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■ 志木開運・招福七社参り-2

現在、新型コロナウイルス感染拡大により、不要不急の外出自粛が要請されています。
また、寺社様によっては御朱印授与を中止される可能性があります。
以上、ご留意をお願いします。




こちらのサイトで以前からその存在は知っていたものの、詳細不明だった神社参り。

■ 志木開運・招福七社参り-1からのつづきです。


4.宿氷川神社

「猫の足あと」様
埼玉県志木市上宗岡2-2-34
御祭神:須佐之男大神、奇稲田姫大神、大己貴大神
御利益:心身安穏
旧社格:村社、神饌幣帛料供進神社
元別当:青龍山 千光寺(志木市上宗岡)
授与所:水宮神社授与所(富士見市水子1762-3)※常時授与かは不明
朱印揮毫:宿氷川神社 直書(筆書)


境内掲示資料によると、宿(しゅく)氷川神社は上ノ氷川神社とも通称され、千光寺を中興した権大僧都善海(権大僧都青海とも)が、高鼻の武蔵國一の宮氷川神社を分祀して承暦二年(1078年)創建したといわれます。
爾来、千光寺の管理下に置かれ、宗岡上組・見次組の産土神として敬仰されてきました。

伝承では、観応二年(1351年)、宿氷川神社にあった御神体の茶臼を二つに分けて年号を刻み、下石は当社の本殿下の土中に鎮めとして埋納、上石は下ノ氷川神社の神殿の床下に鎮めとして分祀埋納し、真上にあたる社殿内に幣帛のご神体を祀って下ノ氷川神社が創祀されたと伝わり、下ノ氷川神社は宿氷川神社と向かい合うように北面して建てられ氏子の村人を守るとされています。

明治維新後には村社に列格、明治22年に字袋の無格杜稲荷神社を合祀したといいます。
昭和8年に拝殿、幣殿、覆殿を新築し、昭和18年3月に神饌幣帛料供進神社に指定されています。

志木市内には上ノ氷川神社と呼ばれる当社、中ノ氷川神社と呼ばれる産財氷川神社、そして下ノ氷川神社が鎮座し、いずれも「志木開運・招福七社参り」の対象となっています。

三社の氷川神社となると、どうしても武蔵一ノ宮(大宮氷川神社)レイラインや武蔵三氷川を思い起こします。

武蔵一ノ宮(大宮氷川神社)レイラインとは、高鼻の大宮氷川神社、三室の氷川女體神社、中川の中山神社(中氷川神社)がこちらのWebの三社所在図のとおり、旧見沼をからめとるかのようにほぼ一直線に並び、中川の中山神社からみると大宮氷川神社は夏至の日没の場所、三室の氷川女體神社は冬至の日の出の場所に当たるという神社配置をいいます。

中川の中氷川神社が低地にあり、高鼻の大宮氷川神社、三室の氷川女體神社が高台にあることを考えあわせると、この三社の配置はたしかに暦歴(自然暦)に関係する可能性があると思います。
こちらのWebこちらのWebで鋭い考察を展開されています。)

この三社は古来から父母と子の関係とみなす説があります。
●高鼻の大宮氷川神社の主祭神は須佐之男命で父上(男体社)
●三室の氷川女體神社の主祭神は奇稲田姫命で母上(女体社)
●中川の中山神社(中氷川神社/氷川簸王子神社)の主祭神は大己貴命で御子(氷王子社)


【写真 上(左)】 大宮氷川神社の御朱印
【写真 下(右)】 氷川女體神社の御朱印


【写真 上(左)】 中山神社(中氷川神社/氷川簸王子神社)の御朱印
【写真 下(右)】 中山神社(中氷川神社/氷川簸王子神社)

なお、武蔵三氷川について「一直線に並んでいるともいわれる。」というWeb記事がやたらに目立ちますが、実際には一直線ではありません。
Google マップで直線距離を当たってみると、
一ノ宮-奥氷川が49.58㎞、一ノ宮-所沢中氷川が23.62㎞、所沢中氷川-奥氷川が30.24㎞
一ノ宮-奥氷川が49.58㎞、一ノ宮-三ヶ島中氷川が25.25㎞、三ヶ島中氷川-奥氷川が27.20㎞で、いずれも二等辺三角形にもなっていません。
こちらの記事にもあるとおり、地図で調べればすぐわかることですが、それをせずに安易に孫引きしてしまったからかもしれません。

