関東周辺の温泉入湯レポや御朱印情報をご紹介しています。対象エリアは、関東、甲信越、東海、南東北。
関東温泉紀行 / 関東御朱印紀行
■ 伊香保温泉周辺の御朱印-3(中編A)
2020/11/15 補足UP・2021/01/31・2022/11/02 補足UP
■ 伊香保温泉周辺の御朱印-3(前編A)
19.船尾山 等覚院 柳澤寺 (榛東村山子田)
20.五徳山 無量寿院 水澤寺 (渋川市伊香保町水沢)
21.伊香保神社 (渋川市伊香保町伊香保)
19.船尾山 等覚院 柳澤寺
公式Web
榛東村山子田2535
天台宗
御本尊:千手千眼観世音菩薩 (釈迦三尊)
札所:新上州三十三観音霊場第25番、東国花の寺百ヶ寺霊場第34番(群馬第8番)、関東九十一薬師霊場第46番、関東百八地蔵尊霊場第34番、群馬郡三十三観音霊場第2番、上州七福神(毘沙門天)
札所本尊:千手観世音菩薩(新上州三十三観音霊場第25番)、千手観世音菩薩(東国花の寺百ヶ寺霊場第34番(群馬第8番))、薬師如来(関東九十一薬師霊場第46番)、地蔵菩薩(関東百八地蔵尊霊場第34番)、毘沙門天(上州七福神)
榛名東麓屈指の古刹で、複数の札所を兼ねているこのお寺は複雑な開山由緒をもたれます。
公式Webにある「天台宗宗祖傳教大師の東国巡行のみぎり、この地に住む群馬の太夫満行と言うものが大師の徳を慕って榛名山中の船尾の峰に"妙見院 息災寺"という巨刹を創建し、大師を請じて開山」というのが当初の開山伝承のようです。
その後「神道集」の「上野国桃井郷上村八ヶ権現の事」、およびこれをベースとして成立した「船尾山縁起」が広まります。
「船尾山縁起」はデリケートな内容で抜粋引用がはばかられ、全文引用すると長くなるのでこちら(公式Web)をご覧ください。
近世にはこの地との関わりがうすい千葉氏が主役で、その千葉氏が悲劇的な結末をもってその姿を隠してしまうというこの伝承については、その背景として様々な説が打ち出されています。
「6.三鈷山 吉祥院 妙見寺」にも千葉氏にまつわる伝承が残りますが、柳澤寺は「妙見院 息災寺」を通じて妙見寺と相応のつながりがあったのでは。
それにしても、このエリアは「神道集」との関わりが深いです。
神道集(しんとうしゅう)は、南北朝時代中期に成立とされている十巻五十条からなる説話集で、安居院唱導教団(あぐいしょうどうきょうだん)の著作とされます。
安居院唱導教団は当時の仏教宗派のひとつとされ、詳細は不明ですが伊勢神道(度会神道、神本仏迹説系)との関連を指摘する説がみられます。
内容はすこぶる劇的でスペクタクル。アニメや映画になじみそう。
主に関東(とくに上州)の神社について、その成り立ちと本地仏(神本仏迹説からすると垂迹仏?)が詳細に記されています。
(いわゆる本地譚・本地物/神体の前生説話のひとつとされる。)
登場される神々はかならずしも現在の主祀神ではなく、主にその土地とつながりのふかい神々です。
生身の人間が説話を介して一気に神となる不思議なイメージ漂う内容ですが、これは神本仏迹系本地譚の特徴なのかもしれません。
(「権現系」ではなく「明神系」、神名も大明神を名乗られる例が多い。)
この「神道集」があることで上州の寺社はダイナミックにつながり、寺社巡りに興を添えています。
「上野国桃井郷上村八ヶ権現の事」(神道集第四十七)は、こちらで紹介されています。
「神道集」と「船尾山縁起」はともに凄絶な展開で内容は酷似していますが、「神道集」の主役は上野国国司の桃苑左大将家光。
千葉氏が主役となる「船尾山縁起」の成立は「神道集」から約二百年後とされるので、この二百年のあいだに千葉氏にかかわる大きなできごとがあったのかもしれません。
ちなみに、柳澤寺そばには平常将大明神を主祭神とする常将神社が鎮座しています。
寺伝(公式Web)によると、延暦寺の直末として中世には学僧も多く輩出、戦国時代末の動乱を経て、江戸時代に入は天海僧正、高崎城主・安藤右京進などの尽力により朱印地三十石を賜ったとされる名刹です。
背後に榛名山を背負い、眼下に利根川が流れる開けた立地に名刹にふさわしい広大な境内を擁します。
風格ある二層丹塗りの楼門、御本尊、千手千眼観世音菩薩が御座す本堂(観音堂)、寄棟平屋造りの風趣ある客殿(釈迦三尊、薬師如来、不動明王、毘沙門天などが御座)、県内最古とされる鐘楼、阿弥陀堂、薬師堂、平成10年建立の五重塔など壮麗な伽藍を連ねます。
【写真 上(左)】 鐘楼
【写真 下(右)】 五重塔
本堂(観音堂)は右手に離れてあるのでややわかりにくいですが、新上州三十三観音と東国花の寺百ヶ寺霊場の札所はこちらになります。
納経所(御朱印授与所)は客殿左手の庫裡、ないし客殿が開いているときは客殿内となります。
複数の札所を兼ねているので手慣れたご対応ですが、目的の御朱印(霊場)をはっきり申告する必要があります。
それでは、それぞれの霊場の御朱印を紹介していきます。
なお、Web情報からすると霊場申告なしの御朱印は新上州三十三観音霊場のものとなる模様。
〔 新上州三十三観音霊場の御朱印 〕
本堂(観音堂)
【写真 上(左)】 専用納経帳の御朱印
【写真 下(右)】 御朱印帳書入れの御朱印
札所本尊の千手千眼観世音菩薩は境内右手の本堂(観音堂)に御座します。
元禄年間の様式を残すとされる、方六間の木造青銅葺きの建物で古趣を湛えています。
中央に札所本尊、千手観世音菩薩の種子「キリーク」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)と「千手大悲閣」の揮毫。
右上に「上州第二十五番」の札所印。左下には寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
専用納経帳の御朱印も同様の構成です。
客殿にて御朱印帳に書入れ、専用納経帳御朱印は庫裡にていただきました。
〔 東国花の寺百ヶ寺霊場の御朱印 〕
指定花種はサクラ(ソメイヨシノ)ですが、サツキも有名なようです。
この霊場は御本尊が札所本尊となるケースが多いですが、やはり本堂御本尊の千手千眼観世音菩薩の御朱印でした。
なので、霊場の参拝所は境内右手の本堂(観音堂)となります。
なお、公式Webには客殿の欄に「本尊釈迦三尊像」の記載がありますが、本堂御本尊=千手観世音菩薩、客殿御本尊=釈迦三尊という位置づけかもしれません。
中央に札所本尊、千手観世音菩薩の種子「キリーク」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)と「千手大悲閣」の揮毫。
右上に「東国花の寺百ヶ寺群馬第八番」の札所印。左下には寺号の揮毫と寺院印が捺されています。(主印が千手観世音菩薩の御影印となる場合もあるようです。)
霊場専用納経帳用の書置御朱印もあるようですが、庫裡にて御朱印書入れをいただきました。
〔 関東九十一薬師霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 本堂(観音堂)参道右手の真新しい建物が薬師堂の覆堂?
【写真 下(右)】 御朱印
御座所をお尋ねするのを忘れましたが、霊場ガイドブックによると、札所本尊は本堂(観音堂)脇の唐破風宮殿造の薬師堂に御座す秘仏、船尾薬師如来(江戸初期、二尺一寸木彫座像)で、往昔より眼の病、万病平癒の守護佛として信仰されてきたとのこと。
中央に薬師如来立像の御影印と「薬師瑠璃光如来」の揮毫。右上に「薬師瑠璃光如来」の印判。
左下には寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
客殿にて、御朱印帳に書入れいただきました。
〔 関東百八地蔵尊霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 札所本尊の延命地蔵尊
【写真 下(右)】 子授地蔵尊
札所本尊御座所は、「仁王門から本堂(観音堂)に向かう途中の石像のお地蔵さま」との由。
霊場ガイドブックによると、「仁王門から観音堂に通ずる中段境内に近年建立された”延命地蔵尊”(石佛立像一丈三尺)」とあります。
鐘楼脇には元禄期建立とされる石佛立像の”子授地蔵尊”も御座しますが、ガイドには札所本尊欄に「延命地蔵尊」と明記されているので、こちらが札所本尊と思われます。
関東百八地蔵尊霊場の札所本尊は露仏も多く、ガイドブックがないとこのように特定しにくいケースがあります。
中央に地蔵菩薩立像の御影印と「延命地蔵尊」の揮毫。右上に「関東百八地蔵尊第三四番札所」の札所印。
左下には寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
客殿にて、御朱印帳に書入れいただきました。
〔 上州七福神(毘沙門天)の御朱印 〕
【写真 上(左)】 客殿
【写真 下(右)】 殿の扁額と上州七福神の札所板
【写真 上(左)】 毘沙門天の説明板
【写真 下(右)】 御朱印
上州七福神は県内全域にまたがる広域の七福神で、通年でどれだけ参拝客がいるかはわかりませんが、霊場会があり御朱印帳書入れもおおむねOKのようです。
客殿に御座す、毘沙門天が札所本尊です。
中央に法具(鈷杵?)を背景にした宝塔(毘沙門天の持物)の印と「毘沙門尊天」の揮毫。
右上に「毘沙門尊天」の印判。
左下には寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
客殿にて、御朱印帳に書入れいただきました。
20.五徳山 無量寿院 水澤寺(水澤観音)
公式Web
渋川市伊香保町水沢214
天台宗
御本尊:十一面千手観世音菩薩
札所:坂東三十三箇所(観音霊場)第16番、新上州三十三観音霊場別格、関東百八地蔵尊霊場第33番、群馬郡三十三観音霊場第3番
札所本尊:十一面千手観世音菩薩(坂東三十三箇所(観音霊場)第16番)、十一面千手観世音菩薩(新上州三十三観音霊場別格)、地蔵菩薩(関東百八地蔵尊霊場第33番)、十一面千手観世音菩薩(群馬郡三十三観音霊場第3番)
