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■ 下賀茂温泉 「伊古奈」 【閉館】

新型コロナ感染拡大により不要不急の外出自粛が要請されていることもあり、閉館・廃業した施設をメインにレポしています。

この施設は2013年頃に閉館した模様です。



下賀茂温泉 「伊古奈」
住 所 :静岡県賀茂郡南伊豆町下賀茂422
電 話 :閉館
時 間 :日帰り入浴不可?(食事付プランのみ?)
料 金 :同上

静岡県南伊豆町下賀茂温泉。
東日本有数の泉温と豊富な湧出量をもつこの温泉地には、かつて「伊古奈」という自家源泉の老舗旅館がありました。

Web情報(観光経済新聞Web)によると、この旅館を経営していた伊古奈観光開発は2008年1月28日、静岡地裁へ民事再生法の適用を申請、その後も営業を継続していましたが、Web情報などによると、2013年頃に閉館となった模様です。

これは2008年12月に宿泊したときのレポで、記録の意味でUPします。

下賀茂温泉の開湯伝承について、「銀の湯会館」前に説明書きがありましたので引用します。
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下賀茂温泉は永禄年間(1558-1570年)に発見され、450年の伝統を持つ由緒ある温泉です。
昔々、足にケガをした一羽のトビが、毎日、青野川に舞い降り、水を浴びに来て、その後、元気になりました。不思議に思った村人が、その場所に行ってみると温泉が湧いていました。これがいわゆる「トビ伝説」で、以来「トビの湯」として村人に親しまれたといわれています。
------------(引用おわり)

Web上で『伊豆下賀茂温泉のケースヒストリー(過去の事例の歴史的検討)』/角 清愛氏(以下*1)、『下賀茂温泉の地熱構造』/鮫島輝彦氏・岩橋徹氏/静岡大学地学研究報告(1970年5月)(以下*2)という貴重な文献がみつかりましたので、上記や手持ちガイド類を参考にまとめてみます。

-------------------------------------( 「 」は *1、” ”は *2より引用 )
下賀茂の金嶽山 慈雲寺の開創縁起には「永禄年間(1558-1569年)に土地の住民が河原の砂礫のなかに湯舟を作り、自然に湧出する温泉に浸かっていた」(下賀茂温泉 新南伊豆風土記)とあるそうです。

慈雲寺は、天保十五年(1844年)以前の開創とされる伊豆八十八ヶ所霊場の第64番札所で、その御詠歌は
『わきかえる 湯つぼの中に影すみて 金のみ嶽に月もとうとき』。
やはり温泉と関係がふかいようです。


【写真 上(左)】 慈雲寺の山門
【写真 下(右)】 慈雲寺の本堂


【写真 上(左)】 慈雲寺の御朱印(伊豆八十八ヶ所霊場第64番)
【写真 下(右)】 慈雲寺の御朱印(伊豆横道三十三観音霊場第27番)

*1に記載の『南中村温泉台帳』(大正10年)には貞享元年(1684年)竣工の源泉も記されていますが、許可年がおおむね大正8年となっていることから、角氏は「竣工が許可より古くなっているものがすなわち、台帳作成時の既存源泉であるとみなしてよい」とされ、その数は22とされています。