はなしを志木の氷川三社に戻してみると、宿氷川(上氷川)-産財氷川(中氷川)が1.31㎞、産財氷川(中氷川)-下氷川が1.60㎞、下氷川-宿氷川(上氷川)が2.42㎞で、こちらも二等辺三角形になっていません。
三社の御祭神は、いずれも須佐之男大神、奇稲田姫大神、大己貴大神で、三社それぞれに親子が揃われているかたちとなっています。

また、入間郡誌には「(宗岡村)は幕末の頃上中下三邑各独立の一村となる(中略)明治十年三邑聯合して、一村に復し、遂に大字の別を失ひたれど、今日も普通には上中下三組の名を用いて、村内小邑制とせり。」とあるので、氷川神社の冠称の上・中・下は村名ないし組名に由来するものかもしれません。

なので、三社揃っているとはいえ、武蔵一ノ宮(大宮氷川神社)レイラインに安易に牽強付会はできないかと思います。
ただし、氷川神社は水辺とのかかわりが強く、宿氷川(上氷川)と下氷川が新河岸川のそば、産財氷川(中氷川)が荒川沿いに鎮座され、宗岡エリアを囲む三角形を形成していることはなにがしかの意味があるのかもしれません。
(宗岡の地は荒川と新河岸川にはさまれた低地で、入間郡誌には「土地低平、水田に富む。水害の恐あり」「水害頻繁なりし」とあるので、水害防除のご利益が切に求められていたのではないでしょうか。)

〔追記〕
『埼玉の神社/埼玉県神社庁刊』によると、「宿氷川神社(上ノ氷川神社=当社)の祭神は素戔嗚尊・奇稲田姫命・大己貴命の三柱である。書類の上では主祭神は素戔嗚尊で、あとの二柱は武蔵一宮氷川神社に倣って配祀された形になっているが、昔からこの三柱は当社の祭神であるとされ、中でも女神である奇稲田姫命が主神であるため、当社の祭礼には御輿などは出さず、静かに祭典を行うという。一方、下宗岡の氷川神社(下ノ宮氷川神社)の氷川神社も当社と同じ三柱を祀るが、そちらは主神が素戔嗚尊であるため、祭礼には御輿が勇壮に渡御するのが習い」とあります。
上ノ氷川神社の主祭神が奇稲田姫命、下ノ宮氷川神社の主祭神が素戔嗚尊ということになり、これで産財氷川神社(中ノ氷川神社)の主祭神が大己貴命(氷王子社)であると父母と子の三氷川が成立しますが、産財氷川神社(中ノ氷川神社)の主祭神は不明です。


【写真 上(左)】 千光寺本堂
【写真 下(右)】 千光寺堂宇

元別当の青龍山 千光寺と相並ぶかたちで鎮座します。


【写真 上(左)】 社頭
【写真 下(右)】 夫婦和合の狛犬

社頭に木製の両部鳥居で「氷川神社」の扁額が掲げられています。
右手には「村社 氷川神社」の社号標。
そのさき右手には夫婦和合の狛犬が鎮座しています。
参道階段下右手に手水舎。石灯籠一対、狛犬一対、石灯籠一対の先に入母屋造銅板葺平入り流れ向拝の拝殿。


【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 拝殿


【写真 上(左)】 斜めからの拝殿
【写真 下(右)】 向拝

向拝は水引虹梁で両木鼻は獅子、中備に蟇股で正面桟唐戸(格子)。
本殿は覆屋に囲まれているので様式は不明です。


【写真 上(左)】 社殿
【写真 下(右)】 稲荷社

拝殿の向かって右には、石造明神鳥居を構えた一間社流造の稲荷社が鎮座しています。

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宿氷川神社のすぐそばに、道興准后歌碑があります。
道興准后(永享二年(1430年)-文亀元年(1501年)/『実隆公記』)は、関白近衛房嗣の子で、本山派修験の総本山聖護院門跡に任ぜられ準后(准三宮)の宣下を受けられています。

