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■ 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-5

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で出てくる寺院もけっこうあるので、こちらも「鎌倉殿の13人」と御朱印「鎌倉市の御朱印」と併行してUPしていきます。

新型コロナウイルス感染拡大警戒中です。また、令和3年7月伊豆山土砂災害等の影響も懸念され、寺社様によっては御朱印授与を中止されている可能性があります。ご留意をお願いします。

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伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-1
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-2
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-3
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-4から。
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-5
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-6


〔 参考文献 〕
『こころの旅』は、『伊豆八十八ヶ所霊場 こころの旅』(㈱ピーシードクター 刊)
『霊場めぐり』は、『伊豆八十八ヶ所霊場 霊場めぐり』(伊豆観光霊跡振興会 刊)
を示します。


■ (新?)第35番 天城山 慈眼院(じげんいん)
公式Web
伊豆88遍路の紹介ページ
賀茂郡河津町梨本28-1
曹洞宗
御本尊:聖観世音菩薩
札所本尊:聖観世音菩薩
他札所:-
授与所:温泉施設「禅の湯」内

※今回、この記事を書くために調べたところ、どうやら第35番は栖足寺から慈眼院に変更されたようです。
慈眼院は参拝し御朱印を拝受していますのでUPします。


伊豆88遍路の紹介ページには「安政4年(1857年)初代駐日総領事タウンゼント・ハリスが、日米修好通商条約締結のため江戸へ赴く途中で一泊したお寺。ハリスが使用した曲録(椅子)が残っています。」とありますが、情報の少ないお寺さまです。

『豆州志稿』に「梨本村 曹洞宗 逆川普門院末 本尊観世音 舊真言宗慈眼庵ト称シテ天城山中ニ在リキ 慶安(1648-1652年)中此地ニ移シ 普門院雲國和尚ヲ開山祖トス 是時ヨリ院号ト為ス」とありますので、少なくとも江戸時代には創立しているようです。

伊豆山中に真言宗の庵として草創、慶安(1648-1652年)年間に現在地に遷り普門院雲國和尚を開山祖として庵を院に改めています。

「寺社Nowオンライン」の記事によると、もともと檀家がすくなく寺院経営がきびしかったため、境内にユースホステルを起業、温泉を掘削して温泉施設「禅の湯」としてリニューアルオープンしたとのこと。

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国道414号天城街道が天城峠から七滝ループ橋を経て下ってきたところ、温泉地としても知られる梨本エリアにあります。
国道に面し、お寺というより温泉施設「禅の湯」が前面に出ています。


【写真 上(左)】 サイン
【写真 下(右)】 山門


【写真 上(左)】 寺号標
【写真 下(右)】 石仏群

国道に面した山門は切妻屋根銅板葺の四脚門。
正面の本堂は寄棟造桟瓦葺で大棟に「慈眼院」の院号を掲げています。
向拝柱はなく、向拝扉と両側に花頭窓。
本堂内は禅刹らしいすっきりとしたつくりで、正面見上げに山号扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂


【写真 上(左)】 本堂内
【写真 下(右)】 龍の天井絵

御朱印は「禅の湯」のフロントで授与されています。
御朱印は御本尊・聖観世音菩薩、弘法大師、ほうそうばあさん、龍(両面)の4種類。
いずれも御朱印帳への印判でした。
非札所の曹洞宗寺院で弘法大師の御朱印はめずらしいですが、こちらはもともと真言宗でお大師さまとゆかりがあるとの由。
このたびの伊豆八十八ヶ所霊場への参画で、ゆかりがより深まったとみるべきでしょうか。

龍の御朱印は、本堂の豪快な天井絵にちなむもの。
「ほうそうばあさん」は、疱瘡神(疱瘡を患うことがないよう祈念する神様)です。


【写真 上(左)】 御本尊・聖観世音菩薩の御朱印
【写真 下(右)】 弘法大師の御朱印


■ ほうそうばあさんの御朱印


■ 龍の御朱印

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こちらは、以前に日帰り入浴していますが、横着なのでまだレポをあげていません (~~;
近いうちにUPしたいと思います。