通称、水澤観音として親しまれる水澤寺は、上州を代表する天台宗の古刹です。
坂東三十三観音霊場の第十六番礼所でもあり、広く巡拝客を集めています。
寺伝(公式Webより)には、「千三百有余年の昔、推古天皇・持統天皇の勅願による、高麗の高僧恵灌僧正の開基であり、五徳山 水澤寺の名称は、推古天皇の御宸筆(ごしんぴつ)の額名によるものです。
ご本尊は国司高野辺家成公の三女 伊香保姫のご持仏の十一面千手観世音菩薩であり、霊験あたらたかなること、特に七難即滅七福即生のご利益顕著です。」とあります。
この伊香保姫は、くだんの「神道集」でも大きくとりあげられています。
後段の伊香保神社の縁起にもかかわる内容なので、すこしく長くなりますが、第四十 上野国勢多郡鎮守赤城大明神事、第四十一 上野国第三宮伊香保大明神事から抜粋引用してみます。
■ 第四十 上野国勢多郡鎮守赤城大明神事
人皇十八代履中天皇の御代、高野辺左大将家成は無実の罪で上野国深栖郷に流され、その地で奥方との間に一人の若君と三人の姫君をもうけた。
奥方が亡くなった後、左大将は信濃国更科郡の地頭・更科大夫宗行の娘を後妻とし、その間に一人の娘をもうけた。
その後左大将は罪を許されて都へ戻り、上野国の国司に任じられ、若君も都へ上り、帝から仕官を許された。
三人の姫君のうち、姉姫は淵名次郎家兼に預けられ淵名姫、次の姫は大室太郎兼保に預けられ赤城御前、末姫は群馬郡の地頭・伊香保大夫伊保に預けられて伊香保姫といった。
三人の姫君は見目麗しく、心根も優しく、相応の婿を選んで嫁ぐこととなったが、継母はこれに嫉妬し、弟の更科次郎兼光を唆して三人の姫君を亡きものにしようとした。
兼光は兵を興して淵名次郎と大室太郎を捕らえ、斬り殺した。
次に、淵名姫と淵名の女房を捕らえて亡きものにした。
その後、大室の宿所に押し寄せたが、赤城御前と大室の女房は赤城山へ逃れた。有馬郷の伊香保大夫は守りを固めて迎え撃ったので、伊香保姫は無事だった。
〔姉姫淵名姫は淵名明神に、赤城御前は唵佐羅摩女(赤城沼の龍神)の跡を継いで赤城大明神として顕れたと「神道集」は伝えますが、詳細は別稿に譲ります。〕
上野国の国司に任じられた左大将は、淵名姫の死を知ると姫の跡を追って身を投げた。
中納言となっていた若君はこれを知ると東国へ下り、上野国の国司となって更級次郎父子を捕らえ仇を討つた。
国司は無事であった伊香保姫と再会し、国司の職を伊香保姫に譲った。
伊香保姫は兄(国司高野辺中納言)の奥方の弟にあたる高光少将を婿に迎え、伊香保大夫の後見で上野国の国司を勤められた。
伊香保大夫は目代となり、自在丸という地に御所を建てた。当国の惣社は伊香保姫の御所の跡である。
■ 第四十一 上野国第三宮伊香保大明神事(話の内容が第四十と整合しない箇所があります。)
伊香保大明神は赤城大明神の妹で、高野辺大将の三番目の姫君である。
高野辺中納言の奥方の弟の高光中将と結婚して、一人の姫君をもうけた。
伊香保姫と高光中将は上野国国司を他に譲ったあと、有馬の伊香保大夫のもとで暮らしていた。
伊香保姫は淵名神社へ参詣の折、現在の国司である大伴大将と出会い、伊香保姫の美貌に懸想した大伴大将は、国司の威勢で姫を奪おうとした。
伊香保大夫は九人の息子と三人の婿を将として防戦したが劣勢となり、伊香保姫とその姫君、女房と娘の石童御前・有御前を連れて児持山に入った。負傷した高光中将は行方知れずとなった。
伊香保太夫は上京して状況を帝に奏聞すると、帝は伊香保姫に国司の職を持たせ、伊香保太夫を目代とされた。
また、高光中将(と伊香保姫)の姫君を上京させて更衣とされ、皇子が生まれたので国母として仰がれた。
伊香保太夫は伊香保山の東麓の岩滝沢の北岸に寺を建てて、高光中将の遺骨を納めた。
月日は流れて伊香保太夫とその女房は亡くなり、その娘の石童御前と有御前は伊香保姫と暮らしていた。
高光中将の甥の恵美僧正が別当になって寺はますます栄え、岩滝沢に因んで寺号を水沢寺とした。
伊香保姫は夫高光中将の形見の千手観世音菩薩を寺の本尊に祀り、二人の御前とともに亡き人々の菩提を弔ったところ、高光中将・伊香保大夫夫妻とその一族があらわれて千手観世音菩薩に礼拝した。
伊香保大夫の女房は 「あなた方の千手経読誦の功徳により、伊香保山の神や伊香保沼(榛名湖)の龍神・吠尸羅摩女に大切にされ、我らは悟りを開くことができました。
今は高光中将を主君とし、その眷属として崇められています」と云った。
夢から覚めた伊香保姫は「沼に身を投げて、龍宮城の力で高光中将の所に行こうと思います」と云って伊香保沼に身を投げた。石童御前と有御前もその後を追った。
恵美僧正は三人の遺骨を本堂の仏壇に下に収めて菩提を弔った。
その後、恵美僧正の夢の中に伊香保姫が現れ、この寺の鎮守と成ろうと告げた。
夜が明けて枕もとを見ると、一冊の日記が有り、以下のように記されていた。
伊香保姫は伊香保大明神として顕れた。
伊香保太夫は早尾大明神として顕れた。
太夫の女房は宿禰大明神として顕れた。
以上長くなりましたが、まとめると伊香保姫の生涯は以下のようにあらわされています。
・伊香保姫は、上野国国司高野辺家成公の三女である。
・見目麗しく、心根も優しかったが、継母はこれに嫉妬し姫の命を狙うが有馬郷の伊香保大夫に護られた。
・兄(国司高野辺中納言)の奥方の弟にあたる高光少(中)将を婿に迎え、伊香保大夫の後見で上野国の国司を勤められた。
・伊香保姫と高光少(中)将の姫君は京に上って更衣となり、皇子を産んで国母(天皇の母、皇太后)となられた。
・伊香保姫は伊香保沼に身を投げた後、水澤寺の別当恵美僧正がその遺骨を本堂の仏壇下に納めた。伊香保姫は恵美僧正の夢にあらわれ、水澤寺の鎮守となられた。
・伊香保姫は伊香保大明神として顕れた。
水澤寺の寺伝と「神道集」で寺の開基は若干異なりますが、御本尊が国司高野辺家成公の三女 伊香保姫のご持仏の(十一面)千手観世音菩薩という点は符合しています。
水澤寺は歴代天皇の勅願寺という高い格式を有しますが、これは「神道集」で伊香保姫の娘が国母(天皇の母、皇太后)になられたという内容と関係があるのかもしれません。
公式Webによると、「現在の建物は大永年間に仮堂を造立し、元禄年間より宝暦天命年間に至る三十三ヶ年の大改築によるもの」とのこと。
坂東三十三観音霊場の礼所であり、名湯、伊香保温泉のそばにあることから古くから多くの参詣客を集めました。
山内はさほど広くはないものの、霊場札所特有のパワスポ的雰囲気にあふれています。
背景の深い緑に朱塗りの伽藍が映えて、華やぎのある境内です。
また、参道に店が軒を連ねる水沢うどんは、讃岐うどん・稲庭うどんとともに「日本三大うどん」とされています。(諸説あり)
【写真 上(左)】 うどん店街からの表参道登り口
【写真 下(右)】 有名店の元祖田丸屋
【写真 上(左)】 水沢うどん
【写真 下(右)】 マイタケの天麩羅も名物です
境内の中心は本堂ですが、駐車場が手前にあるため、まず目に入る仏殿は釈迦堂です。
釈迦三尊像をお祀りし、円空仏(阿弥陀如来像)・二十八部衆像・十一面観世音菩薩像等を安置、坂東三十三観世音菩薩像をお祀りし、お砂踏みができるなど見応えがあります。
こちらでは釈迦三尊の御朱印を授与されています。
【写真 上(左)】 釈迦堂
【写真 下(右)】 花まつりの誕生仏
【写真 上(左)】 釈迦三尊の御朱印
【写真 下(右)】 平成最後の花まつり当日の釈迦三尊の御朱印
〔 釈迦三尊の御朱印 〕
釈迦三尊は、釈迦如来を中尊とし、左右に脇侍を配する安置形式です。
ふつう、向かって右に文殊菩薩、向かって左に普賢菩薩が置かれます。
左右逆に配置される場合もありますが、文殊菩薩は獅子、普賢菩薩は白象の上の蓮華座に結跏趺坐されているので、識別は比較的容易です。
水澤寺釈迦堂の釈迦三尊像(→公式Web)の画像は施無畏印、与願印を結ぶ釈迦如来を中尊に、向かって右に文殊菩薩、左に普賢菩薩が御座します。
御朱印の御寶印の種子も同様の配置で、中央上に釈迦如来の種子「バク」、右に文殊菩薩の種子「マン」、左に普賢菩薩の種子「アン」が、蓮華座+火焔宝珠のなかに置かれています。
中央に「釋迦三尊」の揮毫。右上に「坂東十六番」の札所印。右下に山号、左下には寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
画像は灌仏会(花まつり/4月8日)当日の御朱印で、釈迦堂前には誕生仏像と甘茶が用意されていました。
【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 鐘楼
参道を進むとすぐに本堂が見えてきます。
御本尊が観世音菩薩なので、本堂が観音堂となります。
天明七年竣工の五間堂で、正面向拝、軒唐破風朱塗りの趣きあるつくり。透かし彫りや丸彫り技法を駆使した向拝柱の龍の彫刻はとくに見応えがあります。
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝
【写真 上(左)】 向拝の天井画
【写真 下(右)】 札所扁額
御本尊の十一面千手観世音菩薩は絶対秘仏で御開帳はされません。
坂東三十三箇所(観音霊場)第16番、新上州三十三観音霊場別格の札所はこちらになります。
【写真 上(左)】 御札場の札所板
【写真 下(右)】 表参道の山門
なお、釈迦三尊像(釈迦堂)以外の御朱印および御朱印帳は、すべて本堂前御札場で授与されています。
本来の表参道はこの御札場横の階段で、水沢うどん店街から昇るもの。
仁王門も雰囲気があり、こちらにも回ることをおすすめします。
〔 坂東三十三箇所(観音霊場)の御朱印 〕
【写真 上(左)】 坂東三十三箇所(観音霊場)の御朱印-1
【写真 下(右)】 坂東三十三箇所(観音霊場)の御朱印-2
中央に札所本尊、十一面千手観世音菩薩の種子「キリーク」と「千手大悲閣」の揮毫。
御寶印は蓮華座、火焔宝珠のなかに上段3つ、下段5つの8つの種子が置かれています。