将軍足利義政や義尚の護持僧として信任あつく、詩歌をよくする風流人としても知られていました。
また、東国巡遊の紀行文『廻国雑記』の作者としても知られています。


廻国雑記の絵図(いろは橋たもとの掲出資料)

道興は文明十八年(1486年)から翌年にかけて聖護院末寺の掌握を目的としたとされる東国巡遊の際、一時当地の十玉坊(現・志木市幸町三丁目に比定説あり)を拠点とされ、付近の大石信濃守の館(柏の城)、野火止、野寺、膝折、浜崎などに足跡を残されています。


【写真 上(左)】 歌碑
【写真 下(右)】 歌碑の説明板

歌碑の歌は、
~ 夕けぶり あらそう暮をみせてけり 我家々のむね岡の宿 ~
室町時代のむかしに、「宗岡」の地名が詠み込まれた貴重な歌として評価されています。

御朱印は水宮神社でタイミングが合えば拝受できます。


5.産財氷川神社

埼玉県神社庁Web
志木市Web資料
「猫の足あと」様
埼玉県志木市中宗岡2-29-12
御祭神:須佐之男大神、奇稲田姫大神、大己貴大神
御利益:縁結び
旧社格:村社、旧宗岡村鎮守
元別当:蓮華山 実蔵院(志木市中宗岡)
授与所:水宮神社授与所(富士見市水子1762-3)※常時授与かは不明
朱印揮毫:産財氷川神社 直書(筆書)


荒川の堤防そばに鎮座する氷川神社。
境内説明板および新編武蔵風土記稿によると、永享年間(1429-1441年)に武蔵国一の宮氷川神社を分祀して創建、江戸期には旧宗岡村の鎮守社でした。
また、「猫の足あと」様の情報(出典:埼玉の神社)では「中宗岡に鎮まる当社は村の開発が進展する中で、既に村内の上下で祀られていた氷川神社に倣って勧請されたものと推測され、『明細帳』によれば、古老の口碑に永享年間(一四二九〜四一)に高鼻村(現大宮市高鼻)の氷川神社から分霊して産土神とした。」とあります。


【写真 上(左)】 鳥居
【写真 下(右)】 鳥居扁額

推測の域を出ないのですが、旧宗岡村は荒川と新河岸川に挟まれた低平地で、どちらの川が氾濫してもおそらく被害を免れません。
氷川神社に水害防除を祈ったとすると、宿氷川(上氷川)と下氷川が新河岸川沿いに鎮座しているのに対し、荒川側には氷川神社がなかったので、荒川の鎮めとして産財氷川(中氷川)をお祀りしたのかもしれません。
荒川の堤防を背に、宗岡地区に向けて設けられた社殿は、たしかに荒川の鎮めとしてふさわしい存在感を宿しています。

御嶽山は氷川神社の玉垣の外にあるので、正確には境外社かもしれませんが、リーフレットには「摂社」とあります。

この御嶽山はかなりかなり険しい擬岳で、荒川の堤防沿いにさほど距離を置かずに冨士塚(浅間神社)と御嶽山(当社)がみられるという、興味ぶかいかたちになっています。

市内には敷島神社の境外社に御嶽神社(本町2-15)があり、「天保二年(1831年)に実明講社(御嶽講の一派)の人々が木曽御嶽神社を勧請し創建」(境内説明板)とあります。
当初はこちらの御嶽山と実明講社との関係を考えましたが、どうやら異なる流れのようです。

『しきふるさと史話/志木市教育委員会刊』には、「宗岡村の一山講(いっさんこう)によって明治二十五年に築造され」とあります。
同資料によると、一山講開祖の井原一山行者は与野市の人で、木曽御嶽講開祖の一人とされ、各地の山岳で修行され木曽御嶽山で荒行を積まれた後、江戸と与野に御嶽大神を勧請した一山講を結ばれ、数万の信者を集めたとあります。
宗岡村に生まれ、一山行者の教えを受けた知足行者が宗岡一山講を結ばれたと伝わります。