こちらは自家源泉で、平成17年春に温泉分析しています。
源泉名は梨本17号、泉温47.0℃、pH=9.0(アルカリ性泉)、湧出量169L/min、成分総計=1.383g/kgのカルシウム・ナトリウム-硫酸塩温泉。
なかなかの良泉を非加水・非加温・非消毒でかけ流し利用しています。

「禅の湯」はロハス系のあかるいイメージの宿泊施設で、日帰り入浴も受け付けています。
座禅やリトリート体験もできるようです。


■ 第36番 長運山 乗安寺(じょうあんじ)
河津町観光協会
伊豆88遍路の紹介ページ
河津町谷津413
日蓮宗
御本尊:十界曼荼羅
札所本尊:
他札所:-
授与所:庫裡

伊豆半島には、中伊豆、伊東などを中心に日蓮宗寺院がかなりありますが、伊豆八十八ヶ所霊場は禅刹がメインで日蓮宗の札所は1ヶ所しかありません。
こちらはその貴重な日蓮宗の札所寺院です。

『こころの旅』『霊場めぐり』によると、慶長年間(1596-1615年)縄地金山採掘の際、縄地に身延山久遠寺廿二世日遠上人を開山に創立、のちに現在地に移されたといいます。

開山日遠上人が法輪のため駿府城に赴いた際、家康公の怒りにふれ安倍川の河原で斬罪に処せられるところ、側室お万の方が上人を自らの女駕籠に乗せてこの地へ逃したという伝承があります。
当山には、そのときの女乗物駕籠が保存されています。

この事件のいきさつについては、Wikipediaの「養珠院」のページにまとめられているので、以下に引用させていただきます。

-----------------------(引用はじめ)
(養珠院(お万の方)の)義父の蔭山家は代々日蓮宗を信仰しており、万もその影響を受けて日遠に帰依した。家康は浄土宗であり、日頃から宗論を挑む日遠を不快に思っていたため、慶長13年(1608年)11月15日、江戸城での問答の直前に日蓮宗側の論者を家臣に襲わせた結果、日蓮宗側は半死半生の状態となり、浄土宗側を勝利させた。この不法な家康のやり方に怒った日遠は身延山法主を辞し、家康が禁止した宗論を上申した。これに激怒した家康は、日遠を捕まえて駿府の安倍川原で磔にしようとしたため、万は家康に日遠の助命嘆願をするが、家康は聞き入れなかった。すると万は「師の日遠が死ぬ時は自分も死ぬ」と、日遠と自分の2枚の死に衣を縫う。これには家康も驚いて日遠を放免した
-----------------------(引用おわり)

家康公は日蓮宗に対して総じて厳しい態度をとり、幾度も関係者に対論させたといわれています。
この事件も上記のとおり宗論が絡んでいるといわれますが、かなりデリケートな内容も含むのでここではこれ以上とりあげません。

いずれにしても、身延山久遠寺廿二世日遠上人の開山という由緒ある日蓮宗寺院であることはまちがいなさそうです。
上記のとおりお万の方は熱心な日蓮宗の信者で、三島の日蓮宗の名刹、経王山 妙法華寺ともふかいゆかりをもちます。

『豆州志稿』には「谷津村 日蓮宗 甲州身延山久遠寺末 本尊十界曼荼羅 慶長中(1596-1615年)創立 久遠寺廿二世日遠ヲ開山トス(中略)縄地ニ黄金出シ時(慶長中金鉱開掘)新ニ建タテルカ事罷テ此ニ移ス」とあります。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 御題目碑

河津川が河津浜に注ぐ河口そばの右岸にあります。
「河津の足湯処・ほっとステーション」のちょうど山側です。

山内入口に御題目碑と「元祖日蓮大士」の石碑。
そのすぐ先に山を背負って本堂。
右手の山腹に朱塗りのお堂がありますが、何のお堂かきき忘れました。


【写真 上(左)】 朱塗りのお堂
【写真 下(右)】 本堂

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2015年落慶の真新しい本堂は、寄棟造銅板葺で向拝柱のないシンプルなつくり。
向拝サッシュ扉のうえに寺号扁額を掲げています。
庫裡にお声掛けすると本堂を開けていただけ、本堂内にも寺号扁額が懸けられていました。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 向拝扁額

