城』に着任した。
そして遂に同年8月両者の間で武力衝突が発生。9月8日には佐々軍は富山城を出て結集していた『木舟城』を出発、本体は『津幡城』へ行くと見せかけ能登『末森城』攻撃に向かった。
※その際、仮に佐々軍によって津幡城が攻められていたらどうなっていたんでしょうか?佐々軍本体15000、支隊に兵を割いていたとはいえ多勢に無勢、秀継も危うかったと思います。

同9月9日から10日にかけ『末森城』で戦闘開始。10日金沢城の利家に情報が伝えられると即座に出陣、松任城の嫡男利長も出陣。両軍は10日夜津幡城に集結し「軍議」を開いた後利家・利長は夜半に津幡城を出発し未明には末森城付近に到達し陣を張る。「末森城将奥村」の奮戦で持ち堪えていた所へ前田軍による未明の奇襲作戦により、佐々軍は敗走。

その後翌天正13年(1585)8月豊臣秀吉が10万の大軍にて越中に攻め入り(富山の役)佐々成征による越中支配は前田方に移り、津幡城主前田秀継は国境を越えた『木舟城主』となり前田家の越中支配の要を果たすことになったため『津幡城』は廃城となったという。。。

、、、津幡城址に建てられた説明版(津幡町教育委員会)



【場所】は津幡町の市街地、旧津幡小学校跡地。
新津幡小学校からすぐ近く「おやど通り」と呼ばれる小路を登った小高い丘の上にある。


現在はグラウンドがそのまま残り、


旧校舎があった辺りには3年前に新築された『ふるさと歴史館・れきしる』と『児童館』が異彩を放っている。


その児童館奥の杜にある「(冷泉)為広塚」


冷泉家と言えば京都の公家、何故ここに? ざっくり言って応仁の乱で荒れ果てた京を逃れ親交のあった「能登の守護・畠山氏」を頼って疎開していたそうである。
その墓を後年発見して石碑を建立したのが「河合見風」と親交のあった「前田土佐守直躬」ら。


その「河合見風の句碑」も同じ場所に建立されている。
見風といえば、先に訪ねた「今石動城」城址公園内に芭蕉の句碑「寝覚塚」を建立したことでも知られ、両者とも前田家との因縁が感じられる。



さて本題の【津幡城跡】だが、こんもり盛られた築山、あるいは櫓台にも見える台地に「忠魂碑」が建立されている。


その忠魂碑脇にひっそりと【津幡城址】の石碑が建っている。


この台地に立ち周囲を展望すると、足元の駐車場は「本丸」ブランドは「二の丸、三の丸」に見えてくる。


そしてその先、丘の下に広がる津幡の城下町。
南西の方向には「金沢城」、北の方向には能登「末森城」、


東の山には越中国境・倶利伽羅があるという交通の要衝であったことが伺える。まさにここは戦国における国境の軍事拠点だったのです。






【歴史】
現・石川県河北郡津幡町清水に残る、古代の日本の城(平城)。昔から交通の要衝であった。現在は石標のみが立てられている。

平維盛が寿永2年(1183年)倶利伽羅峠の戦いの際津幡川に面した、小高い丘に砦を設けたことに始まる。建久元年(1190年)には、井上庄の地頭津幡隆家が居城とした。
観応2年(1351年)には、富樫氏春がこの城で、桃井直常軍と戦っている。
天正4年(1576年)から一向一揆が立て籠もっていたが、天正9年(1581年)織田方の柴田勝家らによって落城した。
天正12年(1584年)佐々氏と前田氏の間に緊張が高まると、前田利家が再び築城。弟の前田秀継に守らせている。9月、末森城包囲中の佐々軍攻略の軍議をここで開く(末森城の戦い)。天正13年(1585年)、前田秀継が木舟城に移ると廃城となった。 (現在、津幡小学校。)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

※2022年6月12日 お城検索、いしかわ城郭カードリンク、写真追加

【津幡城】


名称(別名);
所在地;〒929-0326 石川県河北郡津幡町字清水リ1-1
城地種類;平山城
築城年代;寿永2年(1183年)
築城者;平維盛、前田利家
主な城主;津幡小三郎隆家、上杉謙信配下、前田利家弟秀継
文化財区分;津幡町史跡
近年の主な復元等;顕彰碑
天守の現状、形態;なし
地図;


※出典、、、津幡町観光ガイド