また、同資料には、かつて中宗岡に松浦利平(普寛)行者が開かれた普寛堂を中心に御嶽教の信仰が盛んだったとの記述があり、この中宗岡の地は御嶽信仰との所縁がふかい土地柄であったことがうかがわれます。

リーフレットによると御嶽神社の御祭神は国常立大神、大己貴大神、少名彦名大神、頂上の石碑には御嶽山大神(中央)、八海山大神(右)、三笠山大神(左)と刻まれています。

荒川の堤防のすぐそばにありますが、このあたりの荒川の河川敷はとても広いので、荒川の流れまでは600mほどの距離があります。


【写真 上(左)】 境内
【写真 下(右)】 拝殿と御嶽塚


【写真 上(左)】 拝殿
【写真 下(右)】 拝殿向拝

石造の台輪鳥居で「氷川神社」の扁額。
境内は木々が少なく明るく開け、右手は御嶽神社(御嶽山/御嶽塚)です。
参道右に手水舎。拝殿までに石灯籠二対。

拝殿はこのあたりではめずらしい桟瓦葺で入母屋造平入り流れ向拝。
向拝柱はありますが木鼻はなく、海老虹梁も直線的で全体にシンプルな構成。正面桟唐戸。


【写真 上(左)】 社殿全容
【写真 下(右)】 本殿の向拝

覆屋に覆われた本殿はすばらしいものです。
境内説明板によると「造営年代は定かではありませんが、明治二年に着工し、同十四年に完成」とあります。
本殿は一間社流造りでケヤキ材使用とのこと。
廻縁腰組の斗栱がすばらしく、知識の浅い筆者には何手先なのか見当がつきません。


【写真 上(左)】 本殿の水引虹梁
【写真 下(右)】 廻縁腰組の斗栱

身舎まわりの斗栱や彫刻も手がこんでおり、この本殿は志木市指定文化財に指定されています。

本殿向かって左の神明鳥居の先に、切妻造妻入のお社と石の祠が鎮座しています。
切妻造妻入のお社御嶽社、石の祠は八坂社とみられます。
(リーフレット記載の「境内社 八坂神社」はこちらの八坂社ではないでしょうか。)


【写真 上(左)】 御嶽塚
【写真 下(右)】 御嶽大神の石碑


【写真 上(左)】 不動明王
【写真 下(右)】 山頂の石碑

御嶽神社はこんもりと盛り上がった擬岳で、山容にくらべて石碑類が多く賑やかな印象。
正面に石像の不動明王の坐像。両脇に矜羯羅、制吒迦の両童子を従えて整った像容です。
その横に「御嶽大神」の石碑があり、御嶽神社であることを示しています。

御朱印は水宮神社でタイミングが合えば拝受できます。


6.下ノ宮氷川神社

埼玉県神社庁Web
「猫の足あと」様
埼玉県志木市下宗岡4-7-43
御祭神:須佐之男大神、奇稲田姫大神、大己貴大神
御利益:強運厄除
旧社格:
元別当:観音寺
授与所:水宮神社授与所(富士見市水子1762-3)※常時授与かは不明
朱印揮毫:下ノ宮氷川神社 直書(筆書)


下ノ氷川神社は、宿(上ノ氷川)神社を分祀して観応二年(1351年)に創建された神社です。
伝承には、宿(上ノ氷川)氷川神社にあった御神体の茶臼を二つに分けて年号を刻み、下石は宿(上ノ氷川)氷川神社の本殿下の土中に鎮めとして埋納、上石は当社の神殿の床下に鎮めとして分祀埋納し、真上にあたる社殿内に幣帛のご神体を祀って創祀されたとあり、下ノ氷川神社は宿氷川神社と向かい合うように北面して建てられ氏子の村人を守るとされています。


【写真 上(左)】 あたりの景色
【写真 下(右)】 まむしに注意!