「こころの旅」を読んだうえで参拝しているので、当然「女乗物駕籠」の認識はあったはずですが、このときはなぜか「女乗物駕籠」の一部しか撮影しておりません。


【写真 上(左)】 堂内扁額
【写真 下(右)】 女駕籠(一部)

別のものを撮った写真に「女乗物駕籠」の説明書きも写っていました。
写角が悪く不明瞭ですが、読み取れる範囲で書き起こしてみます。
「徳川家康の側室、お万の方(養珠院)は生涯の師と仰ぐ日遠上人を『駿府の法難』からお救い致しました。そして処刑は免れたものの他宗の迫害を恐れたお万の方は上人ゆかりの地、河津へ愛用の『女駕籠』を使い乗安寺へかくまわれました。」

本堂設備工事の施工企業「㈱宮崎商会」様のWebに「お万の方の駕籠がある乗安寺本堂改築完成!!」という記事があり、改装前の本堂、「女駕籠」や新本堂の落慶法要などの写真がばっちり載っていますのでそちらをご覧ください。

この記事にはお万の方と河津とのゆかりを示す貴重な情報も載っていますので、以下に引用させていただきます。
-----------------------(引用はじめ)
「お万の方は天正3年(1575年)、上総勝浦城(千葉県勝浦市)の城主正木時忠の五男頼忠を実父に、北条氏隆の娘である智光院を母に、小田原に生まれている。その後すぐ、時忠が亡くなり、頼忠が後を継ぐため妻子を残し勝浦城に戻った。智光院は伊豆河津郷に移り、北条家臣の河津城主の蔭山長門守氏広と再婚、お万の方はこの養父蔭山氏広に育てられている。天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐により北条氏が滅び、その後慶長3年(1598年)父である氏広が死去、この頃から深く仏門に帰依し、日蓮宗、身延山の上人を信ずるようになる。その後徳川家康の側室となった。」
-----------------------(引用おわり)

この記事によると、お万の方の母・智光院は北条家臣の河津城主・蔭山長門守氏広と再婚し、お万の方は養父蔭山氏広に育てられたとの由。
とすると、お万の方は河津の地で育ったことになり、仏法の師、日遠上人の危機に際して第二の故郷の河津にかくまわれた、というのはわかりやすい流れです。

御首題は、たしか本堂向かって左手の庫裡にていただきました。
御首題帳にいただきましたが、御朱印帳でも拝受できるかは不明です。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 御首題

 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御首題帳


■ 第37番 玉田山 地福院(じふくいん)
伊豆88遍路の紹介ページ
河津町縄地430
曹洞宗
御本尊:大日如来
札所本尊:大日如来
他札所:-
授与所:第38番禅福寺庫裡

平安時代の創立ともいわれ、かつては玉田山金生院という真言宗寺院でしたが、慶長五年(1600年)に曹洞宗に改め再興。
縄地金山が栄えた際に、近隣に創立された9つの寺院のうちの一ヶ寺で、金山衰退後に他の8つの寺院は移転ないし廃寺となりましたが、地福院だけはこの地に残ったとの由。

『豆州志稿』には「縄地村 曹洞宗 武州金澤禅林寺末 本尊大日 初真言ニシテ金生院と称ス 後中絶ス 慶長五年(1600年)禅林寺二世天随再興改宗シテ地福院ト号ス」とあります。

せっかくなので縄地金山について調べてみようと思いましたが、廃墟系・探索系サイトはたくさんヒットするものの、公的な資料がほとんどみつかりません。
関心を惹きやすい閉鉱金山で、現在、民間所有なので自治体としてもとり上げにくいようです。

静岡県立中央図書館のWeb開示資料がヒットしたので抜粋引用します。
「縄地金山(河津町)は1598年(慶長三年)から採掘が始まったとされる。『佐渡年代記』1601年(同六年)大久保長安が伊豆・石見・佐渡銀山の支配を命じられたことが記され、1606年(同十一年)、伊豆金山奉行となったことから最盛を極めた。(中略)大久保長安は1607年(同十二年)に河津町の縄地神社に鰐口を奉納して(中略)鉱山の隆盛と安全を祈願した。」