上段の3つは、おそらく中央に聖観世音菩薩の種子「サ」、右に不動明王の種子「カン」、左に毘沙門天の種子「ベイ」。
天台宗系寺院では中尊の右に不動明王、左に毘沙門天を置く様式がありますが(これは複数のご住職からお聞きしたので間違いないと思う)、なぜ中央に十一面千手観世音菩薩の種子「キリーク」ではなく、聖観世音菩薩の種子「サ」が置かれているかは不明。
下段の5つの種子については、上段の中尊と併せて六観音を構成しているのではないかと思います。
通常、天台宗の六観音は聖観世音菩薩(種子サ)、十一面観世音菩薩(キャ)、千手観世音菩薩(キリーク)、馬頭観世音菩薩(カン)、如意輪観世音菩薩(キリーク)、不空羂索観世音菩薩(モ)です。
下段の種子は左からキリーク、サ、キリーク、キャ、カンで、不空羂索観世音菩薩のモを除いて揃っています。
サを不空羂索観世音菩薩の種子に当てていると考えると六観音説が成立しますが、委細はよくわかりません。
右上に「坂東十六番」の札所印。右下には山号、左下に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
【写真 上(左)】 オリジナル御朱印帳(紺)
【写真 下(右)】 オリジナル御朱印帳(朱)
【写真 上(左)】 坂東三十三箇所(観音霊場)の専用納経帳(表紙)
【写真 下(右)】 坂東三十三箇所(観音霊場)の専用納経帳御朱印
こちらのオリジナル御朱印帳は紙質がよく、おすすめです。
下段に寺院の概略が記載された「幻の坂東三十三箇所専用納経帳」はようやくこちらで入手できましたので、現在2巡目の巡拝中です。
〔 新上州三十三観音霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 御朱印帳書入れの御朱印
【写真 下(右)】 専用納経帳の御朱印
こちらは新上州三十三観音霊場の番外札所になっていて、御朱印を授与されています。
中央に捺された御寶印は上の坂東霊場のものと同様です。
中央に「キリーク」の種子と「千手大悲閣」の揮毫。右上に「上州別格霊場」の霊場印。
右下には山号、左下に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
専用納経帳の御朱印も同様の構成ですが、両面タイプで左側には尊格や御詠歌の印刷があります。
〔 関東百八地蔵尊霊場の御朱印 〕
【写真 下(右)】 六角堂
【写真 下(右)】 六角堂正面
【写真 上(左)】 六角堂向拝
【写真 下(右)】 祈念を込めて廻します
【写真 上(左)】 六地蔵尊
【写真 下(右)】 六地蔵尊の御朱印
あまり知られていないようですが、こちらは関東百八地蔵尊霊場33番の札所で、御朱印も授与されています。
本堂向かって右手にある朱塗りの六角堂(地蔵堂)は天明七年竣工の銅板瓦棒葺。堂内に御座す、元禄期、唐金立像の六体の開運地蔵尊(六地蔵尊)が札所本尊で、県指定重文のようです。
この六地蔵尊を左に三回廻して罪障消滅、後生善処を祈念します。
人気のスポットで、いつも参詣客が楽しそうに回し棒を押しています。
お堂の二層には上がれませんが、大日如来が安置されているそうです。
中央に「南無六地蔵尊」の揮毫。
御寶印は蓮華座と火焔宝珠のなかに上段に大きくひとつ、下段に小さく6つの種子が置かれています。
上段の大きな種子はおそらく金剛界大日如来の荘厳体種子(五点具足婆字)「バーンク」と思われます。
下の6つはこの資料からすると、六地蔵を示し、左からふたつはカ(法性)、イ(宝性)、右からふたつはイー(地持)、イ(光昧)を示すと思われますが、揮毫がかかっている中央のふたつは不明です。
(六地蔵の名称や尊容は一定していないといわれ、六道との対応もよくわからない場合があります。)
六角堂(地蔵堂)は、2層に大日如来、1層に六地蔵尊が御座されているので、尊像配置とご寶印が整合しているようにも思われますが、さてさてどうでしょうか。
右上に「関東百八地蔵尊三三番」の札所印。右下に山号、左下には寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
【写真 上(左)】 飯綱大権現
【写真 下(右)】 十二支守り本尊
【写真 上(左)】 龍王弁財天
【写真 下(右)】 めずらしい尊格配置
この他にも、飯綱大権現、十二支守り本尊、龍王弁財天など、ふるくから参詣客を集めた古刹らしいみどころがつづきます。
車であと少し走れば名湯、伊香保温泉。午後に訪れて伊香保泊まりのゆったりとした参詣をおすすめします。
21.伊香保神社
渋川市伊香保町伊香保2
主祭神:大己貴命、少彦名命
式内社(名神大)、上野国三宮 旧社格:県社兼郷社
ようやく、この記事のハイライト、伊香保神社まできました。
伊香保温泉街の石段三百六十五段を昇りきったところに鎮座するこの神社は、式内社(名神大)、上野国三宮、旧県社という高い格式をもつ古社で、すこぶる複雑な由緒来歴を有します。
興味を惹かれたので、御朱印とは関係なく関連する神社も回ってみましたので、こちらも含めてご紹介します。
【写真 上(左)】 伊香保石段街
【写真 下(右)】 参道の階段
神社の創祀由緒をたどる有力な手がかりは境内の由来書です。
まずは、伊香保神社の由来書から要旨を抜粋引用してみます。
・第十一代垂仁天皇朝時代(紀元前二九~七0)の開起と伝えられ、第五十四代仁明天皇朝承和二年(八三五)九月十九日名神大社に。
・延喜五年(九0五)編纂開始の神名帳に記載され、朝廷公認の神社となった。
・上野国は十二宮を定めたが、伊香保神社は一宮貫前神社、二宮赤城神社についで三宮の神社となった。
・明治維新後、あらたに近代社格制度が敷かれ、伊香保神社は県社を賜ることとなった。
【写真 上(左)】 社号標
【写真 下(右)】 神楽殿
また、比較的信憑性の高い資料として所在市町村資料がありますが、当社所在の渋川市のWebにも記載があります。
いささか長いですが、興味ある内容を含んでいるので以下に引用します。
「(前略)延喜式内社です。「伊香保」の地名は古く、『万葉集』の東歌にも詠まれています。「厳つ峰」(いかつほ)とか「雷の峰」(いかつちのほ)に由来し、榛名山、とくに水沢山を指す古名だったと言われています。伊香保神社ももとは、水沢山を信仰の対象としたもので、別の場所にあったようです。
平安時代の記録では承和6年(839)に従五位下、元慶4年(880)には従四位上、長元3年(1030)ころに正一位に叙せられ、やがて上野国三宮となります。その後は衰微しますが、いつしか伊香保の源泉近くへ移り、温泉の守護神となったようです。
現在の祭神は、温泉・医療の神である大己貴命・少彦名命であり、湯元近くに移ってから後の祭神と思われます。(以下略)」
【写真 上(左)】 伊香保神社拝殿(2003年)
【写真 下(右)】 拝殿扁額
市町村資料としてはかなりナゾめいた内容ですが(笑)、以下の内容が読みとれます。
1.(延喜式内社)名神大社、上野国三宮、旧県社という社格の高い神社であること。
2.もともと水沢山を信仰の対象とし、別の場所にあった可能性があること。
3.伊香保の湯元のそば(現社地)に移られる前は別の祭神であった可能性があること。
【写真 上(左)】 社号の提灯
【写真 下(右)】 境内社
これとは別に「明治維新前には湯前神社(明神)と称していましたが、明治6年、旧号の伊香保神社と改称」という情報も得られました。併せて、「伊香保温泉にはそれ以前から薬師堂(温泉明神)が祀られていたが、伊香保神社の勧請後はその本地仏(薬師如来)とみなされるようになった。」という説もあり、これは上記2や3の内容と整合するものです。(詳細後述)
なお、群馬郡三十三観音霊場第4番の医王寺は、伊香保神社参道階段下から露天風呂に向かう途中の「医王寺薬師堂」のことかと思われます。
【写真 上(左)】 利根川越しの榛名連山
【写真 下(右)】 伊香保薬師堂(医王寺)
さらに、「群馬県群馬郡誌」には下記の記述があります。
「祭神は大己貴命少彦名命にして(略)淳和天皇の御代の創建なり。夫れより仁明天皇の承和二年辛羊九月名神大の社格たり(略)歴代國々の諸神に位階を給ひたれば本社は正一位に昇格す、故に上野國神名帳に正一位伊香保大明神と記載あり。」「明治六年縣社に列し更に二四大邑?の郷社を兼ねたり」
ところで上野国十二宮(社)をたどっていくと、伊香保神社のほかにもう一社、三宮に比定されている神社がみつかります。
吉岡町大久保に鎮座する三宮神社です。
【写真 上(左)】 三宮神社社頭
【写真 下(右)】 三宮神社の社号標と鳥居
三宮神社境内の由来書から抜粋引用します。(句読点は適宜付加。)
・天平勝宝二年(750)の勧請・創祀と伝えられる古名社、また「神道集」に『女体ハ里ヘ下給テ三宮渋河保ニ御座ス、本地ハ十一面也』とあり、伊香保神社の里宮とする説がある。
・彦火々出見命 豊玉姫命 少彦名命の三柱の神を奉斉している。
・三宮と称する所以は三柱の神を祭るためでなく、上野国三之宮であったことによる。
・九条家本延喜式神名帳には上野国三之宮は伊香保大明神とあり、当社はその里宮の中心であったと考えられる。
・古代当地方の人々は榛名山を伊香保山と称し、その山頂を祖霊降臨の地と崇め、麓に遙拝所をつくり里宮とした。
・上野国神名帳には伊香保神が五社記載されてあり、その中心の宮を正一位三宮伊香保大明神と記している。
・当地三宮神社は伊香保神を祭る中心地であったため、三宮の呼称が伝えられたのである。
・神道集所収の上野国三宮伊香保大明神の由来には、伊香保神は男体女体の二神あり男体は伊香保の湯を守護する薬師如来で、女体は里に下り十一面観音となるとある。
・当社は、古来十一面観音像を御神体として奉安してきたのである。
【写真 上(左)】 三宮神社拝殿
【写真 下(右)】 三宮神社拝殿の扁額
なお、本地垂迹資料便覧様の「伊香保神社」には、伊香保大明神は南体・女体が御在し、男体(湯前)は伊香保の湯を守護され本地は薬師如来、女体(里下)は里へ下られ三宮神社に御在し本地は十一面観世音菩薩とあります。