『南中村温泉台帳』はすこぶる貴重なデータなので、*1より抜粋引用させていただきます。

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S-1 海軍湯 湯之本708、709-1 深度2.43m 竣工年不明
S-2 湯の本湯 湯之本698-2 深度1.22m 慶応1.8(1865)竣工
S-3 東湯 直田中545、深度2.88m 明治14竣工
S-4 正湯湯 正湯85-2 深度2.06m 明治30.4竣工
S-5 紀伊国屋湯 湯之本702-2 深度1.76m 明治2竣工
S-6 坂の湯 湯之本744-2 深度3.79m 明治17.5竣工
S-8 湯端 下賀茂679-2 深度1.46m 明治18竣工
S-9 遠見一号 下賀茂457-2 深度3.38m 明治8.3竣工
S-11 岳の湯 原374-6 深度49.28m 大正11.12竣工
S-12 第二宝湯 原342-2 深度56.36m 大正9.12竣工
S-13 瑞豊園二号 湯之本708-2 深度3.0m 大正10.5竣工
S-14 瑞豊園一号 湯之本707-1-1 深度2.43m 大正10.5竣工
S-16 瑞豊園三号 直田中540 深度3.33m 大正8.5竣工
S-17 正湯 正湯85-3-2 深度3.35m 大正9.6竣工
S-18 倉の湯 直田中542 深度1.52m 大正11.2竣工
S-20 宮の湯(日詰) 日詰200 深度1.68m 明治7.9竣工
S-21 元湯 遠見435-2 深度29.39m 大正9.8.10竣工
S-22 大湯(九条) 九条159-4 深度5.15m 大正7.4竣工
S-23 宮の湯(小島) 小島84-2 深度4.55m 大正11.3.5竣工
S-24 河原湯 直田中544 深度0.91m 文久2.3(1862)竣工
S-25 大湯(湯之本) 湯之本744 深度0.91m 嘉永5.3(1852)竣工
S-26 大元湯 遠見436 深度0.91m 明治10.8竣工
K-3 加納湯 河原369-2 深度不明 貞享1.3.3(1684)竣工
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〔参考写真〕
河原湯(静岡県立中央図書館デジタルライブラリー)
下賀茂温泉の噴湯(静岡県立中央図書館デジタルライブラリー)
海軍病院泉源付近(静岡県立中央図書館デジタルライブラリー)

角氏は「4源泉はすでに江戸時代に竣工している。河原湯、大湯(湯之本)、加納湯および湯之(の)本湯がそれであるが、前3者は共同浴場であるから」と記され、明治7年竣工の宮の湯(日詰)共同浴場の写真を例示されています。
また、「明治14年竣工の東湯は幸田露伴が好んで来遊」と記されています。
(→ 幸田露伴の碑
~ 風さむく 松にはふけど湯のやまの かひには梅の はやさきにけり ~
幸田露伴

江戸時代、江戸から南伊豆方面へのメインルートは物資が海路、人流は陸路で、旅人は主に下田路(下田街道)を使いました。

三島大社を起点に韮山、大仁、修善寺、湯ヶ島を抜け、天城峠を越えて梨本、さらに小鍋峠を越えて箕作、河内から下田に入ったと伝わります。
この間、長岡、古奈、修善寺、湯ヶ島などの名だたる湯場がありますから、湯治目的ではるばる下賀茂まで足を伸ばす浴客はほとんどいなかったと考えられ、下賀茂温泉は地元住民の共同湯がメインであったとみられます。

大正2年3月に実施された泉源調査には「加納共同湯(71.0℃)、日詰共同湯(79.0℃)、下賀茂共同湯(77.0℃)、正湯温泉(63.0℃)、紀伊国屋湯(73.0℃)および”慈雲寺前”(100℃)の6源泉が記帳され、この頃からすでに、堂々たる高温源泉の湯場であったことがわかります。
また、「旅館5軒、浴客4,030人(大正2年)」と記録されています。

*2には、”往時は、青野川とその支流である南野川の合流点付近の沖積層から自然湧出があり、これを利用する『三条温泉』が栄えた。大正時代から深井戸が西方に堀さくされ、昭和のはじめ頃からは温泉街の中心が西方に移り、近年になって温泉水位が低下したため自然湧泉を利用する浴場はすべて枯渇して使えなくなってしまった。”という記載があります。

下賀茂温泉の泉源開発は、「大正9年(1920年)8月の岩崎吉太郎氏による慈雲寺下の元湯の機械掘削の成功から始まり、昭和16年までには計53の井戸が完成」「元湯は深度29m、エアリフトポンプ汲上げ」とのこと。
この時期の泉源開発は、おもに温室農業用、あるいは製塩用であったとみられています。
(→メロン栽培場の写真(静岡県立中央図書館デジタルライブラリー))

なお、下賀茂ではいまでも源泉を引く温室をみることができます。


【写真 上(左)】 温泉使用の温室
【写真 下(右)】 温室用の源泉表示


【写真 上(左)】 「伊古奈」の名物、特製メロン・ブランデー(館内掲示より)
【写真 下(右)】 下賀茂の泉源

昭和34年から新井掘削がふたたび盛んとなりましたが、角氏は「この第2のブームは、第1のブームが農業需要と関連したのとは異なり、明らかに浴用需要に関係がある。箱根温泉でみられた交通の発達→浴客増加→新源泉開発というパターンが下賀茂にも現われ始めた」と記されています。
-------------------------------------(主引用部 おわり)

