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■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-24

Vol.-23からのつづきです。
※文中の『ルートガイド』は『江戸御府内八十八ヶ所札所めぐりルートガイド』(メイツ出版刊)を指します。


■ 第72番 阿遮山 圓満寺 不動院
(ふどういん)
台東区寿2-5-2
真言宗智山派
御本尊:不動明王
札所本尊:不動明王
司元別当:
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第72番、弘法大師二十一ヶ寺第6番、御府内二十八不動霊場第18番、坂東写東都三十三観音霊場第14番、関東三十六不動尊霊場第22番

第72番は寿の不動院です。
御府内霊場には「不動院」を号する札所寺院がふたつ(第6番(六本木)、第72番(浅草寿))あり、後者を寿不動院と呼んで区別しているようです。

第72番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに不動院で、第72番札所は開創当初から浅草寿の不動院であったとみられます。

下記史料、山内掲示、『ルートガイド』、『関東三十六不動霊場ガイドブック』などから縁起・沿革を追ってみます。

不動院は慶長十六年(1611年)、賢鏡法印が八丁堀に寺地を拝領して開山と伝わります。
御本尊は金剛界大日如来で、護摩堂に大日如来の教令輪身である不動明王を安置し祈祷を修したといいます。
不動院は往時から護摩堂の不動尊の験力の強さで知られていたようです。

寛永十二年(1635年)寺地を御用地として収公。
不動尊のあらたかな験力から、浅草の観音様の裏鬼門にあたる旧浅草(新寺町?)の地に遷ったともいいます。
(新寺町から明暦年間(1655-1658年)に現在地に移転という史料もあり。)

元禄期(1688-1704年)の不動院の住職は第6世覚意法印。
壱岐国領主日高覚左衛門の子で、松浦家家老の子息ともいいます。

元禄十年(1697年)、肥前国平戸藩主松浦鎮信は不動院の住職が家老の子息で、不動院が浅草鳥越の松浦家上屋敷の鬼門にあたることから当山を松浦家の祈願所とし、平戸に祀っていた松浦家守護仏の不動尊を、平戸の安満嶽に祀っていた金銅聖天尊像とともに当山に安置して一族の守護を祈念しました。

このときより、松浦家守護仏の不動尊を当山御本尊とし、従前より奉安の不動尊を御前立として安置と伝わります。

このときの住職・第6世覚意法印は、松浦家守護所となした功績もあってか中興開基とされています。

御本尊の不動明王は、奈良時代の華厳宗の高僧で東大寺の開山・良弁僧都(689-774年)の御作といいます。

良弁僧都には母親が仕事の最中、目を離した隙に鷲にさらわれ奈良の二月堂前の杉の木に引っかかっているのを師・義淵に助けられたという逸話があります。
良弁の母親は良弁を探し求めて全国を歩きつづけ、30年後ついに再会を果たしたといいます。
良弁は自身のような母親とのつらい別離が世の中からなくなるよう一心に念じつつ、不動明王の御像を謹刻されました。

この不動尊像は数多の変遷を経て肥前国平戸の松浦家の守護仏となり、島原の乱(1637-1638年)では数々の霊験をあらわされて、人々の尊崇いよいよ高まったといいます。

この尊像が不動院の御本尊で、わが子のことを一心に願えば無病息災に育ち、良縁にも恵まれ、たとえ悪病に罹ったとしても平癒するというので「子守り不動尊」と呼ばれて江戸庶民の信仰を集めました。

なお、『御府内八十八ケ所道しるべ』では「本尊:金剛界大日如来 弘法大師 興教大師」となっていますが、「本尊方除不動明王 良弁僧都之御作」ともあり、御府内霊場巡拝では不動尊も参拝されていたのでは。

明治初頭の神仏分離の波を乗り越え、御府内霊場札所も堅持されています。
昭和20年の空襲により諸伽藍を焼失しましたが、昭和40年現本堂を落慶。

昭和62年開創の関東三十六不動尊霊場第22番札所でもあり、浅草を代表する不動尊霊場として参拝者を迎えています。

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【史料】
『御府内八十八ケ所道しるべ 地』(国立国会図書館)
七十二番
浅草●下八軒寺町
阿遮山 圓満寺 不動院
大塚護持院末 新義
本尊:金剛界大日如来 弘法大師 興教大師