また、『霊場めぐり』にも関連記事がありました。出典は『伊豆伝説集』からとみられ、貴重な内容なので抜粋引用します。
「縄地は南伊豆第一の金山であった。慶長十年(1605年)大久保岩見守長安が金山奉行として此地に来て採掘を続けた。最盛期には戸数8,000を算した。劇場もあり、相撲場もあり、遊女御免。長安は金山奉行として巨万を積んだ。その不正贓罪は死後にあばかれ、一族は処刑され、不正に連座した坑夫は磔刑に処せられた。岩見守の邸跡は寺坂にある。縄地の子安神社、山神社に長安奉納の金の鍔が残っていた。最大なのは重さ約7貫匁(26kg)黄金を含んでいて、音響が極めてよかったといわれたが、賊に奪われて今はない。」

伊豆の金山について、『伊豆志稿』には「黄金 白銀 天正●●頃ヨリ土肥村 黄金初メテ出テ 湯ガ島 縄地 瓜生野 修善寺等相継デホリ出シ 夥シキ●● 就中縄地ヨリ出シハ又特ニ多シ 大抵五十余年ニテ止ム 慶長十年(1610年)ノ頃ヨリ盛ニ出テ其ノ数大形佐渡ヨリ出ルガ如● 程ナク出ル●多カラズ トルノヲ止メラルト」とあり、伊豆の金山、ことに縄地は慶長の頃には佐渡にも劣らないほどの産金があったものの、ほどなく産金量が激減したことが記されています。

一時期とはいえこれだけ栄え、過酷な鉱山労働もあいまって村内に9つもの寺院が成立したのかも。
『豆州志稿』には縄地村からの移転寺院として(廃)金生山富来寺、(廃)栄寶院(当山派)、西光寺などがみられ、第36番乗安寺、第41番海善寺も縄地からの移転とあるので旧・縄地九箇寺かもしれません。

なお、大久保長安は数奇な運命をたどった武将で、逸話が山ほどあるので興味のある方は→こちら(Wikipedia)をご覧くださいませ。

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【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 札所標

国道135号線、縄地トンネルのすぐ西から北へ向かう細い道を上がったところ。
石垣が積まれた参道。本堂手前に伊豆八十八ヶ所の札所標。


【写真 上(左)】 本堂-1
【写真 下(右)】 本堂-2

正面の本堂は、寄棟造桟瓦葺流れ向拝。向かって右手に庫裡らしき建物がせり出し、ちょっと面白い構成です。

水引虹梁は木鼻の抜けがなく、身舎側の繋ぎ虹梁と併せて向拝上にスクエアを構成。
向拝正面サッシュ扉のうえに院号扁額が掲げられています。

 
【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額

山内掲示によると、御本尊の金剛界大日如来像は銅製で室町時代後期以降。
吉祥天女像は桧一本造りで平安中期。こちらはかつて縄地尾ヶ崎の小堂に薬師如来として祀られていたお像とのこと。

こちらは無住で、御朱印は第38番禅福寺でいただきました。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 大日如来

 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳


■ 第38番 興國山 禅福寺(ぜんぷくじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
下田市白浜351
曹洞宗
御本尊:釈迦如来
札所本尊:釈迦如来
司元別当:伊古奈比咩命神社・白濱神社(下田市白浜)
他札所:-
授与所:庫裡

ここから巡路は下田市内に入ります。
下田は東・西廻海運の風待ち湊として栄え、江戸時代初期には天領となり下田奉行ないし浦賀奉行所支配下にあって独自の文化圏を築いたところです。

下田に陸路で入るルートは中伊豆からの天城越えがメインで、東海岸ルートは相当の難路であったと思われます。
これだけの観光資源をもちながら、伊豆急が下田まで開通したのはなんと昭和36年(1961年)。

東伊豆海岸沿いを走る国道135号も当初は険しい海沿いを走ることができずに山側をたどり、のちに海側につけられた国道は災害等で廃道になっている箇所があります。
この海岸の異様な険しさについては、ヨッキれん氏の壮絶なレポで実感してみてください。

江戸時代の東伊豆の陸路はかように難路で、域外、ことに江戸方面へのメインルートは海路でした。
じっさい下田市のWeb資料「下田の歴史年表」の多くは、水軍、船改め番所、御台場など海運施設の記述に費やされています。