伊豆急行線の伊東~伊豆急下田間開業は昭和36年(1961年)なので、下田駅を玄関口とする下賀茂温泉では、これを見越して施設整備が進んだことは容易に想像されます。

現在の泉源の状況ですが、静岡県の『温泉実態調査報告書』(平成31年2月1日現在)によると、南伊豆町の「下賀茂・加納・湊・手石・下流」の総泉源数は106。
うち掘削自噴(利用)は14、掘削自噴(不利用)は5、機械揚湯(利用)は40、機械揚湯(不利用)は36、枯渇2、埋没9で、利用泉源は計54となっています。

泉源は下賀茂集落を中心に東側の日野、西側の加納にかけて、青野川・南野川沿いに東西方向に分布しています。

総湧出・揚湯量は3,782.1L/min。うち自噴利用湧出量計は1,511.1L/min、機械揚湯量計は2,271.0L/min、平均湧出・揚湯量は90.05L/min、平均温度は83.72℃となっています。
平均温度は熱川・北川の92.58℃、片瀬の91.69℃、白田の89.90℃、峰・田中・沢田・逆川の87.55℃には及びませんが、それでも県内屈指の高温泉の温泉地であることがわかります。
東日本ではめずらしい沸騰泉があることでも知られ、資料*2によると青野川と一色川の合流点西方には130℃という超高温の地熱帯があるそうです。


【写真 上(左)】 下賀茂の泉源
【写真 下(右)】 盛大な析出

なお、個別の泉源については「伊豆半島の地熱温泉水理の研究(その1) 下賀茂温泉地域の地熱構造の地球科学的解釈」/野田徹朗氏・阿部喜久男氏(工業技術院地質研究所)/温泉化学(昭和60年4月30日受理)のP.14以下に詳細な一覧表(昭和42年3月採水)が記載されています。

この表によると、泉温100℃で沸騰泉かそれに近い泉源は、K-3加納共同湯、K-4権現第2湯、K-7入山温泉、K-8栄湯、K-13大学湯、K-15埼玉1号、S-41高島鉱泉2号、S-56銀ノ湯の計8泉源を確認できます。
8つの泉源のTSM(蒸発残留物)はいずれも15000mg/Lを超え、高濃度の超高温泉のメッカであることを裏付けています。

〔参考写真〕
往年の下賀茂温泉-1(静岡県立中央図書館デジタルライブラリー)
往年の下賀茂温泉-2(静岡県立中央図書館デジタルライブラリー)

下賀茂温泉はこれまで「伊古奈」「ホテル河内屋」「湯の花足湯」しか入湯していませんが、入手データもあわせて挙げてみます。

■ 南楽 九条湯(下賀茂35号)
Na・Ca-Cl温泉 71.4℃ 182.4L/min pH7.8 総計8.820g/kg

■ 伊古奈 高島鉱泉2号(下賀茂41号)
Na・Ca-Cl温泉 92.4℃、120L/min動力、pH8.1、総計11.34g/kg

■ 銀の湯会館 銀ノ湯(下賀茂56号)
Na・Ca-Cl温泉 99.6℃ 106L/min pH8.3 総計17.49g/kg

■ ホテル河内屋 河内屋湯(下賀茂53号)
Na・Ca-Cl温泉 81.1℃ 91.6L/min pH7.5 総計9.553g/kg

■ 道の駅 湯の花足湯
権現2号(加納4号)、栄湯(加納8号)、日の出湯(加納9号)、玉川湯(加納11号)、埼玉1号(加納15号)、埼玉2号(加納16号)、内藤1号(加納25号)以上7泉の混合泉
Na・Ca-Cl温泉 77.8℃ 総計12.05g/kg

■ かぎや 自家(スペック不明)


【写真 上(左)】 銀の湯会館
【写真 下(右)】 道の駅 湯の花足湯

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下賀茂温泉は温泉街の趣きはうすいものの、南伊豆らしい明るい景色のなかをゆったり流れる青野川沿いに、落ち着いたたたずまいをみせています。


【写真 上(左)】 青野川
【写真 下(右)】 「伊古奈」からの排湯?