渋川市有馬に鎮座する若伊香保神社も伊香保神社との関連が指摘されています。
【写真 上(左)】 若伊香保神社の社号標
【写真 下(右)】 若伊香保神社拝殿
社頭の石碑はうかつにも現地で記録し忘れましたが、Web上で見つかるのでこちらの内容を抜粋引用させていただきます。
・有馬の地の産土神は、大名牟遅命、少彦名命を併せ祀る若伊香保神社である。
・貞観五年それまでは正六位であった神格から、従五位下を授けられたことが「三代実録」に明らかである。
・中世には、「上野国五の宮」と証され、県下神社中の第五位に置かれ、惣社明神相殿十柱の一となり正一位を与えられた。
若伊香保大明神の本地は千手観世音菩薩とされ、これは各種の資料で一貫しています。
【写真 上(左)】 若伊香保神社拝殿の扁額
【写真 下(右)】 満行山泰叟寺
「水沢寺之縁起」には、「高光中将并びに北の方は伊香保大明神男躰女躰の両神なり」「夫れ高光中将殿は男躰伊香保大明神、御本地は薬師如来、別当は医王寺」とあります。
「北の方」とは高貴な方の奥方(正妻)をさすので、高光中将は男体伊香保大明神、「北の方」である伊香保姫は女体伊香保大明神ということになります。
また、「水沢寺之縁起」には「姫御前は推古帝崩御の後当国に下着し、弱伊香保明神と顕現はる」とあり、神道集と同様、高光中将と伊香保姫の息女(姫御前)は弱伊香保明神(若伊香保大明神)であることを示唆しています。
(以上、本地垂迹資料便覧様の「伊香保神社」からの引用による。)
神道集「第四十一 上野国第三宮伊香保大明神事」には、「中将殿の姫君は帝が崩御された後に国に下り、若伊香保大明神として顕れた。」とあります。
文脈からすると、中将殿は伊香保姫(伊香保大明神)の夫である高光中将であり、「中将殿の姫君」は、すなわち伊香保姫の御息女にあたることになります。
(『神道集』の神々様「第四十一 上野国第三宮伊香保大明神事」から引用。)
「若宮」「若」とはふつう本宮の祭神の子(御子神)を祀った神社をさしますから、御息女である姫御前を祀った神社の社名に「若」がついているのは、うなづけるところでしょうか。
なお、「尾崎喜左雄の説によると、伊香保神社は古くは阿利真公(有馬君)によって有馬の地に祀られており、後に三宮の地に遷座した。これが伊香保神社の里宮(現在の三宮神社)となり、有馬の元社は若伊香保神社と呼ばれるようになった。その後、伊香保温泉の湯前の守護神として分社が勧請され、現在の伊香保神社となった。伊香保温泉にはそれ以前から薬師堂(温泉明神)が祀られていたが、伊香保神社の勧請後はその本地仏とみなされるようになったと考えられる。」(参考文献 尾崎喜左雄「伊香保神社の研究」、『上野国の信仰と文化』所収、尾崎先生著書刊行会、1970)という貴重な情報があります。
→ 情報元・『神道集』の神々様「第四十一 上野国第三宮伊香保大明神事」
また、いくつかの資料で「伊香保神社は元々当地に鎮座したとされ、同社が上野国国府近くの三宮神社(北群馬郡吉岡町大久保)に遷座した際、旧社地に祀られたのが若伊香保神社」という説が紹介されています。
〔二ッ岳噴火との関係〕
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神道集の第四十一上野国第三宮伊香保大明神事には、伊香保神社の創祀伝承が描かれています。
前段は「20.五徳山 無量寿院 水澤寺」で引用しましたが、後段にはつぎのような不思議な記述があります。
「人皇四十九代光仁天皇の御代、上野国司の柏階大将知隆は伊香保山で七日間の巻狩を行って山と沼を荒らした。 沼の深さを測ろうとすると、夜の内に小山が出現したので、国司は上奏のために里に下った。 その後、沼は小山の西に移動し、元の沼地は野原になった。 国司は里に下る途中、一頭の鹿を水沢寺の本堂に追い込んで射殺した。 寺の僧たちは殺された鹿を奪い取って埋葬し、国司たちを追い出した。 怒った国司は寺に火をつけて焼き払った。 別当恵美僧正は上京して委細を帝に奏聞した。 帝は国司を佐渡島に流すよう検非違使に命じた。」「伊香保大明神は山の神たちを呼び集めて石楼を造った。 国司が蹴鞠をしていると、伊香保山から黒雲が立ち上り、一陣の旋風が吹き下ろした。 国司と目代は旋風にさらわれて石楼に閉じ込められ、今も焦熱地獄の苦しみを受けている。 山の神たちが石楼を造った山が石楼山である。 この山の北麓の北谷沢には冷水が流れていたが、石楼山が出来てから熱湯が流れるようになり、これを見た人は涌嶺と呼んだ。」
(『神道集』の神々様「第四十一 上野国第三宮伊香保大明神事」から引用。)
まとめると、
1.光仁天皇の御代(宝亀元年(770年)~天応元年(781年))、伊香保山に一夜にして小山が出現し、山中にある沼が西に移動して元の沼地は野原となった。
2.伊香保大明神は山の神たちを呼び集めて石楼を造った。伊香保山から黒雲が立ち上り、一陣の旋風が吹き下ろした。 国司と目代は旋風にさらわれて石楼に閉じ込められ、今も焦熱地獄の苦しみを受けている。
3.山の神たちが石楼を造った山が石楼山で、この山の北麓の北谷沢には冷水が流れていたが、石楼山が出来てから熱湯が流れるようになり、これを見た人は涌嶺と呼んだ。
1.からは地殻変動、2.からは火山の噴火、3.からは温泉湧出が連想されます。
伊香保温泉には、古墳時代の第十一代垂仁天皇の御代に開かれたという説と、天平時代の僧、行基(668-749年)によって発見されたというふたつの湯縁起が伝わります。(〔 温泉地巡り 〕 伊香保温泉(本ブログ)を参照)
行基伝説をとると、3.と伊香保温泉の開湯は時期的にほぼ符合します。
伊香保温泉の熱源は、6世紀に活動した二ッ岳の火山活動の余熱と考えられています。
伊香保の二ッ岳は、5世紀に火山活動を再開し6世紀中頃までに3回の噴火が発生、うち489~498年に渋川噴火、525~550年にかけて伊香保噴火というふたつの大規模噴火を起こしたことがわかっています。(気象庁「関東・中部地方の活火山 榛名山」より)
神道集の上記2.は光仁天皇の御代(770年~781年)のできごととされているので、二ッ岳の噴火と時代が合いませんが、この噴火を後世で記録したもの、という説があります。
「やぐひろネット・歴史解明のための考古学」様では、この点について詳細かつ綿密な考証をされています。(同Webの関連記事)
また、論文「6世紀における榛名火山の2回の噴火とそ の災害」(1989年早田 勉氏)によると、これら複数の噴火は、伊香保神社、三宮神社、若伊香保神社などが鎮座する榛名山東麓、北麓にかけて甚大な被害をもたらしたことがわかります。
これらの噴火が忘れてはならないできごととして語り継がれ、神道集に繋がったという見方もできるかもしれません。
神道集はかなりスペクタクルな展開で一見荒唐無稽な感じも受けますが、意外と史実を伝えているのかも・・・。
あまりに逸話が多いのでとりとめがなくなってきましたが(笑)、無理矢理とりまとめると、
1.伊香保神社のかつての祭神は伊香保大明神(高野辺大将の三番目の姫君)。
2.伊香保大明神には男体・女体があり、男体は伊香保神社、女体は三宮神社(吉岡町大久保)に鎮座される。
3.伊香保大明神男体(湯前・伊香保神社)は高光中将が顕れ、伊香保大明神女体(里下・三宮神社)は伊香保姫が顕れた。
4.伊香保大明神男体(高光中将)と伊香保大明神女体(伊香保姫)の御息女は若伊香保大明神(渋川・有馬の若伊香保神社)として顕れた。
5.三宮神社は、伊香保神社の里宮とする説がある
6.伊香保神社はもともと若伊香保神社の社地に鎮座し、同社が三宮神社に遷座した際、旧社地に祀られたのが若伊香保神社という説がある。
7.伊香保の湯前神社はもともと薬師堂(温泉明神)で、伊香保神社の遷座?にともない習合して本地薬師如来となったという説がある。
8.伊香保大明神の創祀は、5世紀の渋川噴火、6世紀の伊香保噴火とかかわりをもつという説がある。
無理矢理とりまとめても(笑)、やはりぜんぜんまとめきれません。
というかナゾは深まるばかりです。
伊香保はお気に入りの温泉地なので、時間をかけてナゾを解きほぐしていければと考えています。
〔 御朱印 〕
これほどの古名社でありながら、現在伊香保神社には神職は常駐されておりません。(最近は、週末は社務所で授与いただけます。)
わたしは以前、参道階段下の饅頭屋さんで書置のものをいただきましたが、最近は平日でも拝殿前に書置が置かれているという情報もあります。
また、渋川八幡宮でも神職がいらっしゃれば書入れの御朱印を拝受できます。(現況は不明)
土日祝に社務所で授与される鶴亀の御朱印
【写真 上(左)】 書置の御朱印(参道階段横饅頭屋さんにて)
【写真 下(右)】 書入れの御朱印(渋川八幡宮にて)
書置き、書入れともに中央に神社印、中央に「伊香保神社」の揮毫があります。
なお、三宮神社、若伊香保神社ともに無住で、御朱印の授与については確認できておりません。
また、若伊香保神社のとなりに、いかにも別当寺然としてある曹洞宗の満行山泰叟寺も参拝しましたが、御朱印は非授与とのことでした。
→ ■ 伊香保温泉周辺の御朱印-4(中編B)へ
※ 渋川スカイランドそばに令和元年建立された関東石鎚神社でも御朱印を授与されています。
■ 伊香保温泉周辺の御朱印-1(前編A)
■ 伊香保温泉周辺の御朱印-2(前編B)
■ 伊香保温泉周辺の御朱印-3(中編A)
■ 伊香保温泉周辺の御朱印-4(中編B)
■ 伊香保温泉周辺の御朱印-5(後編A)
■ 伊香保温泉周辺の御朱印-6(後編B)
■ 御朱印情報の関連記事
【 BGM 】
■ ホール・ニュー・ワールド - 熊田このは & 二木蒼生
"A Whole New World" by Konoha Kumada(with Aoi Niki).1/12/2020 at The Mizonokuchi Theater in Kawasaki/JAPAN.