下宗岡の集落の外れ、朝霞市との市境に近いところ、新河岸川の支流がそばを流れる人家も少ない低地で、イメージ的には朝霞・内間木地区に近いものがあります。
市域が狭く人口密度の高い志木市内に、このような場所が残っているとは、ある意味おどろきです。
このような村はずれの低地に分祀して創祀ということは、やはり水害防除の願いが強かったのかもしれません。

『埼玉の神社/埼玉県神社庁刊』には、「当社の拝殿には、数多くの絵馬が奉納されている。(中略)「水難除け祈願」は、土地の官有化によって水神を祀れなくなった下組の人々が、代わりに水神の幣束を絵馬に描いて鎮守に奉納することによって水難を避けようとしたもの」とあり、やはり水難防除の祈願がかけられていたことがわかります。


【写真 上(左)】 鳥居と参道
【写真 下(右)】 鳥居扁額


【写真 上(左)】 境内
【写真 下(右)】 水神社


【写真 上(左)】 稲荷社
【写真 下(右)】 参道と拝殿

上社、中社とちがい木々が茂って荘厳な雰囲気、北面のお社ということもあり、引き締まった気を感じます。
石造の明神鳥居に「氷川神社」の扁額。
参道左手に手水舎。
社頭付近に水神社の境内社が鎮座されます。
その先の朱い銅板葺の一間社流造のお社には「正一位新田稲荷大神」の扁額が掲げられていました。


【写真 上(左)】 狛犬1
【写真 下(右)】 狛犬2

階段を数段登って狛犬一対。この狛犬は四つ脚立ちでかなり個性的なお姿です。


【写真 上(左)】 拝殿
【写真 下(右)】 社殿

正面の拝殿は入母屋造銅板葺平入り流れ向拝で、端正な水引虹梁を構えています。
木鼻は雲形、中備えに蟇股、正面は格子戸、軒天は二軒繁垂木です。


【写真 上(左)】 本殿
【写真 下(右)】 八坂神社

本殿は切妻平入りで、拝殿と連接しています。
本殿よこに護国神社と疱瘡神、拝殿手前よこには八坂神社が鎮座しています。
疱瘡神は疱瘡(天然痘)除け、八坂神社は疫病除けとして祀られているとされ、毎年七月には八坂神社の祭礼である「天王様」が催され「下組下の宮囃子」が奉奏されます。

御朱印は水宮神社でタイミングが合えば拝受できます。


7.(中宗岡)天神社

埼玉県神社庁Web
「猫の足あと」様
埼玉県志木市中宗岡1-4-36
御祭神:菅原道真公
御利益:受験合格
旧社格:村社
元別当:蓮華山 実蔵院(志木市中宗岡)
授与所:水宮神社授与所(富士見市水子1762-3)※常時授与かは不明
朱印揮毫:宗岡天神社 直書(筆書)


志木市中宗岡に御鎮座の天神社で、境内説明板などによると、寛永三年(1626年)、江戸の湯島天神を分祀したと伝えられ、近世初頭にこの地を支配し後に名主役を務めていた木下氏の先祖にあたる山口大膳が山口(現・所沢市山口)から来住した際に氏神として分祀という説もあり定説はないようです。


【写真 上(左)】 社頭
【写真 下(右)】 鳥居

社頭はいろは通りに面し、そこから露地の中を細長く参道が延びています。
路地を抜けると一気に境内が広がります。


【写真 上(左)】 八坂神社の鳥居
【写真 下(右)】 左が天神社、右が八坂神社

向かって左手に天神社の石造明神鳥居、右手に八坂神社の石造神明鳥居で、おのおの参道の先に拝殿を配して二社構成の神社のように見えます。
左手の石造明神鳥居には「天神社」の扁額がかかります。
参道中ほどに手水舎。
右手に子取り、左手に玉取りの整った狛犬。