『寺社書上 [75] 浅草寺社書上 甲三』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.52』
浅草八軒寺町
大塚護持院末 新義真言宗
阿遮山圓満寺不動院
江戸大塚護持院末、浅草八軒寺町
慶長十六年(1611年)寺地拝領仕 八丁堀二廿五ヶ年罷在候之処 御用地ニ付浅草新寺町ニ而替地拝領仕候

開山 賢鏡法印 年代不相知寂
中興開基 覚意儀 肥前平戸之産ニ● 壱岐国領主日高覚左衛門倅 只今●松浦家ニ覚左衛門子孫家老を勤罷在候
中興 栄実法印

旧浅草にあり明暦(1655-1658年)中此地に移る(江戸図説)
起立来暦詳ならす 慶長十六年(1611年)江戸八丁堀に寺地を賜り 夫より廿五年を経て寛永十二年(1635年)其地を収公せられ 今の所を賜り小坊を建 不動を安す
爰ニ肥前國平戸の城主松浦家の領内に良弁僧都の作の不動又歓喜天の像往古より安置せる所、嶋原退治の時、霊験掲焉に依て信●浅からす 今の浅草鳥越の屋敷に安せし●又奇瑞度々あるにより、汚穢の地に置障あらん事を恐● 元禄年中(1688-1704年)一宇を建立し是に移さんの発願にて彼是沙汰せしか 今の不動院破壊せる小宇にて名のみなるにより其上この屋敷より鬼門に当り殊に密宗なれハとて こゝに国家安鎮の為堂塔を建立弐百石寄附 両尊を安置しもとの像を前立とし第五世覚意といへるを住持とし 祈念怠慢なかりき 此覚意ハ松浦外記(今の家老)の子たれハ 幸に護持なさしむとそ 其後寄附の石高も多く減しけるとなり 去れとも今に松浦家の祈願所なりと

本堂
 本尊 金剛界大日如来木座像
 弘法大師木座像 興教大師木座像 理現(源)大師木座像 地蔵尊木像立像
護摩堂
 不動尊木座像 良弁僧都作 両童子木立像 同作
 縁起左之通(略)
霊府神木像 二童子木像
聖天鋼像 本地十一両観音木立像
 肥前国安満嶽に安置御座候処 霊験有て備相●不自由ニ付 鳥越松浦肥前守屋敷江安置ニ而御座候 其後元禄中(1688-1704年)松浦鎮信公思召を以て 当院江祈祷処引移され覚意江住職被申付

大神宮木立像 大黒天木像 辨財天木座像 毘沙門天木像 摩利支天木像
大黒天木像(一体三身大黒天) 謁摩作
大黒天木像 弘法大師作 千手観音木像長
愛染明王 弘法大師作
鎮守社
 金毘羅 保呂輪権現 稲荷大明神



「不動院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』地,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)


原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』浅草御蔵前辺図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りはメトロ銀座線「田原町」駅で徒歩約3分。
都道463号浅草通り「西浅草一丁目」交差点から「ことぶきこども園通り」を南下して、ふたつ目の角を西(右手)に入って少し行った右側です。


【写真 上(左)】 外観-1
【写真 下(右)】 外観-2


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 院号標

道沿いに築地塀を巡らし、山内入口に山門。
山門は切妻屋根桟瓦葺の薬医門で、門柱に院号標と御府内霊場・関東不動尊霊場併記の札所標を掲げています。


【写真 上(左)】 札所板
【写真 下(右)】 山門より山内

すぐ奥が本堂で、均整のとれた山門と鶯色の近代建築陸屋根2層の本堂が意匠的に面白い対比をみせています。

エントランスのベルを鳴らすとお寺の方が出てこられ、2階本堂のご案内をいただきました。
この際に御朱印帳をお預けし、参拝後に受けとります。


【写真 上(左)】 エントランス
【写真 下(右)】 2階の本堂

左手階段を登ると本堂。
1階はなんとなく学校を思わせる雰囲気でしたが、2階にあがると欄間彫刻、護摩壇の上に天蓋、そのおくの御内陣に御本尊が御座と、厳粛な仏堂の空気感。

御府内霊場は堂外向拝からの参拝が多いですが、このように堂内に上げていただけるのはありがたいことです。


〔 御府内霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央にお種子「カン/カーン」? 「不動明王」「弘法大師」の揮毫と不動明王のお種子「カン/カーン」の御寶印(火焔宝珠)。
右に「御府内七十二番」の札所印。
左に院号の揮毫と寺院印が捺されています。