■ Open Your Heart - Yuki Kajiura(FictionJunction)
■ PLANETES - Hitomi(黒石ひとみ)
■ 伊香保温泉周辺の御朱印-3(前編A)
19.船尾山 等覚院 柳澤寺 (榛東村山子田)
20.五徳山 無量寿院 水澤寺 (渋川市伊香保町水沢)
21.伊香保神社 (渋川市伊香保町伊香保)
19.船尾山 等覚院 柳澤寺
公式Web
榛東村山子田2535
天台宗
御本尊:千手千眼観世音菩薩 (釈迦三尊)
札所:新上州三十三観音霊場第25番、東国花の寺百ヶ寺霊場第34番(群馬第8番)、関東九十一薬師霊場第46番、関東百八地蔵尊霊場第34番、群馬郡三十三観音霊場第2番、上州七福神(毘沙門天)
札所本尊:千手観世音菩薩(新上州三十三観音霊場第25番)、千手観世音菩薩(東国花の寺百ヶ寺霊場第34番(群馬第8番))、薬師如来(関東九十一薬師霊場第46番)、地蔵菩薩(関東百八地蔵尊霊場第34番)、毘沙門天(上州七福神)
榛名東麓屈指の古刹で、複数の札所を兼ねているこのお寺は複雑な開山由緒をもたれます。
公式Webにある「天台宗宗祖傳教大師の東国巡行のみぎり、この地に住む群馬の太夫満行と言うものが大師の徳を慕って榛名山中の船尾の峰に"妙見院 息災寺"という巨刹を創建し、大師を請じて開山」というのが当初の開山伝承のようです。
その後「神道集」の「上野国桃井郷上村八ヶ権現の事」、およびこれをベースとして成立した「船尾山縁起」が広まります。
「船尾山縁起」はデリケートな内容で抜粋引用がはばかられ、全文引用すると長くなるのでこちら(公式Web)をご覧ください。
近世にはこの地との関わりがうすい千葉氏が主役で、その千葉氏が悲劇的な結末をもってその姿を隠してしまうというこの伝承については、その背景として様々な説が打ち出されています。
「6.三鈷山 吉祥院 妙見寺」にも千葉氏にまつわる伝承が残りますが、柳澤寺は「妙見院 息災寺」を通じて妙見寺と相応のつながりがあったのでは。
それにしても、このエリアは「神道集」との関わりが深いです。
神道集(しんとうしゅう)は、南北朝時代中期に成立とされている十巻五十条からなる説話集で、安居院唱導教団(あぐいしょうどうきょうだん)の著作とされます。
安居院唱導教団は当時の仏教宗派のひとつとされ、詳細は不明ですが伊勢神道(度会神道、神本仏迹説系)との関連を指摘する説がみられます。
内容はすこぶる劇的でスペクタクル。アニメや映画になじみそう。
主に関東(とくに上州)の神社について、その成り立ちと本地仏(神本仏迹説からすると垂迹仏?)が詳細に記されています。
(いわゆる本地譚・本地物/神体の前生説話のひとつとされる。)
登場される神々はかならずしも現在の主祀神ではなく、主にその土地とつながりのふかい神々です。
生身の人間が説話を介して一気に神となる不思議なイメージ漂う内容ですが、これは神本仏迹系本地譚の特徴なのかもしれません。
(「権現系」ではなく「明神系」、神名も大明神を名乗られる例が多い。)
この「神道集」があることで上州の寺社はダイナミックにつながり、寺社巡りに興を添えています。
「上野国桃井郷上村八ヶ権現の事」(神道集第四十七)は、こちらで紹介されています。
「神道集」と「船尾山縁起」はともに凄絶な展開で内容は酷似していますが、「神道集」の主役は上野国国司の桃苑左大将家光。
千葉氏が主役となる「船尾山縁起」の成立は「神道集」から約二百年後とされるので、この二百年のあいだに千葉氏にかかわる大きなできごとがあったのかもしれません。
ちなみに、柳澤寺そばには平常将大明神を主祭神とする常将神社が鎮座しています。
寺伝(公式Web)によると、延暦寺の直末として中世には学僧も多く輩出、戦国時代末の動乱を経て、江戸時代に入は天海僧正、高崎城主・安藤右京進などの尽力により朱印地三十石を賜ったとされる名刹です。
背後に榛名山を背負い、眼下に利根川が流れる開けた立地に名刹にふさわしい広大な境内を擁します。
風格ある二層丹塗りの楼門、御本尊、千手千眼観世音菩薩が御座す本堂(観音堂)、寄棟平屋造りの風趣ある客殿(釈迦三尊、薬師如来、不動明王、毘沙門天などが御座)、県内最古とされる鐘楼、阿弥陀堂、薬師堂、平成10年建立の五重塔など壮麗な伽藍を連ねます。
【写真 上(左)】 鐘楼
【写真 下(右)】 五重塔
本堂(観音堂)は右手に離れてあるのでややわかりにくいですが、新上州三十三観音と東国花の寺百ヶ寺霊場の札所はこちらになります。
納経所(御朱印授与所)は客殿左手の庫裡、ないし客殿が開いているときは客殿内となります。
複数の札所を兼ねているので手慣れたご対応ですが、目的の御朱印(霊場)をはっきり申告する必要があります。
それでは、それぞれの霊場の御朱印を紹介していきます。
なお、Web情報からすると霊場申告なしの御朱印は新上州三十三観音霊場のものとなる模様。
〔 新上州三十三観音霊場の御朱印 〕
本堂(観音堂)
【写真 上(左)】 専用納経帳の御朱印
【写真 下(右)】 御朱印帳書入れの御朱印
札所本尊の千手千眼観世音菩薩は境内右手の本堂(観音堂)に御座します。
元禄年間の様式を残すとされる、方六間の木造青銅葺きの建物で古趣を湛えています。
中央に札所本尊、千手観世音菩薩の種子「キリーク」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)と「千手大悲閣」の揮毫。
右上に「上州第二十五番」の札所印。左下には寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
専用納経帳の御朱印も同様の構成です。
客殿にて御朱印帳に書入れ、専用納経帳御朱印は庫裡にていただきました。
〔 東国花の寺百ヶ寺霊場の御朱印 〕
指定花種はサクラ(ソメイヨシノ)ですが、サツキも有名なようです。
この霊場は御本尊が札所本尊となるケースが多いですが、やはり本堂御本尊の千手千眼観世音菩薩の御朱印でした。
なので、霊場の参拝所は境内右手の本堂(観音堂)となります。
なお、公式Webには客殿の欄に「本尊釈迦三尊像」の記載がありますが、本堂御本尊=千手観世音菩薩、客殿御本尊=釈迦三尊という位置づけかもしれません。
中央に札所本尊、千手観世音菩薩の種子「キリーク」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)と「千手大悲閣」の揮毫。
右上に「東国花の寺百ヶ寺群馬第八番」の札所印。左下には寺号の揮毫と寺院印が捺されています。(主印が千手観世音菩薩の御影印となる場合もあるようです。)
霊場専用納経帳用の書置御朱印もあるようですが、庫裡にて御朱印書入れをいただきました。
〔 関東九十一薬師霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 本堂(観音堂)参道右手の真新しい建物が薬師堂の覆堂?