【写真 上(左)】 狛犬
【写真 下(右)】 天神社の社殿

数段登って石灯籠一対を配し、正面に入母屋造桟瓦葺平入りの拝殿。
水引虹梁はなく、身舎は格子で覆われ寺院(堂宇)建築のようです。
見上げに「天神社」の扁額。


【写真 上(左)】 拝殿
【写真 下(右)】 拝殿扁額

切妻造銅板葺平入りの本殿が拝殿に連接しています。


【写真 上(左)】 八坂神社
【写真 下(右)】 八坂神社の扁額

右手の社殿は八坂神社。
切妻造桟瓦葺平入りで向拝上部のみ格子で、見上げに「八坂神社」の扁額を掲げています。
桟瓦葺二棟のコントラストが絶妙で、見応えがあります。

八坂神社の本殿は、拝殿から距離を置いて御鎮座。
天神社と八坂神社の間に鳥居とお社と石祠の二社が鎮座します。
切妻造妻入のお社は稲荷社とみられ、そちらの向かって右の石の祠にはおそらく立像の弁財天が祀られています。

また、本殿の向かって左には一間社流造のお社二社(御祭神不明)、水神宮の石碑と「高光美玉姫命」の石碑が建立されています。

リーフレットには下記のお社が記載されています。
ご本殿(天照大御神、八幡大神、春日大神、菅原道真公(天神様))、八坂神社、阿夫利神社、御嶽神社、伊都岐島神社、大杉神社、水神社、稲荷神社、弁材天。
『埼玉の神社/埼玉県神社庁刊』には「当社の本殿には社が三社安置されている。そのうち中央が天神社、向かって左側が春日社、右側が八幡社」とあります。
同資料の境内図によると、本殿向かって左側に、大杉神社(荒川砂採取組合による再新築)、伊都岐島神社(「ふかん様」と呼ぶ)、大山阿夫利神社、水神宮とあります。

『しきふるさと史話/志木市教育委員会刊』によると、中宗岡には「大講義高光美玉姫命」と刻まれた碑があり、こちらは御嶽教の清水スミ行者の神霊碑とあります。
同書に、名声高い百村の普寛行者を中宗岡の地に招いたのが清水スミ行者とあるので、上記の「伊都岐島神社(「ふかん様」と呼ぶ)」という記載と符合します。
また、同書には「大山(の)御師佐藤織部の先祖が舘村佐藤家の出身だったこともあって、志木市域での布教活動はかなり活発だったようで、引又からは毎年代参者が登拝している。」ともあり、その流れから当社の境内に大山阿夫利神社が祀られているのかもしれません。

『埼玉の神社/埼玉県神社庁刊』に「当社の境内にある『あんば様』こと大杉神社は、荒川の秋ヶ瀬から採取された砂を運ぶ砂船の船頭をしていた人たちが昭和十年に字原に建立」「同三十年に荒川砂採取株式会社が解散してからは管理上の問題から当社の境内に移された。」とあります。

これで、各種の資料と現地のお社・碑の配置がほぼ合致することになります。


【写真 上(左)】 八坂神社元宮社頭
【写真 下(右)】 八坂神社元宮

境外社として八坂神社元宮があり、そちらの境内由緒書には「享和三年(1803年)、当地に祀られ悪疫、病魔退散を願い氏子宗岡邑中組(現三区・四区)一帯で天王祭(祇園際)が行われはじめた、近年は御輿御渡など盛大に行われている. その元宮」とありました。

宗岡エリアは新河岸川対岸の本町や柏町に比べて高台が少ないですが、当社地は一段高くなっており、引又河岸(いろは橋/新河岸川と柳瀬川の合流点)を挟んで敷島神社と相対しているようにもみえます。
ともに水神宮が祀られ、天神社には伊都岐島神社(御祭神:宗像三女神)や弁財天社も祀られているので、水や川に対する鎮護の意味合いもあるのかもしれません。

これで志木開運・招福七社参りのご紹介はおわりです。
多彩な神社や御祭神をお参りできる神社巡りで、寺社に興味のある方であれば御朱印を抜きにしても充分楽しめるかと思います。


【 BGM 】
■ ただ泣きたくなるの - 国分友里恵


■ 風と花と光と - 世理奈


■ Hello,my friend - 松任谷由実


■ 滴 - 今井美樹


■ 夏空の下 - やなわらばー
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