なお、伊豆の海運については「海の東海道」((社)静岡県建築士会)というよくまとまったWeb記事があります。

陸路が厳しく海上交通が盛んであれば、その土地は海運関係者で繁昌し、南伊豆の物産の集散地となった筈です。
その繁栄ぶりは、「下田節」(下田市Web資料)の「伊豆の下田に長居はおよし、縞の財布が軽くなる」からも容易に想像できます。

■ 下田節(静岡県民謡)~峰村利子


伊豆八十八ヶ所の札所が、いまでは交通便利な東伊豆に少なく、南伊豆に集中しているのは不思議な感じもしますが、背景にはこのような事情があったかもしれません。

禅福寺について、『豆州志稿』には「白濱村 曹洞宗 相州田原香雲寺末 本尊釋迦 昔禅教庵ト云 寛永中(1624-1644年)大室和尚寺号ト為ス」とあります。
(山号が「奥谷山」となっています。)

当初は観世音菩薩を奉安する真言宗の小庵で、貞和年間(1345-1350年)以来衰えましたが、 永正(1504-1521年)のころ相州香雲寺開山の霊叟禅師が入られて曹洞宗となり「禅居庵(または禅教院)」と号し、元和八年(1622年)に香雲寺9世宗樹ないし、寛永中(1624-1644年)に大室和尚が伽藍を整え「禅福寺」と号を改めたと伝わります。

禅福寺は、かつて伊豆最古の神社とされる伊古奈比咩命神社(白濱神社)の別当をつとめたともいわれます。

名社、伊古奈比咩命神社について書き始めると膨大な量になりそうなので、以前温泉レポ「下賀茂温泉 「伊古奈」【閉館】」でまとめた文章をそのまま持ってきます。

白濱(浜)神社は正式名を伊古奈比咩命神社といい、公式Webによると、御祭神は伊古奈比咩命、三嶋大明神、見目、若宮、剣の御子の5柱です。

当社の御由緒には「三嶋大明神は、その昔遥か南方より黒潮に乗り、この伊豆に到着されました。(中略)伊豆の南に定住していた賀茂族の姫神(伊古奈比咩命)様を后として迎え、白浜という所に宮を造り住まわれました。」とあります。

また、御祭神の説明には以下のとおりあります。
「主神 伊古奈比咩命(いこなひめのみこと) 女性神 三嶋大明神の最愛の后神で縁結びと子育ての神様です。」
「相殿 三嶋大明神 男性神 事代主命(ことしろぬしのみこと)であると言われています。大国主命の御子神様にあたり、大国主命を大国(だいこく)さんを呼ぶのに対して、事代主命は恵比寿さんと呼ばれています。商業と漁業の神様です。」 

御鎮座は六代孝安天皇元年(約2400年前)と伝わり、『日本後紀 巻下(六国史.巻6)』(国立国会図書館DC)の淳和天皇天長九年(832年)5月22日の條に「伊豆國言上、三島神、伊古奈比咩神、二前預名神」とあります。

公式Webには「御土御門天皇文亀元年(1501年)には、三島神、伊古奈比咩神共、正一位という高い位を受けています。そして延喜式には三島神社、伊古奈比咩命神社が、二社共この白浜に鎮座していた事が書かれていて、その社格は三島神社が官幣大社、伊古奈比咩命神社が国幣大社となっています。」とあります。

以上より、伊古奈比咩命神社(白濱神社)が伊豆有数の古い歴史をもち、高い社格をもたれることがわかります。


【写真 上(左)】 白濱神社(伊古奈比咩命神社)
【写真 下(右)】 白濱神社(伊古奈比咩命神社)の御朱印

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【写真 上(左)】 参道の石段
【写真 下(右)】 門柱

白浜漁港の山側、路地奥に階段参道。
門柱のむこう正面が本堂で、入母屋造銅板葺流れ向拝。向拝部に端正な軒唐破風を起こしています。


【写真 上(左)】 六地蔵
【写真 下(右)】 本堂


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額

水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に蟇股の構成ですが、全体にすっきりとしたイメージ。
向拝正面サッシュ扉のうえに山号扁額を掲げています。

御朱印は本堂向かって右手の庫裡にて、第37番地福院とともに拝受しました。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 釈迦如来

 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳

■ 下賀茂温泉 「伊古奈」【閉館】の入湯レポ


■ 第39番 西向山 観音寺(かんのんじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
下田市須崎615
曹洞宗
御本尊:十一面観世音菩薩
札所本尊:十一面観世音菩薩
他札所:伊豆横道三十三観音霊場第21番、第22番
授与所:庫裡