青野川と二条川は下賀茂の「銀の湯会館」前で合流し、青野川となって弓ヶ浜に注ぎます。
熱帯植物園下流の「石廊館」から「南楽」にかけての500mほどの青野川沿いに、下賀茂温泉の主だった旅館が集中します。
左岸には「石廊館」と「南楽」、右岸には「伊古奈」と「河内屋」。

「伊古奈」は道の駅「湯の花」のちょうど対岸あたりにありました。
「伊古奈」のすぐ東隣は下賀茂温泉とゆかりのふかい慈雲寺ですから、一等地にあったことがわかります。

伊古奈の経営主体、伊古奈観光開発の設立は昭和12年(1937年)なので、終戦前にはすでに営業を開始していたものとみられます。


【写真 上(左)】 サイン-1
【写真 下(右)】 サイン-2

〔参考写真〕
伊古奈の絵葉書-1(外袋)(静岡県立中央図書館デジタルライブラリー)
伊古奈の絵葉書-2(全景)(静岡県立中央図書館デジタルライブラリー)
伊古奈の絵葉書-3(大浴場)(静岡県立中央図書館デジタルライブラリー)

手元にあるJTB「全国温泉案内」(1992年刊)の下賀茂温泉の宿一覧には、
 ・ホテル伊古奈 料金200~450
 ・南楽 料金250~450
とあり、料金下限が2万円台の宿はこの2軒だけなので、往年は下賀茂温泉屈指の高級宿であったことがわかります。
当然のことながら政府登録国際観光旅館(登録252号)、JTB協定旅館でした。

また、新潮文庫の「全国名湯100選」(1984年刊)の下賀茂温泉の頁でも代表宿として「ホテル伊古奈」がとりあげられているので、やはり下賀茂温泉を代表する宿であったとみられます。
屋号については往年は「伊古奈」「ホテル伊古奈」、閉館前はホテルを外して「伊古奈」と称していました。


【写真 上(左)】 エントランス
【写真 下(右)】 全景(館内掲示より)

木の門柱のおくに鉄平石のアプローチを構え、通路まわりに築山を配してさすがに老舗旅館らしい風格を備えています。
門柱前のサインには「伊古奈 都殿」。「都殿」は食事処なので、宴会・飲食のみで受け入れしていた可能性があります。


【写真 上(左)】 庭園案内
【写真 下(右)】 かけながしの湯宿「伊古奈」

敷地は約2万坪。敷地内に周遊遊歩道をもち一周391m。
八十種にもおよぶ椿の名所で、つつじや紅葉のうつくしさにも定評があったようです。

敷地内に「古代屯倉(みやけ)の跡について」という案内板がありました。
「伊古奈」の由来にも関係する興味深い内容なので、全文引用します。

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 当ホテル伊古奈の敷地は、古くから「ミヤケド」(三宅殿、都殿又は屯倉処)と呼ばれ古代、大和王朝の屯倉跡と見られています。屯倉創設の年代は欽明天皇のころといわれますから、六世紀中頃のことだったのでしょう。
 下賀茂温泉といえば、いまはのんびりした田園風景が、そのたたずまいのすべてですが屯倉創設のころは南伊豆枢要の地として、一切の祭政を掌握していたのです。
 といいますのも、この一帯が古代の製鉄地帯であったからです。
ヤマトタケルという天皇系の豪族が、東征の兵を進める以前に、下賀茂を中心とする南伊豆には、まずオオヤマズミ系のアタ族がはいり、ついでコトシロヌシ系のカモ族がやってきました。
 そして国譲り伝説で知られるコトシロヌシは、この南伊豆でも天皇の軍兵に恭順を示しその功績により一族の神階を高めていきました。当「ミヤケド」を中心に、ホテル前を流れる青野川の上流二.三百メートルの地域は製鉄遺跡を含む一大集落のあったところで、第二日詰遺跡と呼ばれていますが、残念ながら河川改修のため、遺跡保存は不可能となりました。
 また下流に鎮座する加畑賀茂神社はコトシロヌシを祀り、そこから青野川河口にかけての十二艘、手石、湊地区などから古代の製鉄を物語る鉄滓(カナクソ)が発見されています。加畑賀茂神社より、屯倉が青野川上流に設けられたのは、天皇家が南伊豆を征服した最高の豪族とされたからでしょう。
 ちなみに当ホテル伊古奈はコトシロヌシの后神、伊古奈媛(白浜神社祭神)から名付けられました。イコナヒメはカモ族を率いて北進し、埼玉秩父方面にまで産鉄開発の手を伸ばしたと見られています。
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白浜(濱)神社は正式名を伊古奈比咩命神社といい、公式Webによると、御祭神は伊古奈比咩命、三嶋大明神、見目、若宮、剣の御子の5柱です。

