民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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「ういろう売りのせりふ」 その4 鈴木 棠三

2017年09月09日 00時05分39秒 | 朗読・発声
 「ことば遊び」 鈴木 棠三(とうぞう)1911年生まれ 講談社学術文庫 2009年

 「ういろう売りのせりふ」 その4

 団十郎の創出 P-66

 ういろう薬が天下に名を知られたのは、東海道を上下する旅人によって口コミ的に名が広まり、また土産に買い求めて帰国した者が実物による宣伝に協力したことが第一の理由で、外郎家自身は最後まで武士の商法的なやり方で終始し、希望者には売るといった態度を変えなかったということである。希望する者には、三方にのせて差し出す。代価も定まっておらず、思し召しであった。そんなふうだから、積極的に宣伝することなどは一切しなかったが、ここに二世団十郎(1688~1758)という名優が、すすんで宣伝に一肌ぬぐという事態が起こり、これによってういろう薬の評判は飛躍的に高まった。

 もともと二世団十郎には痰と咳の持病があって苦しんだ時期があり、その際ういろう薬の噂を聞いて服用したところ、痼疾が全治した。非常に喜んで団十郎がわざわざ小田原の外郎家まで礼を述べに赴いたところ、同家では格式を度外視して厚遇したばかりか、隠居の意仙が俳諧を嗜んでおり、はなはだ団十郎と話が合った。この意仙は13代相治の隠居名で、ういろう売りのせりふには「只今は剃髪いたして、円斎と名のりまする」とある人物に当たる。円斎は団十郎が創作した作り名で、外郎家には円斎と号した人物は現在に至るまでないということである。


「ういろう売りのせりふ」 その3 鈴木 棠三

2017年09月07日 00時31分11秒 | 朗読・発声
 「ことば遊び」 鈴木 棠三(とうぞう)1911年生まれ 講談社学術文庫 2009年

 「ういろう売りのせりふ」 その3

 ういろう由来 P-65

 これを、銀粉をまぶした丸薬に変えたのが今の形で、このように代わったのは比較的早くからのように思われる。天文9年(1540)に成った荒木田守武の俳諧連歌『守武千句』に、「大きなりけり小さかりけり」の句に「不二のねはとうちんかうを麓にて」と付けているのは、もちろん小田原移住後の外郎家をさしている。大きなものとちいさなものを、それぞれ富士の山と透頂香で具体化した句で、ただそれだけの説明の句と解されがちだが、銀の小粒の透頂香を富士の雪になぞらえた意を看取すべきである。とすると、天文の初め、あるいはそれ以前に、銀の丸薬に変わっていたものと見てよいのではなかろうか。

 江戸時代に入って、金銀二色の丸薬を創製し、花ういろうと名づけ、正月などめでたい時の用に喜ばれ、ういろう売りのせりふにも出ているが、これはあくまで特製で、主流は銀の粒であったことはいうまでもない。透頂香の薬効としては、胃腸病、吐き気、悪酔い、息切れ、頭痛、めまい、咳、痰のつかえ、咽喉痛、その他諸病に卓効あるとされた。



「ういろう売りのせりふ」 その2 鈴木 棠三

2017年09月05日 00時01分54秒 | 朗読・発声
 「ことば遊び」 鈴木 棠三(とうぞう)1911年生まれ 講談社学術文庫 2009年

 「ういろう売りのせりふ」 その2

 ういろう由来 P-64

 永正元年(1504年)、五代目外郎藤右衛門定治(1470~1556)の時、北条早雲の招きにより小田原に下って同家に属し、高1800貫を領した。北条氏滅亡の時、七代目光治は籠城軍に加わっていたが、特に許されて城下に止まり、以後は医薬に専心した。その後は城主大久保・稲葉両氏から保護されて、小田原名物の霊薬として全国的に名があがった。京都の外郎家は定治の弟が典医職を継いだが、室町幕府の倒壊と共に絶家し、当時の職人が各地で銘菓ういろうを製造し、その流れが本舗以外のういろうとなって今日に及んでいる。

 ういろうすなわち透頂香は、今も古方を守って造られている。直径3、4ミリの銀色の丸薬で、中は黒褐色、ちょっとにが味があり、香気が高い。まずは仁丹や宝丹の祖型といえる。ただし、透頂香の初めは葉書半分くらいの薄い板状で、金粉をまぶしこれに縱橫の筋目がつけてあり、2、3ミリの小片に折り取って服用した。ういろう売りのせりふに「冠の透間より取り出す」とあるのも、丸薬でないからできたことなのである。