【写真 下(右)】 御朱印
御座所をお尋ねするのを忘れましたが、霊場ガイドブックによると、札所本尊は本堂(観音堂)脇の唐破風宮殿造の薬師堂に御座す秘仏、船尾薬師如来(江戸初期、二尺一寸木彫座像)で、往昔より眼の病、万病平癒の守護佛として信仰されてきたとのこと。
中央に薬師如来立像の御影印と「薬師瑠璃光如来」の揮毫。右上に「薬師瑠璃光如来」の印判。
左下には寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
客殿にて、御朱印帳に書入れいただきました。
〔 関東百八地蔵尊霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 札所本尊の延命地蔵尊
【写真 下(右)】 子授地蔵尊
札所本尊御座所は、「仁王門から本堂(観音堂)に向かう途中の石像のお地蔵さま」との由。
霊場ガイドブックによると、「仁王門から観音堂に通ずる中段境内に近年建立された”延命地蔵尊”(石佛立像一丈三尺)」とあります。
鐘楼脇には元禄期建立とされる石佛立像の”子授地蔵尊”も御座しますが、ガイドには札所本尊欄に「延命地蔵尊」と明記されているので、こちらが札所本尊と思われます。
関東百八地蔵尊霊場の札所本尊は露仏も多く、ガイドブックがないとこのように特定しにくいケースがあります。
中央に地蔵菩薩立像の御影印と「延命地蔵尊」の揮毫。右上に「関東百八地蔵尊第三四番札所」の札所印。
左下には寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
客殿にて、御朱印帳に書入れいただきました。
〔 上州七福神(毘沙門天)の御朱印 〕
【写真 上(左)】 客殿
【写真 下(右)】 殿の扁額と上州七福神の札所板
【写真 上(左)】 毘沙門天の説明板
【写真 下(右)】 御朱印
上州七福神は県内全域にまたがる広域の七福神で、通年でどれだけ参拝客がいるかはわかりませんが、霊場会があり御朱印帳書入れもおおむねOKのようです。
客殿に御座す、毘沙門天が札所本尊です。
中央に法具(鈷杵?)を背景にした宝塔(毘沙門天の持物)の印と「毘沙門尊天」の揮毫。
右上に「毘沙門尊天」の印判。
左下には寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
客殿にて、御朱印帳に書入れいただきました。
20.五徳山 無量寿院 水澤寺(水澤観音)
公式Web
渋川市伊香保町水沢214
天台宗
御本尊:十一面千手観世音菩薩
札所:坂東三十三箇所(観音霊場)第16番、新上州三十三観音霊場別格、関東百八地蔵尊霊場第33番、群馬郡三十三観音霊場第3番
札所本尊:十一面千手観世音菩薩(坂東三十三箇所(観音霊場)第16番)、十一面千手観世音菩薩(新上州三十三観音霊場別格)、地蔵菩薩(関東百八地蔵尊霊場第33番)、十一面千手観世音菩薩(群馬郡三十三観音霊場第3番)
通称、水澤観音として親しまれる水澤寺は、上州を代表する天台宗の古刹です。
坂東三十三観音霊場の第十六番礼所でもあり、広く巡拝客を集めています。
寺伝(公式Webより)には、「千三百有余年の昔、推古天皇・持統天皇の勅願による、高麗の高僧恵灌僧正の開基であり、五徳山 水澤寺の名称は、推古天皇の御宸筆(ごしんぴつ)の額名によるものです。
ご本尊は国司高野辺家成公の三女 伊香保姫のご持仏の十一面千手観世音菩薩であり、霊験あたらたかなること、特に七難即滅七福即生のご利益顕著です。」とあります。
この伊香保姫は、くだんの「神道集」でも大きくとりあげられています。
後段の伊香保神社の縁起にもかかわる内容なので、すこしく長くなりますが、第四十 上野国勢多郡鎮守赤城大明神事、第四十一 上野国第三宮伊香保大明神事から抜粋引用してみます。
■ 第四十 上野国勢多郡鎮守赤城大明神事
人皇十八代履中天皇の御代、高野辺左大将家成は無実の罪で上野国深栖郷に流され、その地で奥方との間に一人の若君と三人の姫君をもうけた。
奥方が亡くなった後、左大将は信濃国更科郡の地頭・更科大夫宗行の娘を後妻とし、その間に一人の娘をもうけた。
その後左大将は罪を許されて都へ戻り、上野国の国司に任じられ、若君も都へ上り、帝から仕官を許された。
三人の姫君のうち、姉姫は淵名次郎家兼に預けられ淵名姫、次の姫は大室太郎兼保に預けられ赤城御前、末姫は群馬郡の地頭・伊香保大夫伊保に預けられて伊香保姫といった。
三人の姫君は見目麗しく、心根も優しく、相応の婿を選んで嫁ぐこととなったが、継母はこれに嫉妬し、弟の更科次郎兼光を唆して三人の姫君を亡きものにしようとした。
兼光は兵を興して淵名次郎と大室太郎を捕らえ、斬り殺した。
次に、淵名姫と淵名の女房を捕らえて亡きものにした。
その後、大室の宿所に押し寄せたが、赤城御前と大室の女房は赤城山へ逃れた。有馬郷の伊香保大夫は守りを固めて迎え撃ったので、伊香保姫は無事だった。
〔姉姫淵名姫は淵名明神に、赤城御前は唵佐羅摩女(赤城沼の龍神)の跡を継いで赤城大明神として顕れたと「神道集」は伝えますが、詳細は別稿に譲ります。〕
上野国の国司に任じられた左大将は、淵名姫の死を知ると姫の跡を追って身を投げた。
中納言となっていた若君はこれを知ると東国へ下り、上野国の国司となって更級次郎父子を捕らえ仇を討つた。
国司は無事であった伊香保姫と再会し、国司の職を伊香保姫に譲った。
伊香保姫は兄(国司高野辺中納言)の奥方の弟にあたる高光少将を婿に迎え、伊香保大夫の後見で上野国の国司を勤められた。
伊香保大夫は目代となり、自在丸という地に御所を建てた。当国の惣社は伊香保姫の御所の跡である。
■ 第四十一 上野国第三宮伊香保大明神事(話の内容が第四十と整合しない箇所があります。)
伊香保大明神は赤城大明神の妹で、高野辺大将の三番目の姫君である。
高野辺中納言の奥方の弟の高光中将と結婚して、一人の姫君をもうけた。
伊香保姫と高光中将は上野国国司を他に譲ったあと、有馬の伊香保大夫のもとで暮らしていた。
伊香保姫は淵名神社へ参詣の折、現在の国司である大伴大将と出会い、伊香保姫の美貌に懸想した大伴大将は、国司の威勢で姫を奪おうとした。
伊香保大夫は九人の息子と三人の婿を将として防戦したが劣勢となり、伊香保姫とその姫君、女房と娘の石童御前・有御前を連れて児持山に入った。負傷した高光中将は行方知れずとなった。
伊香保太夫は上京して状況を帝に奏聞すると、帝は伊香保姫に国司の職を持たせ、伊香保太夫を目代とされた。
また、高光中将(と伊香保姫)の姫君を上京させて更衣とされ、皇子が生まれたので国母として仰がれた。
伊香保太夫は伊香保山の東麓の岩滝沢の北岸に寺を建てて、高光中将の遺骨を納めた。
月日は流れて伊香保太夫とその女房は亡くなり、その娘の石童御前と有御前は伊香保姫と暮らしていた。
高光中将の甥の恵美僧正が別当になって寺はますます栄え、岩滝沢に因んで寺号を水沢寺とした。
伊香保姫は夫高光中将の形見の千手観世音菩薩を寺の本尊に祀り、二人の御前とともに亡き人々の菩提を弔ったところ、高光中将・伊香保大夫夫妻とその一族があらわれて千手観世音菩薩に礼拝した。
伊香保大夫の女房は 「あなた方の千手経読誦の功徳により、伊香保山の神や伊香保沼(榛名湖)の龍神・吠尸羅摩女に大切にされ、我らは悟りを開くことができました。
今は高光中将を主君とし、その眷属として崇められています」と云った。
夢から覚めた伊香保姫は「沼に身を投げて、龍宮城の力で高光中将の所に行こうと思います」と云って伊香保沼に身を投げた。石童御前と有御前もその後を追った。
恵美僧正は三人の遺骨を本堂の仏壇に下に収めて菩提を弔った。
その後、恵美僧正の夢の中に伊香保姫が現れ、この寺の鎮守と成ろうと告げた。
夜が明けて枕もとを見ると、一冊の日記が有り、以下のように記されていた。
伊香保姫は伊香保大明神として顕れた。
伊香保太夫は早尾大明神として顕れた。
太夫の女房は宿禰大明神として顕れた。
以上長くなりましたが、まとめると伊香保姫の生涯は以下のようにあらわされています。
・伊香保姫は、上野国国司高野辺家成公の三女である。
・見目麗しく、心根も優しかったが、継母はこれに嫉妬し姫の命を狙うが有馬郷の伊香保大夫に護られた。
・兄(国司高野辺中納言)の奥方の弟にあたる高光少(中)将を婿に迎え、伊香保大夫の後見で上野国の国司を勤められた。
・伊香保姫と高光少(中)将の姫君は京に上って更衣となり、皇子を産んで国母(天皇の母、皇太后)となられた。
・伊香保姫は伊香保沼に身を投げた後、水澤寺の別当恵美僧正がその遺骨を本堂の仏壇下に納めた。伊香保姫は恵美僧正の夢にあらわれ、水澤寺の鎮守となられた。
・伊香保姫は伊香保大明神として顕れた。
水澤寺の寺伝と「神道集」で寺の開基は若干異なりますが、御本尊が国司高野辺家成公の三女 伊香保姫のご持仏の(十一面)千手観世音菩薩という点は符合しています。
水澤寺は歴代天皇の勅願寺という高い格式を有しますが、これは「神道集」で伊香保姫の娘が国母(天皇の母、皇太后)になられたという内容と関係があるのかもしれません。
公式Webによると、「現在の建物は大永年間に仮堂を造立し、元禄年間より宝暦天命年間に至る三十三ヶ年の大改築によるもの」とのこと。
坂東三十三観音霊場の礼所であり、名湯、伊香保温泉のそばにあることから古くから多くの参詣客を集めました。
山内はさほど広くはないものの、霊場札所特有のパワスポ的雰囲気にあふれています。
背景の深い緑に朱塗りの伽藍が映えて、華やぎのある境内です。
また、参道に店が軒を連ねる水沢うどんは、讃岐うどん・稲庭うどんとともに「日本三大うどん」とされています。(諸説あり)
【写真 上(左)】 うどん店街からの表参道登り口
【写真 下(右)】 有名店の元祖田丸屋
【写真 上(左)】 水沢うどん
【写真 下(右)】 マイタケの天麩羅も名物です
境内の中心は本堂ですが、駐車場が手前にあるため、まず目に入る仏殿は釈迦堂です。
釈迦三尊像をお祀りし、円空仏(阿弥陀如来像)・二十八部衆像・十一面観世音菩薩像等を安置、坂東三十三観世音菩薩像をお祀りし、お砂踏みができるなど見応えがあります。
こちらでは釈迦三尊の御朱印を授与されています。
【写真 上(左)】 釈迦堂
【写真 下(右)】 花まつりの誕生仏
【写真 上(左)】 釈迦三尊の御朱印
【写真 下(右)】 平成最後の花まつり当日の釈迦三尊の御朱印
〔 釈迦三尊の御朱印 〕
釈迦三尊は、釈迦如来を中尊とし、左右に脇侍を配する安置形式です。
ふつう、向かって右に文殊菩薩、向かって左に普賢菩薩が置かれます。
左右逆に配置される場合もありますが、文殊菩薩は獅子、普賢菩薩は白象の上の蓮華座に結跏趺坐されているので、識別は比較的容易です。
水澤寺釈迦堂の釈迦三尊像(→公式Web)の画像は施無畏印、与願印を結ぶ釈迦如来を中尊に、向かって右に文殊菩薩、左に普賢菩薩が御座します。