■ 関東三十六不動尊霊場の御朱印


■ 第73番 法号山 明王院 東覚寺
(とうがくじ)
江東区亀戸4-24-1
真言宗智山派
御本尊:大日如来
札所本尊:大日如来
司元別当:
他札所:荒川辺八十八ヶ所霊場第75番、亀戸七福神(弁財天)

第73番札所は下町・亀戸の東覚寺です。
御府内霊場には「東覚寺」を号する札所寺院がふたつ(第66番(田端)、第73番(亀戸))あり、前者を田端東覚寺、後者を亀戸東覚寺と呼んで区別しているようです。

第73番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに本所猿江町の法号山 花蔵院 覺王寺なので、江戸期の御府内霊場第73番は本所猿江の覺王寺であったとみられます。

明治34年、亀戸の東覚寺が本所猿江の法号山覺王寺を合併して明王山から法号山に号を改めるとともに、御府内霊場第73番札所を承継しています。

下記史料、寺伝・縁起書、山内掲示、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

東覚寺は、享禄四年(1531年)玄學法印の開山起立、明王山と号し御本尊に阿弥陀三尊を安したと伝わります。
不動堂に奉安の不動尊(亀戸不動尊)は良弁の御作で相州大山寺の御本尊と同木同作といい、霊験ことにあらたかとして正五九の月の廿八日に御開扉され、近郷の参詣人で賑わったといいます。

明治34年、本所猿江の法号山覺王寺を合併して明王山から法号山に号を改めました。
覺王寺は御府内八十八ヶ所霊場第73番札所で、それを示す碑が東覚寺に残されているそうです。

東覚寺は天保九年(1838年)以前の開創とみられる荒川辺八十八ヶ所霊場第75番の札所でしたから、この時点で御府内霊場、荒川辺霊場のふたつの弘法大師霊場の札所を兼ねることとなりました。
亀戸七福神の辨財天霊場としても親しまれています。

「猫の足あと」様には亀戸不動尊に関する『江東区の民俗城東編』の興味深い記事が紹介されているので、抜粋孫引きさせていただきます。

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享禄四年(1531年)、玄學法印の草庵に笈を背負った優婆塞が宿を請うた。
翌朝、仏間に一人の男が呆然と立ちすくんでいたので法印が誰何するも何も答えなかった。
件の優婆塞が云うには、自分が背負ってきた不動尊の下した罰であろうと。
優婆塞が笈の前に脆き祈ると、その男は話せ、身体も動くようになったが、その男は自分は盗賊だがもうこれ以上の悪事はしないと誓って去った。
法印は仔細を優婆塞に尋ねると、良弁僧正が相州大山寺を開かれたとき、優婆塞の先祖が大山の麓で手助けした。良弁僧正はこの労に謝してこの不動尊を与え、この霊像により盗難や剣難から遁れられると告げた。
霊像は優婆塞の家に伝わって二五代。優婆塞もこの霊像の霊験により難を遁れること多かったという。
法印はこの霊像をこの地に安することを願い、優婆塞もその意に応じて法印に与えた。
以降、人々はこの霊像を「盗難除け不動尊」と呼び慣わしたという。
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現在の御本尊は大日如来ですが、霊験あらたかな亀戸不動尊(盗難除け不動尊)も篤い信仰を集めていることがわかります。

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覺王寺は慶長十九年(1614年)宗順法印が深川六間堀に開山し、当初は幸蔵寺を号したといいます。
元禄六年(1693年)に寺地が御用地となったため隣寺の慈眼寺とともに本所猿江町に移され、宝永六年(1709年)に覺王寺と改めたとされます。

亀戸普門院末の新義真言宗で御本尊に大日如来を安し、本堂内に弘法大師座像、興教大師座像、如意輪観世音菩薩、地蔵菩薩を奉安し、御府内霊場第73番の札所でした。
境内の石弘法大師の(傍らの?)石碑にも「御府内八拾八ヶ所」とあったようです。

『御府内八十八ケ所道しるべ 地』では御府内霊場の拝所は「本尊:金剛界大日如来 不動明王 弘法大師」とみえます。
仔細は不明ですが、上記のとおり明治34年に亀戸の東覚寺に合併され、御府内霊場第73番の札所も東覚寺に承継されています。