当社の御由緒には「三嶋大明神は、その昔遥か南方より黒潮に乗り、この伊豆に到着されました。(中略)伊豆の南に定住していた賀茂族の姫神(伊古奈比咩命)様を后として迎え、白浜という所に宮を造り住まわれました。」とあります。

また、御祭神の説明には以下のとおりあります。
「主神 伊古奈比咩命(いこなひめのみこと) 女性神 三嶋大明神の最愛の后神で縁結びと子育ての神様です。」
「相殿 三嶋大明神 男性神 事代主命(ことしろぬしのみこと)であると言われています。大国主命の御子神様にあたり、大国主命を大国(だいこく)さんを呼ぶのに対して、事代主命は恵比寿さんと呼ばれています。商業と漁業の神様です。」 

御鎮座は六代孝安天皇元年(約2400年前)と伝わり、『日本後紀 巻下(六国史.巻6)』(国立国会図書館DC)の淳和天皇天長九年(832年)5月22日の條に「伊豆國言上、三島神、伊古奈比咩神、二前預名神」とあります。

公式Webには「御土御門天皇文亀元年(1501年)には、三島神、伊古奈比咩神共、正一位という高い位を受けています。そして延喜式には三島神社、伊古奈比咩命神社が、二社共この白浜に鎮座していた事が書かれていて、その社格は三島神社が官幣大社、伊古奈比咩命神社が国幣大社となっています。」とあります。

以上より、白濱神社(伊古奈比咩命神社)が伊豆有数の古い歴史をもち、高い社格をもたれることがわかります。


【写真 上(左)】 白濱神社(伊古奈比咩命神社)
【写真 下(右)】 白濱神社(伊古奈比咩命神社)の御朱印


客室42室、230名収容の和風旅館です。
高低差のある敷地内に施設が点在し、そのあいだを回廊で結ぶ特徴あるつくり。
客室から浴場までは回廊経由で階段もかなりあるので、バリアフリーではありません。


【写真 上(左)】 玄関へのアプローチ(館内掲示より)
【写真 下(右)】 玄関


【写真 上(左)】 回廊-1
【写真 下(右)】 回廊-2

本館1階・2階、別館と、別にプレミアム客室棟の「椿殿」があります。
この日は別館の「志野」に泊まりました。


【写真 上(左)】 ロビー
【写真 下(右)】 館内廊下


【写真 上(左)】 複雑な館内
【写真 下(右)】 休憩スペース

客室は純和風で、さほど広くはないものの老舗旅館ならではの落ちついた風情。
食事は部屋食ではなく、広間での提供でした。
なお、食事については写真が残っておらずメモもありませんが、和風懐石で味や内容は標準的だったかと思います。(逸品だったり、NGの場合はたいていメモに残すので・・・。)


【写真 上(左)】 客室
【写真 下(右)】 回廊と泉源

夕食前に庭園の散策に出てみました。
主庭を回廊で囲むようなつくりで、主庭に泉源とふたつの湯畑があります。


【写真 上(左)】 上方からの泉源
【写真 下(右)】 泉源付近


【写真 上(左)】 温泉櫓
【写真 下(右)】 泉源

湯畑の説明書きには、銅パイプを仕込み冷水を通水している湯畑に90℃の源泉を注ぎ、加水なしで湯温を下げていること、熱交換で温度の上がった水を浴場のシャワーに有効利用していることなどが記されています。


【写真 上(左)】 第一湯畑
【写真 下(右)】 第二湯畑

館内掲示によると泉温は92℃。浴場の湯口は70~80℃とあるので、この湯畑や送湯途中で減温されているのだと思います。


【写真 上(左)】 湯畑のしくみ
【写真 下(右)】 温泉の案内

湯畑の上には木板がわたされ、なかは見えません。
源泉とその上に温泉櫓。源泉付近からは湯気があがり、自家源泉宿の趣きゆたか。
源泉は高島鉱泉2号〔下賀茂41号〕(旧第二高島温泉)。昭和33年4月2日の分析書では、泉温摂氏100度の超高温泉となっています。


