「ことば遊び」 鈴木 棠三(とうぞう)1911年生まれ 講談社学術文庫 2009年
「ういろう売りのせりふ」 その5
団十郎の創出 P-67
感激した団十郎は、報恩のため舞台の上から霊薬の名を広めたいと申し出たが、意仙は同家従来のしきたりを守って固辞した。それでも、人助けのためであるからとの団十郎の強い望みに押し切られて、ついにその申し出を承諾した。これがういろう売りの舞台化するまでの経緯であると、外郎家では伝えている。この辺が、従来、歌舞伎関係の書物に記されているのと相違する点である。たとえば、飯塚友一郎の名著『歌舞伎細見』には、「この薬は今でも小田原の名物で、婦人血の道などに特効があるといふ。この薬売りの身振り口上を二代目団十郎が真似たのが『外郎売』のはじめである」と記されている。つまり、外郎薬のセールスマンの風俗と口上を脚色化し団十郎が舞台上に再現したものとされているのが通説だが、それは書きかえられるべきで、団十郎が無から有を創出したとするのが正しい。ういろう売りのせりふも、あの扮装も、全部が団十郎のアイディアだったというわけである。
記述が前後したが、団十郎は亨保3年(1718)春、江戸森田屋で上演された『若緑勢曽我』の二番目に、ういろう売りに扮して、ういろう薬の効能を滔々と述べ立てて大当たりを取った。爾来、この演(だ)し物は歌舞伎18番の一つとされ、市川家の家の芸として団十郎を襲名する者は必ず一度は出演する習わしさえ生じた。またその上演に当たっては小田原の外郎家へ市川家から必ず挨拶に来る慣習で、その時はういろう売りのせりふの一枚摺りを届けて来た。同家ではこれを印刷にして希望者にわけているが、『歌舞伎年代記』に載せるものと、大異はない。いま、年代記にこれを照合して、せりふの全文を掲げる。
「ういろう売りのせりふ」 その5
団十郎の創出 P-67
感激した団十郎は、報恩のため舞台の上から霊薬の名を広めたいと申し出たが、意仙は同家従来のしきたりを守って固辞した。それでも、人助けのためであるからとの団十郎の強い望みに押し切られて、ついにその申し出を承諾した。これがういろう売りの舞台化するまでの経緯であると、外郎家では伝えている。この辺が、従来、歌舞伎関係の書物に記されているのと相違する点である。たとえば、飯塚友一郎の名著『歌舞伎細見』には、「この薬は今でも小田原の名物で、婦人血の道などに特効があるといふ。この薬売りの身振り口上を二代目団十郎が真似たのが『外郎売』のはじめである」と記されている。つまり、外郎薬のセールスマンの風俗と口上を脚色化し団十郎が舞台上に再現したものとされているのが通説だが、それは書きかえられるべきで、団十郎が無から有を創出したとするのが正しい。ういろう売りのせりふも、あの扮装も、全部が団十郎のアイディアだったというわけである。
記述が前後したが、団十郎は亨保3年(1718)春、江戸森田屋で上演された『若緑勢曽我』の二番目に、ういろう売りに扮して、ういろう薬の効能を滔々と述べ立てて大当たりを取った。爾来、この演(だ)し物は歌舞伎18番の一つとされ、市川家の家の芸として団十郎を襲名する者は必ず一度は出演する習わしさえ生じた。またその上演に当たっては小田原の外郎家へ市川家から必ず挨拶に来る慣習で、その時はういろう売りのせりふの一枚摺りを届けて来た。同家ではこれを印刷にして希望者にわけているが、『歌舞伎年代記』に載せるものと、大異はない。いま、年代記にこれを照合して、せりふの全文を掲げる。