民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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十返舎一九 ―― 自分の死を笑いのタネに その1

2017年09月19日 01時07分47秒 | 健康・老いについて
 「江戸の定年後」 ご隠居に学ぶ現代人の知恵 中江 克己 光文社文庫 1999年

 十返舎一九 ―― 自分の死を笑いのタネに その1

 入婿を二度しくじった洒落男 その1

 死はさまざまで、生きたようにしか死ねない、ともいわれる。死という厳粛な瞬間に、その人の生き様が集約して現れる、ということなのだろうか。
 その厳粛な死を演出し、笑いのタネにした男がいた。『東海道中膝栗毛』で知られる戯作者、十返舎一九である。

 一九は明和2年(1765)、駿河(静岡市)で生まれた。本名を重田貞一といい、父の与八郎は駿河の町同心をつとめていた。
 下級武士の出身だったわけである。一九は若いころ、江戸に出て小田切土佐守に仕えたが、土佐守が大阪奉行に就任すると、彼にしたがって大阪に赴いた。

 しかし、一九は武士に向いていなかったのだろう。まもなく辞職し、大阪の材木屋の婿になったものの、すぐに離縁という破目になる。じつをいうと、一九は並外れた大酒飲みだったし、諸芸能に心を寄せ、商売の材木屋に見向きもしなかった。これでは離縁になるのも無理はない。
 といって、一九はただ大阪でぶらぶらしているのではなかった。一九は絵や書をよくしたほか、志野派の香道をを身につけて師匠になろうとしたり、近松与七の名で浄瑠璃の台本を書いたりしたのである。一九は若いころから好奇心が旺盛で、多才だった。

「江戸の定年後」 中江克己

2017年09月17日 00時06分40秒 | 備忘録
 江戸時代も後期になると、親孝行を売り物にする輩も出てくる。嘉永6年(1853)にまとめられた『守貞漫稿』には、「親孝行」と称する門付けを紹介している。
「天保末(1844)、江戸ではある男が衣服を着せた張りぼての人形を胸につり、孝行者が親を背負っているように見せかけていた」
 そのようにして、「親孝行でござい」と大声でいいながら歩き、家々の前に立っては、手に持った扇子で銭をもらったのである。なかには、本当に老婆を背負う男もいた。こうした門付けが横行したというのは、それだけ親孝行が少なくなったということかもしれない。

 出典 「江戸の定年後」 中江克己 P-36

「カチカチ山」 マイ・エッセイ 29

2017年09月15日 00時10分28秒 | マイ・エッセイ&碧鈴
   カチカチ山   
                                                                                               
 今年の春、中央生涯学習センター秋の文化祭に、朗読の会で一緒に習っている女性と二人で朗読を発表することになった。選んだ作品は、太宰治が戦争中防空壕の中で書いた『 カチカチ山』。タヌキを三十七歳の中年男、ウサギを十六歳の乙女として再構成したもの。
 全部を読むと一時間はかかるが、タヌキとウサギの会話を中心に『 男女二人読み』として、十八分ほどにまとめた台本が既にあった。それを先生が朗読したのを二人とも聴いたことがあり、そのとき「 会話のやり取りがおもしろい、いつかやってみたいね」と話していた作品だ。
 文化祭で割り当てられた時間は十五分。出入りの時間を考えれば十三分に収めたい。「台本作りはオイラに任せてくれ」とさっそく取り掛かった。
 太宰は学生時代には全集を読んだことがあるくらい傾倒していた作家だったが、社会人になってからはすっかり遠ざかっていた。それがこんな形でまた関わるようになるとは思ってもみなかった。
 手直しを何度かくり返して最終台本が出来あがったのは文化祭の二週間前。いよいよ本番に向けて練習にも熱が入った。近づくにつれて、五年前のシルバー大学での苦い経験がよみがえった。
生徒全員が集まる学校祭での民話語り、足がブルブル震えてずっと止まらなかったほどあがり症なのだ。
 会場は見たことがあるのでイメージは掴める。しかし、あんな広いところでやるんだぞ、だんだんプレッシャーがかかる。だけど、あのときに比べたらずいぶんと舞台度胸もついてきたはずだと、心配と自信が交錯する。いい年をして緊張するのもみっともないと思いながら、最悪の状況を思うと、弱気な気持ちが頭をもたげる。
 そして迎えた十月十五日、出演は午後の部の二番目、昼休みに会場の様子を下見して、先生と相方と三人で立ち位置を確かめたあと、控え室で軽い昼食を取り、五分刻みのスケジュール表に従ってリハーサルをあわただしく済ませ、舞台の袖に立っていた。出番まであと数分だ。気持ちを落ち着かせるため何度も深呼吸をくり返す。
 拍手が響いて、前の組が終わり、オイラたちの所属する朗読の会を紹介するアナウンスが始まる。緊張のクライマックス、思ったほど心臓の動悸は激しくない。
「 それでは、どうぞ」の合図に、相方に目配せをして舞台中央に歩き出す。舞台の下手から出るときは観客に顔が見えるように左足から出ることなど、前日に読んだ注意事項をしっかり守った。
 立ち位置をしっかり確認して、お辞儀をする。前に並べられた五十席ほどのイスにすわっているのは十五人くらいだろうか。正面の壁際と両側の袖にはそれ以上の関係者やスタッフが立っている。
 作者と作品名を言うのはオイラだ。台本を左手に持ち、しっかり観客を見据えて口を開く。