■ 泉温摂氏100度を示す昭和33年4月2日の温泉分析書



【写真 上(左)】 泉源と温泉ふかし
【写真 下(右)】 温泉ふかし

泉源からよこの温泉ふかし(木の枡)に源泉が引かれ、そこで卵や野菜などをふかしています。ふかしたものは食事に出されていたかもしれません。
また、泉源から回廊に設けられた足湯?にお湯が引かれ、回廊をわたる風に吹かれながら足湯を楽しむことができます。(じつはこの足湯のお湯は確認しておらず、ひょっとして卵茹で場だったかもしれません。)



【写真 上(左)】 ふかし湯(館内掲示より)
【写真 下(右)】 足湯?

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浴場は本館1階の大浴場と別棟の露天「銀河の湯」の2ヶ所あり、これとは別に「椿殿」専用の貸切露天「花車」「源氏車」、露天付きの客室もあるようですが、これらは入浴していません。
大浴場は一晩中入浴可(深夜1時に男女交替)、「銀河の湯」は23時までです。


【写真 上(左)】 花車(館内掲示より)
【写真 下(右)】 源氏車(館内掲示より)


【写真 上(左)】 部屋付きの露天(館内掲示より)
【写真 下(右)】 大浴場入口

本館1階の大浴場は、ロビー寄りが「嵯峨」で旧婦人風呂、おくが「山科」で旧殿方風呂。宿泊したときは男女交替制で、それぞれ内湯と露天がありました。

夜は男湯が「山科」でした。
この日はなぜか明るいうちに撮影していないので、いい写真が残っていないのですが、館内掲示していた写真があるので、それとメモを見ながら書き起こしてみます。

脱衣所は、木棚に籐かごの温泉旅館お約束仕様。
内湯はそこそこの広さで、いささか天井が低い感じがしますが、広い窓の向こうに露天と石庭がのぞめるので閉塞感はありません。
カラン14、シャワー、シャンプー、ドライヤーあり。


【写真 上(左)】 「山科」(館内掲示より)
【写真 下(右)】 「山科」内湯のオーバーフロー

内湯の浴槽は石縁石敷で数十人はいけそうなもの。
向かって右手の窓よりに黒みかげ石?の湯口があり、さわれないほどの高温源泉を注いでいます。
槽内注排湯はおそらくなく、向かって左手手前にオーバーフロー。
湯温は湯口まわりはかなり熱く、離れるにつれてぬるくなるので、掲示どおりのかけ流しかと思います。


【写真 上(左)】 「山科」内湯の湯口
【写真 下(右)】 「山科」露天の湯口

露天は岩組み石敷でこちらもかなりの広さがあります。屋根や東屋はありません。
岩のところどころは黄土色に色づき、石灰華らしい析出を出しています。
向かって右の木樋の湯口から熱湯を投入し、左手おくの排湯口から上面排湯。
こちらも槽内注排湯はみあたらず、湯温分布も内湯と同様なのでかけ流しとみました。


【写真 上(左)】 「嵯峨」の脱衣所
【写真 下(右)】 「嵯峨」の内湯(館内掲示より)

朝は「嵯峨」が男湯となります。
旧婦人風呂で、「山科」より全体にやや小ぶりな感じがします。
カラン6、シャワー、シャンプー、ドライヤーあり。

浴槽の構成は「山科」とほぼ同様ですが、内湯は赤みかげ石造で湯口も赤みかげ石です。


【写真 上(左)】 「嵯峨」の内湯-1
【写真 下(右)】 「嵯峨」の内湯-2


【写真 上(左)】 「嵯峨」の洗い場
【写真 下(右)】 「嵯峨」の内湯湯口

露天は、「山科」よりも岩組みが低く外光が入るので、こちらの方が明るい感じがします。
岩組み伊豆石敷きで、石組みの湯口から高温源泉を投入し、ほぼ同量を上面排湯するかけ流し仕様です。