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【史料】

【東覚寺関連】
『新編武蔵風土記稿 巻之24 葛飾郡之5』(国立国会図書館)
(亀戸村)東覺寺
明王山ト号ス 本尊三尊弥陀ヲ安ス 開山玄學 享禄四年(1531年)ノ起立ナリト云傳フ
不動堂 不動ハ良弁ノ作 霊験アリシトテ正五九の月廿八日開扉シ近郷ノモノ参詣多シ

『江戸名所図会 第4 (有朋堂文庫)』(国立国会図書館)
明王山東覺寺
真言宗にして、寺嶋の蓮華寺に属す。本尊は、彌陀、観音、勢至の三尊なり。当寺は、享禄四年(1531年)草創する所の寺院にして、開山を玄學法印と号す。

不動堂
当寺に安置す。良辨僧都の彫像にして、相州大山寺の本尊と同体なりといへり。
(以下縁起あり)

【覺王寺関連】
『御府内八十八ケ所道しるべ 地』(国立国会図書館)
七十三番
本所猿江町
法号山 花蔵院 覺王寺
亀戸普門院末 新義
本尊:金剛界大日如来 不動明王 弘法大師

『寺社書上 [107] 深川猿江寺社書上 十一』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.118』
本所猿江
亀戸普門院末 新義真言宗
法号山花蔵院覺王寺
当寺●元六間堀ニ有 御用地と●付 元禄六年(1693年)当地ニ替地

開山 宗順 慶長十九年(1614年)寂
中興開山 秀山 正徳五年(1715年)寂
開基 不分明
慶長十九年(1614年)の起立なり もとハ幸蔵寺と称して深川六間堀の邉にあり
元禄六年(1693年)隣寺慈眼寺と共ニここへ移され その後宝永六年(1709年)●●今の寺号に改しと云

本堂
 本尊 大日如来座像
 弘法大師座像 興教大師座像 如意輪観世音座像 地蔵尊立像
境内
 石地蔵尊
 石弘法大師 但御府内八拾八ヶ所石碑表ニ南無大師遍照金剛有り



「覺王寺」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』地,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)


出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』深川絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りはJR・東武亀戸線「亀戸」駅で徒歩約10分。
亀戸香取神社の南東にあります。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 門柱の寺号標

入口は門柱で、手前に「不動明王」の石標。
山内は石敷きで広々とあかるいイメージ。


【写真 上(左)】 不動明王の石
【写真 下(右)】 山内

山内のたしか右手に辨天堂があり、亀戸七福神の札所となっています。


【写真 上(左)】 辨天堂
【写真 下(右)】 辨天堂の扁額

本堂は入母屋造銅板葺流れ向拝、水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に板蟇股を備えています。
向拝見上げには山号扁額。
真新しいですが、端正で落ち着きのある伽藍です。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝

史料にある覚王寺の御府内八十八ヶ所霊場第73番札所を示す碑は、筆者にはみつけられませんでした。


【写真 上(左)】 本堂扁額
【写真 下(右)】 納経所案内

御朱印は本堂向かって右の庫裡にて拝受しました。
亀戸七福神の辨財天と亀戸不動尊の御朱印も授与されています。


〔 御府内霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に「本尊大日如来」「弘法大師」の揮毫と金剛界大日如来のお種子「バン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右上に「御府内第七十三番」の札所印。左下に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。

 
【写真 上(左)】 亀戸不動尊の御朱印
【写真 下(右)】 亀戸七福神(辨財天)の御朱印


■ 第74番 賢臺山 賢法寺 法乗院(深川ゑんま堂)
(ほうじょういん)
公式Web

江東区深川2-16-3
真言宗豊山派
御本尊:大日如来
札所本尊:大日如来
司元別当:
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第74番、御府内二十八不動霊場第14番、坂東写東都三十三観音霊場第28番、江戸・東京四十四閻魔参り第15番

第74番は「深川ゑんま堂」で有名な法乗院です。

第74番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに法乗院で、第74番札所は開創当初から深川の法乗院であったとみられます。

公式Web、下記史料、山内掲示、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

法乗院は寛永六年(1629年)、深川猟師町相川町富吉町(現・江東区佐賀)に覚譽法印(『寺社書上』では覚春法印)の開山で創建といいます。
寛永十八年(1641年)、寺地が御用地となったため現在地(深川七軒寺町)に替地を得て移転。