御朱印の御寶印の種子も同様の配置で、中央上に釈迦如来の種子「バク」、右に文殊菩薩の種子「マン」、左に普賢菩薩の種子「アン」が、蓮華座+火焔宝珠のなかに置かれています。
中央に「釋迦三尊」の揮毫。右上に「坂東十六番」の札所印。右下に山号、左下には寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
画像は灌仏会(花まつり/4月8日)当日の御朱印で、釈迦堂前には誕生仏像と甘茶が用意されていました。
【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 鐘楼
参道を進むとすぐに本堂が見えてきます。
御本尊が観世音菩薩なので、本堂が観音堂となります。
天明七年竣工の五間堂で、正面向拝、軒唐破風朱塗りの趣きあるつくり。透かし彫りや丸彫り技法を駆使した向拝柱の龍の彫刻はとくに見応えがあります。
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝
【写真 上(左)】 向拝の天井画
【写真 下(右)】 札所扁額
御本尊の十一面千手観世音菩薩は絶対秘仏で御開帳はされません。
坂東三十三箇所(観音霊場)第16番、新上州三十三観音霊場別格の札所はこちらになります。
【写真 上(左)】 御札場の札所板
【写真 下(右)】 表参道の山門
なお、釈迦三尊像(釈迦堂)以外の御朱印および御朱印帳は、すべて本堂前御札場で授与されています。
本来の表参道はこの御札場横の階段で、水沢うどん店街から昇るもの。
仁王門も雰囲気があり、こちらにも回ることをおすすめします。
〔 坂東三十三箇所(観音霊場)の御朱印 〕
【写真 上(左)】 坂東三十三箇所(観音霊場)の御朱印-1
【写真 下(右)】 坂東三十三箇所(観音霊場)の御朱印-2
中央に札所本尊、十一面千手観世音菩薩の種子「キリーク」と「千手大悲閣」の揮毫。
御寶印は蓮華座、火焔宝珠のなかに上段3つ、下段5つの8つの種子が置かれています。
上段の3つは、おそらく中央に聖観世音菩薩の種子「サ」、右に不動明王の種子「カン」、左に毘沙門天の種子「ベイ」。
天台宗系寺院では中尊の右に不動明王、左に毘沙門天を置く様式がありますが(これは複数のご住職からお聞きしたので間違いないと思う)、なぜ中央に十一面千手観世音菩薩の種子「キリーク」ではなく、聖観世音菩薩の種子「サ」が置かれているかは不明。
下段の5つの種子については、上段の中尊と併せて六観音を構成しているのではないかと思います。
通常、天台宗の六観音は聖観世音菩薩(種子サ)、十一面観世音菩薩(キャ)、千手観世音菩薩(キリーク)、馬頭観世音菩薩(カン)、如意輪観世音菩薩(キリーク)、不空羂索観世音菩薩(モ)です。
下段の種子は左からキリーク、サ、キリーク、キャ、カンで、不空羂索観世音菩薩のモを除いて揃っています。
サを不空羂索観世音菩薩の種子に当てていると考えると六観音説が成立しますが、委細はよくわかりません。
右上に「坂東十六番」の札所印。右下には山号、左下に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
【写真 上(左)】 オリジナル御朱印帳(紺)
【写真 下(右)】 オリジナル御朱印帳(朱)
【写真 上(左)】 坂東三十三箇所(観音霊場)の専用納経帳(表紙)
【写真 下(右)】 坂東三十三箇所(観音霊場)の専用納経帳御朱印
こちらのオリジナル御朱印帳は紙質がよく、おすすめです。
下段に寺院の概略が記載された「幻の坂東三十三箇所専用納経帳」はようやくこちらで入手できましたので、現在2巡目の巡拝中です。
〔 新上州三十三観音霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 御朱印帳書入れの御朱印
【写真 下(右)】 専用納経帳の御朱印
こちらは新上州三十三観音霊場の番外札所になっていて、御朱印を授与されています。
中央に捺された御寶印は上の坂東霊場のものと同様です。
中央に「キリーク」の種子と「千手大悲閣」の揮毫。右上に「上州別格霊場」の霊場印。
右下には山号、左下に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
専用納経帳の御朱印も同様の構成ですが、両面タイプで左側には尊格や御詠歌の印刷があります。
〔 関東百八地蔵尊霊場の御朱印 〕
【写真 下(右)】 六角堂
【写真 下(右)】 六角堂正面
【写真 上(左)】 六角堂向拝
【写真 下(右)】 祈念を込めて廻します
【写真 上(左)】 六地蔵尊
【写真 下(右)】 六地蔵尊の御朱印
あまり知られていないようですが、こちらは関東百八地蔵尊霊場33番の札所で、御朱印も授与されています。
本堂向かって右手にある朱塗りの六角堂(地蔵堂)は天明七年竣工の銅板瓦棒葺。堂内に御座す、元禄期、唐金立像の六体の開運地蔵尊(六地蔵尊)が札所本尊で、県指定重文のようです。
この六地蔵尊を左に三回廻して罪障消滅、後生善処を祈念します。
人気のスポットで、いつも参詣客が楽しそうに回し棒を押しています。
お堂の二層には上がれませんが、大日如来が安置されているそうです。
中央に「南無六地蔵尊」の揮毫。
御寶印は蓮華座と火焔宝珠のなかに上段に大きくひとつ、下段に小さく6つの種子が置かれています。
上段の大きな種子はおそらく金剛界大日如来の荘厳体種子(五点具足婆字)「バーンク」と思われます。
下の6つはこの資料からすると、六地蔵を示し、左からふたつはカ(法性)、イ(宝性)、右からふたつはイー(地持)、イ(光昧)を示すと思われますが、揮毫がかかっている中央のふたつは不明です。
(六地蔵の名称や尊容は一定していないといわれ、六道との対応もよくわからない場合があります。)
六角堂(地蔵堂)は、2層に大日如来、1層に六地蔵尊が御座されているので、尊像配置とご寶印が整合しているようにも思われますが、さてさてどうでしょうか。
右上に「関東百八地蔵尊三三番」の札所印。右下に山号、左下には寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
【写真 上(左)】 飯綱大権現
【写真 下(右)】 十二支守り本尊
【写真 上(左)】 龍王弁財天
【写真 下(右)】 めずらしい尊格配置
この他にも、飯綱大権現、十二支守り本尊、龍王弁財天など、ふるくから参詣客を集めた古刹らしいみどころがつづきます。
車であと少し走れば名湯、伊香保温泉。午後に訪れて伊香保泊まりのゆったりとした参詣をおすすめします。
21.伊香保神社
渋川市伊香保町伊香保2
主祭神:大己貴命、少彦名命
式内社(名神大)、上野国三宮 旧社格:県社兼郷社
ようやく、この記事のハイライト、伊香保神社まできました。
伊香保温泉街の石段三百六十五段を昇りきったところに鎮座するこの神社は、式内社(名神大)、上野国三宮、旧県社という高い格式をもつ古社で、すこぶる複雑な由緒来歴を有します。
興味を惹かれたので、御朱印とは関係なく関連する神社も回ってみましたので、こちらも含めてご紹介します。
【写真 上(左)】 伊香保石段街
【写真 下(右)】 参道の階段
神社の創祀由緒をたどる有力な手がかりは境内の由来書です。
まずは、伊香保神社の由来書から要旨を抜粋引用してみます。
・第十一代垂仁天皇朝時代(紀元前二九~七0)の開起と伝えられ、第五十四代仁明天皇朝承和二年(八三五)九月十九日名神大社に。
・延喜五年(九0五)編纂開始の神名帳に記載され、朝廷公認の神社となった。
・上野国は十二宮を定めたが、伊香保神社は一宮貫前神社、二宮赤城神社についで三宮の神社となった。
・明治維新後、あらたに近代社格制度が敷かれ、伊香保神社は県社を賜ることとなった。
【写真 上(左)】 社号標
【写真 下(右)】 神楽殿
また、比較的信憑性の高い資料として所在市町村資料がありますが、当社所在の渋川市のWebにも記載があります。
いささか長いですが、興味ある内容を含んでいるので以下に引用します。
「(前略)延喜式内社です。「伊香保」の地名は古く、『万葉集』の東歌にも詠まれています。「厳つ峰」(いかつほ)とか「雷の峰」(いかつちのほ)に由来し、榛名山、とくに水沢山を指す古名だったと言われています。伊香保神社ももとは、水沢山を信仰の対象としたもので、別の場所にあったようです。
平安時代の記録では承和6年(839)に従五位下、元慶4年(880)には従四位上、長元3年(1030)ころに正一位に叙せられ、やがて上野国三宮となります。その後は衰微しますが、いつしか伊香保の源泉近くへ移り、温泉の守護神となったようです。
現在の祭神は、温泉・医療の神である大己貴命・少彦名命であり、湯元近くに移ってから後の祭神と思われます。(以下略)」
【写真 上(左)】 伊香保神社拝殿(2003年)
【写真 下(右)】 拝殿扁額
市町村資料としてはかなりナゾめいた内容ですが(笑)、以下の内容が読みとれます。
1.(延喜式内社)名神大社、上野国三宮、旧県社という社格の高い神社であること。
2.もともと水沢山を信仰の対象とし、別の場所にあった可能性があること。
3.伊香保の湯元のそば(現社地)に移られる前は別の祭神であった可能性があること。
【写真 上(左)】 社号の提灯
【写真 下(右)】 境内社
これとは別に「明治維新前には湯前神社(明神)と称していましたが、明治6年、旧号の伊香保神社と改称」という情報も得られました。併せて、「伊香保温泉にはそれ以前から薬師堂(温泉明神)が祀られていたが、伊香保神社の勧請後はその本地仏(薬師如来)とみなされるようになった。」という説もあり、これは上記2や3の内容と整合するものです。(詳細後述)
なお、群馬郡三十三観音霊場第4番の医王寺は、伊香保神社参道階段下から露天風呂に向かう途中の「医王寺薬師堂」のことかと思われます。
【写真 上(左)】 利根川越しの榛名連山
【写真 下(右)】 伊香保薬師堂(医王寺)
さらに、「群馬県群馬郡誌」には下記の記述があります。
「祭神は大己貴命少彦名命にして(略)淳和天皇の御代の創建なり。夫れより仁明天皇の承和二年辛羊九月名神大の社格たり(略)歴代國々の諸神に位階を給ひたれば本社は正一位に昇格す、故に上野國神名帳に正一位伊香保大明神と記載あり。」「明治六年縣社に列し更に二四大邑?の郷社を兼ねたり」
ところで上野国十二宮(社)をたどっていくと、伊香保神社のほかにもう一社、三宮に比定されている神社がみつかります。
吉岡町大久保に鎮座する三宮神社です。
【写真 上(左)】 三宮神社社頭
【写真 下(右)】 三宮神社の社号標と鳥居
三宮神社境内の由来書から抜粋引用します。(句読点は適宜付加。)
・天平勝宝二年(750)の勧請・創祀と伝えられる古名社、また「神道集」に『女体ハ里ヘ下給テ三宮渋河保ニ御座ス、本地ハ十一面也』とあり、伊香保神社の里宮とする説がある。