【写真 上(左)】 「嵯峨」の露天(館内掲示より)
【写真 下(右)】 「嵯峨」の露天-1


【写真 上(左)】 「嵯峨」の露天-2
【写真 下(右)】 「嵯峨」の露天-3


【写真 上(左)】 「嵯峨」の露天の湯口
【写真 下(右)】 「嵯峨」の露天の排湯

本館2階おくに庭園大野天風呂「銀河の湯」があります。
こちらは男女固定制で、手前本館寄りが男湯、おくが女湯です。


【写真 上(左)】 アプローチ
【写真 下(右)】 「銀河の湯」入口


【写真 上(左)】 「銀河の湯」男湯(館内掲示より)
【写真 下(右)】 「銀河の湯」女湯(館内掲示より)

切妻造の風流な浴舎で、入ってすぐの脱衣場は木棚に籐かご。
暖簾をくぐるとすぐに鉄平石造の露天の内床です。
振り返ると「温泉蒸風呂」の扉がありますが、閉鎖中でした。


【写真 上(左)】 「銀河の湯」脱衣所
【写真 下(右)】 「銀河の湯」暖簾


【写真 上(左)】 「銀河の湯」浴舎
【写真 下(右)】 温泉蒸し風呂

「銀河の湯」露天は、豪壮な石組み伊豆石敷きで15人以上は優にいけます。
石組みを配した築山はそのまま裏山につづき、野趣あふれるたたずまい。
このあたりは、さすがに老舗宿の風格を感じます。


【写真 上(左)】 「銀河の湯」-1
【写真 下(右)】 「銀河の湯」-2


【写真 上(左)】 「銀河の湯」-3
【写真 下(右)】 「銀河の湯」-4

全体にやや浅めなのは残念ですが、その分お湯の冷めが速く、回転がよくなるのはメリットか。

踏み込み部分のみ屋根が掛かっていますが、ほとんどは露天です。
カラン2、シャワー、シャンプー、ドライヤーあり。


【写真 上(左)】 「銀河の湯」湯口まわり
【写真 下(右)】 「銀河の湯」湯口

山側の石組みの湯口からかなりの量の熱湯を注ぎ込み、浴舎側の排湯口からほぼ同量を上面排湯。
槽内注排湯はおそらくなく、湯口まわりはかなり熱く、離れるにつれてぬるくなるので、かけ流しかと思います。
場所により温度幅がかなりあるので、好みの湯温で湯あみを楽しむことができます。

客室にも内風呂がついていました。
なぜか写真がないのですが、メモには「蛇口は全開で25L/minほど、湯温安定後はゲキ熱でやむなく加水。お湯のイメージは銀河の湯湯口と同様。」とありました。


【写真 上(左)】 「嵯峨」の内湯湯口
【写真 下(右)】 「嵯峨」の内湯の湯色

お湯のイメージは、どの浴槽も大差ありません。
ただし、鮮度感は銀河の湯と大浴場露天で高く、大浴場内湯はやや鮮度感がよわい感じもありました。


【写真 上(左)】 「嵯峨」の露天の析出
【写真 下(右)】 「銀河の湯」の湯色と析出

ほぼ無色透明で浮遊物はほとんどなし。
かなり強い塩味と苦味。土類系析出つきの高張泉ながら、不思議なことに湯の香はほとんど感じません。
アルカリ性起源と思われるツルすべに土類系のギシギシと明瞭なとろみを帯びた複雑な湯ざわりで、浴後は肌がつるつるになります。

高張性の土類まじりの強鹹味食塩泉。しかも相当量の硫酸塩も含みながら、やさしい浴感でほてりもよわく、しかも浴後は湯づかれせずおだやかにぬくもる上質なお湯です。
濃度や成分構成が似ている伊豆山温泉とはイメージがまったく異なり、「温泉は入ってみないとわからない。」という原点にあらためて引き戻されました。

このような、歴史も風情も備えた老舗旅館がその幕を閉じてしまったのはとても残念なことです。
Web情報(観光経済新聞Web)では、伊古奈観光開発の経営破綻の背景として「同社は1937年設立。数寄屋造りの純和風を特色とした伊豆半島屈指の老舗高級旅館『伊古奈』を経営し、バブル期の1986年に約10億円を投じて改装オープン。営業拡大を図ったが、その後の不況と群発地震などの自然災害から集客数が減少傾向をたどり経営が急速に悪化。業績の回復が見込めない中、抜本的再建策が必要と判断、今回の措置に至った。」と報じています。