下田市の南東、須崎半島にあり、運慶作と伝わる十一面観世音菩薩像を御本尊として奉安する禅刹です。

『豆州志稿』には「須崎村 曹洞宗 相州田原香雲寺末 本尊観世音 舊暘谷院トテ真言宗ナリ 寛永(1624-1644年)ノ頃大室和尚宗及寺号ヲ改ム 初同村字川上ニ在リ 大室ノ時現地ニ移ス」とあります。

開創年代は不明。当初は真言宗で須崎川上にあり、暘谷院と号しました。
元和元年(1615年)(寛永年間とも)、相州秦野香雲寺九世・大室宗樹が曹洞宗に改宗し、現寺号に改めました。
延享四年(1747年)、火災に遭い現在地に移転と伝わります。

こちらは伊豆横道三十三観音霊場第21番、第22番の札所を兼ねています。
伊豆横道三十三観音霊場は、伊豆に流されていた源頼朝公と高雄山神護寺の僧・文覚により源氏再興を祈念して開創とされる、すこぶる古い観音霊場です。

発願の西伊豆町の延命寺(滝見観音堂)から松崎、下田、河津と廻り、結願は南伊豆町伊浜の普照寺です。
無住のお堂も多いですが、すべて巡拝でき御朱印も揃います。
筆者は結願していますので、後日あらためてご紹介したいと思います。
(本編でもとりあえず御朱印は掲載します。)

一部で伊豆八十八ヶ所と札所が重複しますが、河津町の札所は重複がないので、順打ちでくるとこちらが初めての重複札所となります
観音寺は第21番。末寺の第22番補陀庵も現在観音寺に遷られているので2札所となります。

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須崎半島は南伊豆でも早くから拓けた地で、須崎港は下田の玄関口のひとつでした。
爪木崎や恵比寿島などの観光地はあるものの、水仙の時季以外は訪れる観光客は少なそうです。
筆者も子供のころから伊豆にはよく行きましたが、須崎半島に足を踏み入れたのは今回が初めてです。


【写真 上(左)】 (たぶん)須崎漁港
【写真 下(右)】 参道入口

観音寺はこの須崎半島の南端、須崎漁港の山側、海抜約15mの高台にあります。
あたりは港町の趣きゆたか。それだけに狭い路地が入り組み車の運転は難儀します。
観音寺の門前まで車道は通じていますが、すこぶる狭く駐車場もないようなので車参拝は要注意。
お寺さまに駐車場所を事前TEL確認がベターかと思います。


【写真 上(左)】 札所標
【写真 下(右)】 山門


【写真 上(左)】 山内からの海
【写真 下(右)】 山内

参道は石段で、石段右手に札所標。その先に切妻屋根桟瓦葺の端正な四脚門を構えています。
山門正面が本堂。寄棟造銅板で、向拝柱のないシンプルな堂容です。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝

本堂向かって右手奥の庫裡で御朱印をお願いすると、本堂にあげていただけました。
五色幕が張り巡らされた本堂内は観音霊場らしい華やぎがあります。


【写真 上(左)】 本堂内
【写真 下(右)】 本堂内扁額

向拝見上げに「圓通閣」の扁額。
御本尊は運慶作と伝わる十一面観世音菩薩像で、伊豆八十八ヶ所と伊豆横道三十三観音霊場第21番の札所本尊ですが秘仏かもしれません。

山内掲示によると、伊豆横道三十三観音霊場第22番の札所本尊は、本堂ご内陣正面向かって右の厨子内に安置される秘仏の聖観世音菩薩像で、市の指定文化財です。
こちらはかつて小白浜の観音山上にあった補陀庵という末寺の御本尊で、そこから遷られたもの。

檜材一本造りの立像で行基作ともいわれますが、市のWeb資料には「平安後期の作と考えられる」とあります。
山内掲示には「平安後期の作とも伝わるが、和様化の進んだ像容から十一世紀頃の作と推定される。」とありました。