『御府内寺社備考』によると当初の御本尊は閻魔大王でしたが、宝暦十年(1760年)類焼したため行基菩薩の御作という金剛界大日如来が御本尊になったといいます。

類焼ののち閻魔大王の代仏?を奉安とみられ、以降も「深川のおゑんまさま」として親しまれ、「江戸三閻魔」に数えられたとも。
なお、「江戸三閻魔」は下谷坂本の善養寺、蔵前の華徳院、内藤新宿の太宗寺をさすという説もありますが、『江戸歳時記』の閻魔霊場をまとめた記事に、しっかり「深川寺町 法乗院」とあるのでやはり著名な閻魔さまであったことは間違いないかと。
(■ 参考記事 都内の閻魔大王の御朱印

当山正面に通じる道の十五間川(油堀)には「ゑんま堂橋」が架けられ、いまの清澄通りがなかった時代は深川のメイン通りでした。
「ゑんま堂橋」跡は史跡(富岡橋跡)に指定されています。

法乗院の公式Webには「里俗に為永春水『春暁八幡佳年』、河竹黙阿弥『梅雨小袖昔八丈』などの江戸町人気質を盛り込んだ代表的江戸文芸や芝居の作品中にも当山は描かれており、当時の様子を伺い知ることが出来ます。なかでも『髪結い新三』の「ゑんま堂の場」は、当山が描かれた名場面の一つです。」とあり、深川ゑんま堂が江戸っ子に広く知られていた様子がうかがえます。

本堂には御本尊大日如来、弘法大師像、興教大師像を奉安。
護摩堂に奉安の不動尊像は良辨僧都の御作で、海中出現の縁起をもたれます。
当山は御府内二十八不動霊場第14番の札所で、不動尊霊場の役割も果たしていました。

平成元年像立の閻魔大王像は全高3.5m、全幅4.5m、重さ1.5tの日本最大級の巨大な座像で、左手には金色の地蔵菩薩を載せられるというインパクトあるお姿です。

インパクトはそのお姿だけではありません。
この閻魔さまは19の御祈願に対してお賽銭を投入すると、おもむろに説教を始められるのです。

↓ こんな感じです。(動画のラストに音が大きくなるので要注意)


あまりにすばらしいのでもう一本!


どうです、日々の煩悩でざらついた心に閻魔さまの一言一言が染み渡りませんか(笑)
筆者は深川あたりに行くと法乗院に参拝し、閻魔様のお説教をいくつも聞いてしまいます。

本堂一階には天明四年(1784年)に江戸の宋庵という絵師によって描かれた全16枚の地獄・極楽図が展示されています。

「御仏の教えの根本理念は、因果応報にあります。悪行を積めば悪い結果に、善行はよい結果になるように、人間は生きている時の行いが全ての原因になるということなのです。」公式Webより引用)

こんな時代だからこそ、閻魔さま詣でをしつつ、勧善懲悪、因果応報の教えを噛みしめてみるのもいいかもしれせん。

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【史料】
『御府内八十八ケ所道しるべ 地』(国立国会図書館)
七十四番
深川七軒寺町
葛飾小岩村善養寺末 新義
賢臺山 賢法寺 法乗院
本尊:大日如来 弘法大師 興教大師

『寺社書上 [101] 深川寺社書上 五』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.120』
深川七軒寺町
葛飾西領小岩村善養寺末 新義真言宗
賢臺山賢法寺法乗院
起立之儀寛永六年(1629年)、深川猟師町相川町富吉町(現・江東区佐賀)に有 寺地●●寛永十八年(1641年)御用地に相成只今の場所に替地  

開山 覚春法印 寛永二十年(1643年)卒
開基 不分明
中興開山 覚譽法印 万治二年(1659年)卒

本堂
 本尊 金剛界大日如来木座像 行基菩薩作
 元々本尊閻魔王に候●候 宝暦十年(1760年)類焼 只今之本尊これ也
 弘法大師木座像 興教大師
護摩堂
 不動明王木座像 良辨僧都作 二童子木座像
 右不動尊ハ寛永年中(1624-1644年)深川今の相川町遠海にて毎夜光を放ち●● 猟師是所を尋るに木像の不動尊有 海中より上らせぬ●ハ覚譽法印猟師より申請当寺に安置
閻魔堂
 閻魔王木座像六尺五寸 運慶作
 十王
 三途川老婆木座像
子育地蔵尊石立像 右は築地之海●上らせぬ尊像