「ういろう売りのせりふ」 その1 鈴木 棠三

2017年09月03日 00時02分51秒 | 朗読・発声
 「ことば遊び」 鈴木 棠三(とうぞう)1911年生まれ 講談社学術文庫 2009年

 「世の中はすむと濁るの違いにて、刷毛に毛があり禿に毛が無し」。平安以来、歌詠みも、連歌作者も、俳諧の宗匠も、ことばの動き、その変わり身の様々な相を追求した。「回文」「早口言葉」「しゃれ」「地口」「なぞ」「解きと心」・・・百花繚乱の言語遊戯を誇る日本語。ことばの可能性を極限まで発掘しようとする行為としてのことば遊びの歴史を辿る。(推薦文)

 「ういろう売りのせりふ」 その1

 ういろう由来 P-63 

 小田原の市街を箱根方面へ向かって、いま少しで出外れる辺りが本町一丁目で、ここにういろうの本舗がある。関東大震災までは、八棟造りという大変目につく家構えの老舗であったが、現在は一見普通の薬局と変わらないけれども、ここが銘菓ういろうと霊薬透頂香(とうちんこう)の本舗で、外郎藤右衛門氏のお宅である。ういろうというと、名古屋が本場のように思いこんでいる人が多いが、あれは模造品ともいうべきものだそうだ。外郎家の家伝によると、祖先の陳延祐(ちんえんゆう)(宗敬とも称した)は元の順帝の時大医院、礼部員外郎に任じられた。員外とは定員外を意味するが、当時は正職であった。

 1368年、元が滅び明の世になったので、延祐は日本に亡命し、陳外郎と称した(ウイは「外」の唐音)。陳外郎は博多で僧門に入って世を終えたが、その子宗奇(そうき)は京都へ招聘され将軍足利義満の愛顧をうけ、遣明使の嚮導役(きょうどうやく)として明国に使し、帰朝に際して霊宝丹を将来して家方(かほう)とした。これを冠にはさんで少量ずつ服用すると芳香が漂う。つまり常備薬と香水を兼ねたようなものなので、時の帝から透頂香の名を賜った。これが正式の名で、外郎薬、略してういろうと呼ばれ、薬効顕著なところから上下に大いに珍重された。菓子のういろうは、内外の賓客に供するために、同家で創製したもので、もともと売品ではなかったということである。

「全身翻訳家」 鴻巣 友季子

2017年09月01日 00時12分28秒 | 雑学知識
 「全身翻訳家」 鴻巣 友季子 (こうのす ゆきこ)1963年生まれ ちくま文庫 2011年

 食事をしても子どもと会話しても本を読んでも映画を観ても旅に出かけても、すべて翻訳につながってしまう。翻訳家・ 鴻巣友季子が、その修行時代から今に至るまでを赤裸々かつ不思議に語ったエッセイ集。五感のすべてが、翻訳というフィルターを通して見える世界は、こんなにも深く奇妙でこんなにも楽しい。(推薦文)

 文庫版あとがき

 早いものでわたしが最初の翻訳書を出した1987年から、4半世紀近くが過ぎようとしている。ただただ、ひたすら、やみくもに、原文の一字一句を日本語に移していたら、いつのまにかそんな月日が経っていたのである。

 その20年の間、日本では、バブル経済とやらが崩壊したり、世界をゆるがすテロの事件が起きたり、景気がちょっと上向いてきたと思ったらまた金融ショックでどん底に叩き落されたりし、2011年3月には大地震が起きて、3・11以前と以後の世界を分かつほどの災害に見舞われた。そうしているうちにも、世界のあちらこちらで戦争や紛争やテロや革命がつぎつぎと起きていた。

 その間も、わたしはほとんどずっと部屋にこもって翻訳という作業をしていた。19世紀に、塔にこもって翻訳をしているうちに普仏戦争(プロイセン王国・フランス戦争)が始まって終わったことに気づかなかったオーストリアの翻訳家がいた、という話をどこかで読んだことがある。そこまで没頭できれば逆にあっぱれだが、わたしにも多少似たようなところはあるだろう。

 わたしの世界との接点はほぼすべてが翻訳を通したものだ。最近は書評やエッセイの仕事も増え、翻訳の量が少し減った時期もあるが、わたしにとっては書評もエッセイも、翻訳の一部。読んだ本を自分なりに解釈し翻訳するのが書評であり、自分の生きている世界を自分なりに読んで翻訳して書くのがエッセイである。

 なにを見ても翻訳に結びつき、なにを見ても翻訳を思い出す。
 わたしという人間は翻訳を通してようやく世界とつながっている。
 そんな思いで、この文庫を『全身翻訳家』と名づけた。