・彦火々出見命 豊玉姫命 少彦名命の三柱の神を奉斉している。
・三宮と称する所以は三柱の神を祭るためでなく、上野国三之宮であったことによる。
・九条家本延喜式神名帳には上野国三之宮は伊香保大明神とあり、当社はその里宮の中心であったと考えられる。
・古代当地方の人々は榛名山を伊香保山と称し、その山頂を祖霊降臨の地と崇め、麓に遙拝所をつくり里宮とした。
・上野国神名帳には伊香保神が五社記載されてあり、その中心の宮を正一位三宮伊香保大明神と記している。
・当地三宮神社は伊香保神を祭る中心地であったため、三宮の呼称が伝えられたのである。
・神道集所収の上野国三宮伊香保大明神の由来には、伊香保神は男体女体の二神あり男体は伊香保の湯を守護する薬師如来で、女体は里に下り十一面観音となるとある。
・当社は、古来十一面観音像を御神体として奉安してきたのである。
【写真 上(左)】 三宮神社拝殿
【写真 下(右)】 三宮神社拝殿の扁額
なお、本地垂迹資料便覧様の「伊香保神社」には、伊香保大明神は南体・女体が御在し、男体(湯前)は伊香保の湯を守護され本地は薬師如来、女体(里下)は里へ下られ三宮神社に御在し本地は十一面観世音菩薩とあります。
渋川市有馬に鎮座する若伊香保神社も伊香保神社との関連が指摘されています。
【写真 上(左)】 若伊香保神社の社号標
【写真 下(右)】 若伊香保神社拝殿
社頭の石碑はうかつにも現地で記録し忘れましたが、Web上で見つかるのでこちらの内容を抜粋引用させていただきます。
・有馬の地の産土神は、大名牟遅命、少彦名命を併せ祀る若伊香保神社である。
・貞観五年それまでは正六位であった神格から、従五位下を授けられたことが「三代実録」に明らかである。
・中世には、「上野国五の宮」と証され、県下神社中の第五位に置かれ、惣社明神相殿十柱の一となり正一位を与えられた。
若伊香保大明神の本地は千手観世音菩薩とされ、これは各種の資料で一貫しています。
【写真 上(左)】 若伊香保神社拝殿の扁額
【写真 下(右)】 満行山泰叟寺
「水沢寺之縁起」には、「高光中将并びに北の方は伊香保大明神男躰女躰の両神なり」「夫れ高光中将殿は男躰伊香保大明神、御本地は薬師如来、別当は医王寺」とあります。
「北の方」とは高貴な方の奥方(正妻)をさすので、高光中将は男体伊香保大明神、「北の方」である伊香保姫は女体伊香保大明神ということになります。
また、「水沢寺之縁起」には「姫御前は推古帝崩御の後当国に下着し、弱伊香保明神と顕現はる」とあり、神道集と同様、高光中将と伊香保姫の息女(姫御前)は弱伊香保明神(若伊香保大明神)であることを示唆しています。
(以上、本地垂迹資料便覧様の「伊香保神社」からの引用による。)
神道集「第四十一 上野国第三宮伊香保大明神事」には、「中将殿の姫君は帝が崩御された後に国に下り、若伊香保大明神として顕れた。」とあります。
文脈からすると、中将殿は伊香保姫(伊香保大明神)の夫である高光中将であり、「中将殿の姫君」は、すなわち伊香保姫の御息女にあたることになります。
(『神道集』の神々様「第四十一 上野国第三宮伊香保大明神事」から引用。)
「若宮」「若」とはふつう本宮の祭神の子(御子神)を祀った神社をさしますから、御息女である姫御前を祀った神社の社名に「若」がついているのは、うなづけるところでしょうか。
なお、「尾崎喜左雄の説によると、伊香保神社は古くは阿利真公(有馬君)によって有馬の地に祀られており、後に三宮の地に遷座した。これが伊香保神社の里宮(現在の三宮神社)となり、有馬の元社は若伊香保神社と呼ばれるようになった。その後、伊香保温泉の湯前の守護神として分社が勧請され、現在の伊香保神社となった。伊香保温泉にはそれ以前から薬師堂(温泉明神)が祀られていたが、伊香保神社の勧請後はその本地仏とみなされるようになったと考えられる。」(参考文献 尾崎喜左雄「伊香保神社の研究」、『上野国の信仰と文化』所収、尾崎先生著書刊行会、1970)という貴重な情報があります。
→ 情報元・『神道集』の神々様「第四十一 上野国第三宮伊香保大明神事」
また、いくつかの資料で「伊香保神社は元々当地に鎮座したとされ、同社が上野国国府近くの三宮神社(北群馬郡吉岡町大久保)に遷座した際、旧社地に祀られたのが若伊香保神社」という説が紹介されています。
〔二ッ岳噴火との関係〕
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神道集の第四十一上野国第三宮伊香保大明神事には、伊香保神社の創祀伝承が描かれています。
前段は「20.五徳山 無量寿院 水澤寺」で引用しましたが、後段にはつぎのような不思議な記述があります。
「人皇四十九代光仁天皇の御代、上野国司の柏階大将知隆は伊香保山で七日間の巻狩を行って山と沼を荒らした。 沼の深さを測ろうとすると、夜の内に小山が出現したので、国司は上奏のために里に下った。 その後、沼は小山の西に移動し、元の沼地は野原になった。 国司は里に下る途中、一頭の鹿を水沢寺の本堂に追い込んで射殺した。 寺の僧たちは殺された鹿を奪い取って埋葬し、国司たちを追い出した。 怒った国司は寺に火をつけて焼き払った。 別当恵美僧正は上京して委細を帝に奏聞した。 帝は国司を佐渡島に流すよう検非違使に命じた。」「伊香保大明神は山の神たちを呼び集めて石楼を造った。 国司が蹴鞠をしていると、伊香保山から黒雲が立ち上り、一陣の旋風が吹き下ろした。 国司と目代は旋風にさらわれて石楼に閉じ込められ、今も焦熱地獄の苦しみを受けている。 山の神たちが石楼を造った山が石楼山である。 この山の北麓の北谷沢には冷水が流れていたが、石楼山が出来てから熱湯が流れるようになり、これを見た人は涌嶺と呼んだ。」
(『神道集』の神々様「第四十一 上野国第三宮伊香保大明神事」から引用。)
まとめると、
1.光仁天皇の御代(宝亀元年(770年)~天応元年(781年))、伊香保山に一夜にして小山が出現し、山中にある沼が西に移動して元の沼地は野原となった。
2.伊香保大明神は山の神たちを呼び集めて石楼を造った。伊香保山から黒雲が立ち上り、一陣の旋風が吹き下ろした。 国司と目代は旋風にさらわれて石楼に閉じ込められ、今も焦熱地獄の苦しみを受けている。
3.山の神たちが石楼を造った山が石楼山で、この山の北麓の北谷沢には冷水が流れていたが、石楼山が出来てから熱湯が流れるようになり、これを見た人は涌嶺と呼んだ。
1.からは地殻変動、2.からは火山の噴火、3.からは温泉湧出が連想されます。
伊香保温泉には、古墳時代の第十一代垂仁天皇の御代に開かれたという説と、天平時代の僧、行基(668-749年)によって発見されたというふたつの湯縁起が伝わります。(〔 温泉地巡り 〕 伊香保温泉(本ブログ)を参照)
行基伝説をとると、3.と伊香保温泉の開湯は時期的にほぼ符合します。
伊香保温泉の熱源は、6世紀に活動した二ッ岳の火山活動の余熱と考えられています。
伊香保の二ッ岳は、5世紀に火山活動を再開し6世紀中頃までに3回の噴火が発生、うち489~498年に渋川噴火、525~550年にかけて伊香保噴火というふたつの大規模噴火を起こしたことがわかっています。(気象庁「関東・中部地方の活火山 榛名山」より)
神道集の上記2.は光仁天皇の御代(770年~781年)のできごととされているので、二ッ岳の噴火と時代が合いませんが、この噴火を後世で記録したもの、という説があります。
「やぐひろネット・歴史解明のための考古学」様では、この点について詳細かつ綿密な考証をされています。(同Webの関連記事)
また、論文「6世紀における榛名火山の2回の噴火とそ の災害」(1989年早田 勉氏)によると、これら複数の噴火は、伊香保神社、三宮神社、若伊香保神社などが鎮座する榛名山東麓、北麓にかけて甚大な被害をもたらしたことがわかります。
これらの噴火が忘れてはならないできごととして語り継がれ、神道集に繋がったという見方もできるかもしれません。
神道集はかなりスペクタクルな展開で一見荒唐無稽な感じも受けますが、意外と史実を伝えているのかも・・・。
あまりに逸話が多いのでとりとめがなくなってきましたが(笑)、無理矢理とりまとめると、
1.伊香保神社のかつての祭神は伊香保大明神(高野辺大将の三番目の姫君)。
2.伊香保大明神には男体・女体があり、男体は伊香保神社、女体は三宮神社(吉岡町大久保)に鎮座される。
3.伊香保大明神男体(湯前・伊香保神社)は高光中将が顕れ、伊香保大明神女体(里下・三宮神社)は伊香保姫が顕れた。
4.伊香保大明神男体(高光中将)と伊香保大明神女体(伊香保姫)の御息女は若伊香保大明神(渋川・有馬の若伊香保神社)として顕れた。
5.三宮神社は、伊香保神社の里宮とする説がある
6.伊香保神社はもともと若伊香保神社の社地に鎮座し、同社が三宮神社に遷座した際、旧社地に祀られたのが若伊香保神社という説がある。
7.伊香保の湯前神社はもともと薬師堂(温泉明神)で、伊香保神社の遷座?にともない習合して本地薬師如来となったという説がある。
8.伊香保大明神の創祀は、5世紀の渋川噴火、6世紀の伊香保噴火とかかわりをもつという説がある。
無理矢理とりまとめても(笑)、やはりぜんぜんまとめきれません。
というかナゾは深まるばかりです。
伊香保はお気に入りの温泉地なので、時間をかけてナゾを解きほぐしていければと考えています。
〔 御朱印 〕
これほどの古名社でありながら、現在伊香保神社には神職は常駐されておりません。(最近は、週末は社務所で授与いただけます。)
わたしは以前、参道階段下の饅頭屋さんで書置のものをいただきましたが、最近は平日でも拝殿前に書置が置かれているという情報もあります。
また、渋川八幡宮でも神職がいらっしゃれば書入れの御朱印を拝受できます。(現況は不明)
土日祝に社務所で授与される鶴亀の御朱印
【写真 上(左)】 書置の御朱印(参道階段横饅頭屋さんにて)
【写真 下(右)】 書入れの御朱印(渋川八幡宮にて)
書置き、書入れともに中央に神社印、中央に「伊香保神社」の揮毫があります。
なお、三宮神社、若伊香保神社ともに無住で、御朱印の授与については確認できておりません。
また、若伊香保神社のとなりに、いかにも別当寺然としてある曹洞宗の満行山泰叟寺も参拝しましたが、御朱印は非授与とのことでした。
→ ■ 伊香保温泉周辺の御朱印-4(中編B)へ
※ 渋川スカイランドそばに令和元年建立された関東石鎚神社でも御朱印を授与されています。
■ 伊香保温泉周辺の御朱印-1(前編A)
■ 伊香保温泉周辺の御朱印-2(前編B)
■ 伊香保温泉周辺の御朱印-3(中編A)
■ 伊香保温泉周辺の御朱印-4(中編B)
■ 伊香保温泉周辺の御朱印-5(後編A)
■ 伊香保温泉周辺の御朱印-6(後編B)
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