民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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「全身翻訳家」 鴻巣 友季子

2017年09月01日 00時12分28秒 | 雑学知識
 「全身翻訳家」 鴻巣 友季子 (こうのす ゆきこ)1963年生まれ ちくま文庫 2011年

 食事をしても子どもと会話しても本を読んでも映画を観ても旅に出かけても、すべて翻訳につながってしまう。翻訳家・ 鴻巣友季子が、その修行時代から今に至るまでを赤裸々かつ不思議に語ったエッセイ集。五感のすべてが、翻訳というフィルターを通して見える世界は、こんなにも深く奇妙でこんなにも楽しい。(推薦文)

 文庫版あとがき

 早いものでわたしが最初の翻訳書を出した1987年から、4半世紀近くが過ぎようとしている。ただただ、ひたすら、やみくもに、原文の一字一句を日本語に移していたら、いつのまにかそんな月日が経っていたのである。

 その20年の間、日本では、バブル経済とやらが崩壊したり、世界をゆるがすテロの事件が起きたり、景気がちょっと上向いてきたと思ったらまた金融ショックでどん底に叩き落されたりし、2011年3月には大地震が起きて、3・11以前と以後の世界を分かつほどの災害に見舞われた。そうしているうちにも、世界のあちらこちらで戦争や紛争やテロや革命がつぎつぎと起きていた。

 その間も、わたしはほとんどずっと部屋にこもって翻訳という作業をしていた。19世紀に、塔にこもって翻訳をしているうちに普仏戦争(プロイセン王国・フランス戦争)が始まって終わったことに気づかなかったオーストリアの翻訳家がいた、という話をどこかで読んだことがある。そこまで没頭できれば逆にあっぱれだが、わたしにも多少似たようなところはあるだろう。

 わたしの世界との接点はほぼすべてが翻訳を通したものだ。最近は書評やエッセイの仕事も増え、翻訳の量が少し減った時期もあるが、わたしにとっては書評もエッセイも、翻訳の一部。読んだ本を自分なりに解釈し翻訳するのが書評であり、自分の生きている世界を自分なりに読んで翻訳して書くのがエッセイである。

 なにを見ても翻訳に結びつき、なにを見ても翻訳を思い出す。
 わたしという人間は翻訳を通してようやく世界とつながっている。
 そんな思いで、この文庫を『全身翻訳家』と名づけた。