本堂御内陣向かって左の厨子内の薬師如来坐像は檜材一本造りで、制作年代は10世紀末から11世紀初頭に遡ると考えられ、こちらも市の指定文化財です。


【写真 上(左)】 石佛群
【写真 下(右)】 庫裡

御朱印は庫裡にて拝受しました。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 十一面観世音菩薩

 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳

〔 伊豆横道三十三観音霊場第21番の御朱印 〕
● 十一面観世音菩薩


〔 伊豆横道三十三観音霊場第22番(補陀庵)の御朱印 〕
● 聖観世音菩薩



■ 第40番 瑞龍山 玉泉寺(ぎょくせんじ)
公式Web
下田市観光ガイド
伊豆88遍路の紹介ページ
下田市柿崎31-6
曹洞宗
御本尊:釈迦如来
札所本尊:釈迦如来
他札所:-
授与所:庫裡

伊豆八十八ヶ所の札所は伊東を過ぎると札所色が強まり、観光客のすがたはまばらですが、こちらは下田の観光名所として人気があります。

寺伝(公式Web、『こころの旅』『霊場めぐり』)によると、もとは真言宗の草庵でしたが、天正のはじめ(1580年代)開山一嶺俊栄大和尚の来錫により曹洞宗に改宗されました。
元禄十二年(1699年)四世心翁三悦和尚のとき、上の山に改築落慶して海上山玉泉禅寺と号し、嘉永元年(1848年)、遺弟二十世翠岩眉毛和尚が現在地に伽藍を整備、山号を瑞龍山に改めたといいます。

嘉永七年(1854年)3月、日米和親条約締結、同年5月の付録13ヶ条締結の際、当寺は米国黒船乗員の休息所・埋葬所に指定されました。

安政三年(1856年)タウンゼンド・ハリス総領事、通訳官ヒュースケンが米艦サン・ハシント号で下田に着任し、同年8月に玉泉寺を日本最初の米国総領事館としました。
境内には星条旗が掲揚され、以来安政六年(1859年)5月江戸麻布の善福寺に移転するまでの2年10ヶ月、幕末開国史のメイン舞台となりました。

また、日露和親条約の交渉の場となり、プチャーチン提督やディアナ号高官の滞在など、開国の歴史を彩る寺歴を有して国の史跡文化財に指定されています。

天皇、皇后両陛下が行幸され、ジミー・カーター米国大統領も訪れてペリー艦隊の将兵墓地をお参りしています。

黒船来航は嘉永六年(1853年)6月、玉泉寺の山内整備は嘉永元年(1848年)なので、黒船来航の数年前に下田の地で伽藍を整えたこのお寺は、期せずして開国の歴史の表舞台に躍り出たことになります。

『豆州志稿』には「柿崎村 曹洞宗 相州田原香雲寺末 本尊釋迦 天正中(1573-1592年)香雲寺七世俊榮創立」と記述は少なく、やはり開国の歴史で語られるお寺なのだと思います。

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【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 山門

下田市柿崎。国道135号線から須崎方面へ入ってすぐ左手の下田湾を見下ろす高台にあり、港一望の立地も総領事館として好都合だったのでしょう。

石段のうえに構える山門は切妻屋根桟瓦葺。大棟と掛瓦の意匠が複雑で存在感があります。


【写真 上(左)】 牛乳の碑
【写真 下(右)】 牛王如来

3年足らずでしたが正式な米国の総領事館であったため、ふつう寺院にはみられない変わった遺跡がのこります。

日本の門戸を世界に開いたハリスの功績を称える「ハリスの石碑」。
日本で初めて牛乳売買が行われた記念として森永乳業が建てた「牛乳の碑」。領事館の料理用に牛が屠殺されたことにちなむ「日本最初の屠殺場跡」など。

山内には屠殺された牛の菩提のため、東京の牛肉商によって「牛王如来」が建立されています。
本堂右手の「ハリス記念館」では領事館時代にハリスが愛用した品々や文書、そして、玉泉寺の復興に尽力した渋沢栄一にかかわる品などが展示されています。

山内には日本で最初の「外人墓地」とされる「ペリー艦隊」乗員、ロシアの「ディアナ」号の乗員などの墓があります。


【写真 上(左)】 ハリス記念館入口
【写真 下(右)】 本堂

本堂は間口(桁行)七間半、奥行き(梁間)七間、総欅造りの寄棟造で銅板葺、軒先にかけてやわらかな照りをもつ上品な造りです。
向拝柱はなく、扁額もかかげていません。
本堂は開放されて御内陣まで拝め、見上げには寺号扁額。