地中 不動院
 開山 賢覚法印 延宝元年(1673年)卒
 本尊 胎蔵界大日如来木座像



「法乗院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』地,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)


原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』深川絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りはメトロ東西線・都営大江戸線「門前仲町」駅。
大江戸線両国寄りの6番出口が至近です。

門前仲町から清澄・白河にかけての一帯は谷中ほどの知名度はないものの都内有数の寺町で、多くの寺院が御朱印・御首題を授与されています。
宗派は浄土宗、日蓮宗が多く真言宗寺院は比較的少ないので、御府内霊場札所は第37番萬徳院、第68番永代寺、第74番法乗院を数えるのみです。


【写真 上(左)】 提灯と院号標
【写真 下(右)】 門前にお出ましの閻魔さま

清澄通り沿いに「深川ゑんま堂」の提灯をならべ、山門脇には写真の閻魔さまがお出ましになって、すでに門前から閻魔霊場の趣きを色濃くただよわせています。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 院号標

朱塗りの山門は変わった様式で、これをどう呼ぶのか筆者にはわかりません。
山門をくぐると正面が本堂、向かって左手が閻魔堂です。


【写真 上(左)】 山門から山内
【写真 下(右)】 本堂と閻魔堂


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂

本堂は二層で、二階が本堂、一階が墓苑と思われます。
本堂は入母屋造桟瓦葺流れ向拝、身舎の朱と欄干の緑青色のコントラストが絶妙。

一階中央は預骨仏(墓苑内本尊釈迦如来像胎内)。向かって右手に延命普賢菩薩、左手に大孔雀明王という、あまりみられない尊格配置。
とくに孔雀明王は間近で拝する機会が少ないので貴重です。

二階の本堂は閉扉されて薄暗いですが、中央に智拳印を結ばれる金剛界大日如来が御座されていました。
不動尊霊場の札所本尊もこちらに御座されているのかもしれません。

本堂前向かって右手には4体の地蔵尊立像。
それぞれ本堂寄りから「十日地蔵尊」「光岳地蔵尊」「子育地蔵尊」「水子地蔵尊」とありました。


【写真 上(左)】 本堂向拝
【写真 下(右)】 深川のお閻魔さま


【写真 上(左)】 閻魔堂
【写真 下(右)】 閉扉時の閻魔堂向拝

閻魔堂は二層の楼閣で桟瓦葺。二層頂部に宝珠、一層向拝上に唐破風を興しています。
朱塗りメインで華々しい印象の堂宇です。
毎月一日と十六日はアクリル扉が御開扉され、より閻魔様が拝みやすくなります。


【写真 上(左)】 御開扉時の閻魔堂向拝
【写真 下(右)】 閻魔さま

「これぞ閻魔さま」ともいえる迫力のお姿で、左手の掌上には金色の地蔵尊立像が輝いています。
上記の「お賽銭お説教」は、一聴の価値ありなのでぜひぜひどうぞ。


【写真 上(左)】 豊田鳳憬尺八塚
【写真 下(右)】 鳥塚

山内には尺八琴古流宗家・初代豊田鳳憬の「豊田鳳憬尺八塚」、鳥類殺生供養の「鳥塚」と曾我五郎の足跡石があります。
曾我五郎は歌舞伎「曾我物語」の主人公で、足跡石は歌舞伎に縁深い当山に移されたそうです。

御朱印は本堂向かって右手の寺務所にて拝受しました。


〔 御府内霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に「大日如来」の揮毫と金剛界大日如来のお種子「バン」と御影印。
左上に「御府内八十八ヶ所七十四番南無大師遍照金剛」の札所印。
左下に院号の揮毫と寺院印が捺されています。
こちらは揮毫御朱印と印判御朱印を授与されますが、現在は御府内霊場専用集印帳のみ揮毫御朱印かもしれません。


■ 閻魔大王の御朱印

以下、つづきます。
(→ ■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-25


■ 札所リスト・目次など
■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-1



【 BGM 】
■ 夏空の下 - やなわらばー


■ Erato - 志方あきこ


■Saikou no Kataomoi (最高の片想い) - Sachi Tainaka
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