「 太宰治作、お伽草子より、『 カチカチ山』」

 広い会場のせいか、声が散っていく感じがして少し不安になる。こんな広いところで声を出すのは初めてだ。腹に力を入れるのを忘れるな、自分に言い聞かせる。これだけはしっかり守ろうと決めて、八ページの台本のすべてのページに『 腹に力を入れて』と書いて赤鉛筆で印をつけておいた。
 出だしのセリフもオイラだ。台本を広げ、老眼鏡をポケットから出してかけようとするが、右手一本では意外にてこずる。時間が止まったかのようにやけに長く感じる。落ち着けとあせればあせるほど手がこんがらがる。
 作品名を言った後と最初の出だしはじゅうぶんに間を取ってと先生に注意を受けていたが、これでは間が空きすぎる。たぶん二、三秒のことながら、オイラの焦りを誘うにはじゅうぶんな時間だ。予想しなかった展開にいくぶん動揺が走る。気を取り直して最初のセリフを口にする。

「 カチカチ山の物語に於ける兎は少女、さうしてあの惨めな敗北を喫する狸は、その兎の少女を恋してゐる醜男。これは疑いを容れぬ厳然たる事実のやうに私には思はれる」

 これは何度も練習しているから自然に暗記して頭に入っている。声は上ずっていない、足も震えていない、この調子でいけば大丈夫だ。気持ちが落ち着く。相方がセリフを受け継ぐ。彼女も普段通りだ、しかし彼女はこういうことは初めてという割には驚くほど落ち着いている。彼女のことは朗読の会で一緒になるくらいで、よく知らない。
 大きなミスもなく、最後のオイラのセリフまで来た。もう一息だ。

「 女性にはすべて、この無慈悲な兎が一匹住んでゐるし、男性には、あの善良な狸がいつも溺れかかつてあがいてゐる」

 最後のセリフを言って顔を上げる。拍手が聞こえる。終わった、無事に乗り切った。ほっとする気持ちをぐっと抑えて、台本を閉じ、「 ありがとうございました」。二人同時にお辞儀をして舞台の上手に引っ込んだ。


 このエッセイは去年の文化祭のことを書いたものです。

「ういろう売りのせりふ」 その6 鈴木 棠三

2017年09月13日 00時05分49秒 | 朗読・発声
 「ことば遊び」 鈴木 棠三(とうぞう)1911年生まれ 講談社学術文庫 2009年

 「ういろう売りのせりふ」 その6

 舌もじり・早口文句の集成 P-71

ういろう売りのせりふの構成は、最初にういろう薬の歴史と本舗を紹介する。次に薬効のいろいろ、特に口がよく廻るという奇効があると述べ、その実演に入る先に、音韻の基礎知識について、ちょっと学のあるところを示して煙にまく。「あわや咽・・・唇の軽重」がそれで、これは音韻上の心得として、音の区別を教える教訓歌であるが、芝居の看客は分からぬ者が大多数だったろう。

 近世の音韻額の基本となるのは『韻鏡(いんきょう)』で、これによれば漢字の36字母を、唇・舌・牙・歯・喉・半舌・半歯の7音に分けてある。これを日本語に適用して、ア・ワ・ヤの3音が喉音、サ・タ・ラ・ナが舌音、カが牙音、サが歯音、ハ・マが唇音であるというのが、右の一首の意味なのである。


「ういろう売りのせりふ」 その5 鈴木 棠三

2017年09月11日 00時10分14秒 | 朗読・発声
 「ことば遊び」 鈴木 棠三(とうぞう)1911年生まれ 講談社学術文庫 2009年

 「ういろう売りのせりふ」 その5

 団十郎の創出 P-67

 感激した団十郎は、報恩のため舞台の上から霊薬の名を広めたいと申し出たが、意仙は同家従来のしきたりを守って固辞した。それでも、人助けのためであるからとの団十郎の強い望みに押し切られて、ついにその申し出を承諾した。これがういろう売りの舞台化するまでの経緯であると、外郎家では伝えている。この辺が、従来、歌舞伎関係の書物に記されているのと相違する点である。たとえば、飯塚友一郎の名著『歌舞伎細見』には、「この薬は今でも小田原の名物で、婦人血の道などに特効があるといふ。この薬売りの身振り口上を二代目団十郎が真似たのが『外郎売』のはじめである」と記されている。つまり、外郎薬のセールスマンの風俗と口上を脚色化し団十郎が舞台上に再現したものとされているのが通説だが、それは書きかえられるべきで、団十郎が無から有を創出したとするのが正しい。ういろう売りのせりふも、あの扮装も、全部が団十郎のアイディアだったというわけである。

 記述が前後したが、団十郎は亨保3年(1718)春、江戸森田屋で上演された『若緑勢曽我』の二番目に、ういろう売りに扮して、ういろう薬の効能を滔々と述べ立てて大当たりを取った。爾来、この演(だ)し物は歌舞伎18番の一つとされ、市川家の家の芸として団十郎を襲名する者は必ず一度は出演する習わしさえ生じた。またその上演に当たっては小田原の外郎家へ市川家から必ず挨拶に来る慣習で、その時はういろう売りのせりふの一枚摺りを届けて来た。同家ではこれを印刷にして希望者にわけているが、『歌舞伎年代記』に載せるものと、大異はない。いま、年代記にこれを照合して、せりふの全文を掲げる。