【写真 上(左)】 斜めからの本堂
【写真 下(右)】 向拝


【写真 上(左)】 本堂内
【写真 下(右)】 扁額

『下田市観光ガイド』によると、米国総領事館は本堂に設置されたため、御本尊等の仏像は運び出され、現在ハリスの石碑が建っているあたりに移されていたそうです。

御朱印は授与所にて拝受しました。
授与所前に御朱印が見本が出ているので、慣れない方も拝受しやすいです。
また、こちらは南伊豆では貴重な御朱印帳も頒布されています。

御朱印は伊豆八十八ヶ所(釋迦如来)と「開国史跡 玄波朝天」の二種。
「玄波朝天」とは(異国から)波が押し寄せ朝日が昇る(日本の夜明け)というほどの意味のようです。


【写真 上(左)】 授与案内
【写真 下(右)】 御朱印帳

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 釋迦如来

 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳

〔 「玄波朝天」の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 札所印なし
【写真 下(右)】 札所印あり


■ 第41番 富巖山 天気院 海善寺(かいぜんじ)
公式facebook
下田市観光ガイド
伊豆88遍路の紹介ページ
下田市一丁目14-18
浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
札所本尊:阿弥陀如来
他札所:-
授与所:庫裡

公式facebookによると観応元年(1350年)、河津の縄地村に明蓮社量誉昭善和尚により開創。(当初は真言宗寺院という説もあり)
天正十七年(1589年)賀茂郡本郷村字天気に移り、慶長年中(1596-1615年)に現在地に移ったとあります。

他の資料には観応元年(1350年)僧昭善が真言宗寺院として開創し、その後下田市本郷に移り布根山天気院と号し、天正十七年(1589年)僧量譽によって浄土宗へ改宗、天正十八年(1590年)現在地に移転して富巖山海善寺と号したという記載もみられます。

当山は、戸田忠次が徳川家康公より五千石をもって下田領主として封ぜられた居館の跡とされます。
その後戸田家は関ヶ原の功により加増を受け、三河田原一万石の大名となりました。

文久三年(1863年)12月、攘夷を迫られた十四代将軍家茂公が蒸気船「翔鶴丸」で上洛の途中、西風に阻まれ下田に待避し当寺で越年したという記録が残ります。

『豆州志稿』には「下田町殿小路 浄土宗 東京増上寺末 本尊阿彌陀 初僧照善縄地村ニ創立ス年代不詳 往古縄地ヨリ本郷村ニ移シ 布根山天気院ト云 布根ハ山名天気ハ地名 蓋量譽上人ノ時真言ヲ改宗シテ浄土ト為ル 量譽ハ天正中ニ寂ス 其後又戸田氏ノ館跡ニ 徳川家康此地ニ戸田忠次ヲ封ス 引ク子院四 徳水軒 浄入庵 浄體軒 周印軒 元治元年(1864年)正月 徳川家茂海上上洛ノ時 当寺ヲ旅館トス 庭前ノ松樹ハ其手栽ナリ」とあります。

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【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 山門
   
伊豆急下田駅にもほど近い下田市一丁目。
参道門柱から山門までかなりの距離があり、山門も堂々たる楼門で寺格を感じます。
この山門は江戸時代の建立とのこと。


【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 御名号標


【写真 上(左)】 聖観世音菩薩像
【写真 下(右)】 観音堂?

山内には六地蔵、御名号標、聖観世音菩薩像に「施無畏」の扁額が掛かったお堂。
「施無畏」は観世音菩薩をさすこともあるので観音堂かもしれません。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 扁額

本堂は昭和34年の火災で焼失し、近代建築となっています。
向拝に扁額はありませんでしたが、なぜか寺号扁額の写真があるので、本堂を開けていただいたかもしれません。

御朱印は庫裡にて拝受しました。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 阿彌陀如来

 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳


伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-6へつづく。


【 BGM 】
■ 栞 - 天野月 feat.YURiCa/花たん


■ 私きっとこの恋を永遠にね忘れない - CHIHIRO


■ Cloudyな午後 - 中原めいこ
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