バブル崩壊前夜の約10億円の投資もきびしいですが、『平成26年版 新 南伊豆のすがた』/静岡県賀茂地域政策局 (管内:下田市、東伊豆町、河津町、南伊豆町、松崎町、西伊豆町)の「宿泊客数と入湯客数の推移」をみると、南伊豆方面の宿泊客数は平成3年(1991年)をピークに平成23年(2011年)までの20年間、一貫して下落していたことがわかります。


※『平成26年版 新 南伊豆のすがた/宿泊客数と入湯客数の推移』/静岡県賀茂地域政策局
※ いちばん上の折れ線が宿泊客数(管内:下田市、東伊豆町、河津町、南伊豆町、松崎町、西伊豆町)です。

「伊古奈」の経営破綻は2008年、閉館は2013年頃とみられるので、この宿泊客の長期低落の影響も大きいと思われます。

↑ の統計では2011年~2015年の宿泊客数は横バイに転じているものの、その後の消費税増税、新型コロナ禍などマイナス要因が重くのしかかり、予断を許さない状況とみられます。
伊豆八十八ヶ所霊場復興などの追い風要因もあるので、なんとかこの苦境を乗り切ってにぎわいを取り戻してほしいものです。

〔伊豆八十八ヶ所霊場〕
江戸時代開創と伝わる伊豆全域に広がる弘法大師霊場。
ながらく巡拝者は途絶えていたものとみられますが、昭和50年に伊豆霊場振興会が設立され、復興が始まりました。
公式WebもUPされ、このところの御朱印ブームもあって近年、巡拝者が増えている模様です。

初番発願所は伊豆市田沢の嶺松院、八十八番結願所は修善寺および修善寺奥の院。
全行程は460㎞で札所は伊豆半島全域に及びますが、とくに南伊豆町に多く立地しています。
下賀茂温泉の金嶽山 慈雲寺は第64番、下賀茂温泉そばの加納地区にある五峰山 保春寺は第63番の札所となります。

伊豆八十八ヶ所霊場は結願していますので、いくつか御朱印をご紹介します。
無住のお寺も多くなかなか手ごわいですが、伊豆の温泉めぐりと併せじっくり回っていくのも面白いかと思います。


【写真 上(左)】 発願所 嶺松院の御朱印
【写真 下(右)】 結願所 修善寺の御朱印


【写真 上(左)】 結願所 修善寺の御朱印
【写真 下(右)】 下賀茂、加納の保春寺の御朱印


〔 源泉名:高島鉱泉2号(下賀茂41号) 〕 <H14.3.19分析>
Na・Ca-塩化物温泉 92.4℃、pH=8.1、120L/min動力、成分総計=11.34g/kg
Na^+=2712mg/kg (60.91mval%)、Ca^2+=1381 (35.57)、Mg^2+=8.7
Cl^-=6719 (98.52)、、Br^-=12.5、SO_4^2-=106.3 (1.15)、HCO_3^-=29.3
陽イオン計=4340 (197.3mval)、陰イオン計=6867 (192.4mval)、メタけい酸=120.2、メタほう酸=4.7、遊離炭酸=3.6

〔 源泉名:第二高島温泉 〕 <S33.4.2分析>
食塩泉(緩和性高張高温泉) 100℃、pH=8.2、540L/min動力無、成分総計=14191mg/kg
Na^+=4521mg/kg (82.15mval%)、Ca^2+=695.2 (14.49)、Mg^2+=23.54、Fe^2+=0.12
Cl^-=8355 (98.40)、、Br^-=4.495、SO_4^2-=155.5 (1.35)、HCO_3^-=30.22
陽イオン計=5478 (239.43mval)、陰イオン計=8545 (239.43mval)、メタけい酸=167.9

※温泉利用掲示(館内掲示より抜粋)
当館の湯船は加水をしております。
理由と致しましては、源泉温度が92℃と非常に高い為清掃終了後に湯船を溜める際加水を行い適温に保っております。
加水の割合は季節により異なりますが40%~60%になります。
湯船が十二分に溜まった後は、70℃~80℃の源泉のみで温度調節しております。
量は適温を保つ量だけとなっております。循環及び加熱は一切致しておりません。


〔 2021/08/31UP (2008/12入湯)) 〕
※ このレポは2008/12入湯時のものです。

【 BGM 】
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