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民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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「目の見えない人は世界をどう見ているのか」 その11 伊藤 亜紗

2017年05月11日 00時08分24秒 | 雑学知識
 「目の見えない人は世界をどう見ているのか」 その11 伊藤 亜紗  光文社新書 2015年

 「見えない人にとっての富士山と、見える人にとっての富士山」 その2 P-64

 三次元を二次元化することは、視覚の大きな特徴のひとつです。「奥行きのあるもの」を「平面イメージ」に変換してしまう。とくに、富士山や月のようにあまりに遠くにあるものや、あまりに巨大なものを見るときには、どうしても立体感が失われてしまいます。もちろん、富士山や月が実際に薄っぺらいわけではないことを私たちは識知っています。けれども視覚がとらえる二次元的なイメージが勝ってしまう。このように視覚にはそもそも対象を平面化する傾向があるのですが、重要なのは、こうした平面性が、絵画やイラストが提供する文化的なイメージによってさらに補強されていくことです。

 私たちが現実の物を見る見方がいかに文化的なイメージに染められているかは、たとえば木星を思い描いてみれば分かります。木星と言われると、多くの人はあのマーブリングのような横縞の入った茶色い天体写真をを思い浮かべるでしょう。あの縞模様の効果もありますが、木星はかなり三次元的にとらえられているのではないでしょうか。それに比べると月はあまりに平べったい。満ち欠けするという性質も平面的な印象を強めるのに一役買っていそうですが、なぜ月だけがここまで二次元的なのでしょう。

 その理由は、言うまでもなく、子どものころに読んでもらった絵本やさまざまなイラスト、あるいは浮世絵や絵画の中で、私たちがさまざまな「まあるい月」を目にしてきたからでしょう。紺色の黄色の丸――月を描くのにふさわしい姿とは、およそこうしたものでしょう。

「目の見えない人は世界をどう見ているのか」 その10 伊藤 亜紗 

2017年05月09日 00時02分38秒 | 雑学知識
 「目の見えない人は世界をどう見ているのか」 その10 伊藤 亜紗  光文社新書 2015年

 「見えない人にとっての富士山と、見える人にとっての富士山」  その1 P-64

 見える人と見えない人の空間把握の違いは、単語の意味の理解の仕方にもあらわれてきます。空間の問題が単語の意味にかかわる、というのは意外かもしれません。けれども、見える人と見えない人では、ある単語を聞いたときに頭の中に思い浮かべるものが違うのです。

 たとえば「富士山」。これは難波さんが指摘した例です。見えない人にとって富士山は、「上がちょっと欠けた円錐形」をしています。いや、じっさいに富士山は上がちょっと欠けた円錐形をしているわけですが、見える人はたいていそのようにとらえていないはずです。

 見える人にとって、富士山とはまずもって「八の字の末広がり」です。つまり「上が欠けた円錐形」ではなく「上が欠けた三角形」としてイメージしている。平面的なのです。月のような天体についても同様です。見えない人にとって月とはボールのような球体です。では、見える人はどうでしょう。「まんまる」で「盆のような」月、つまり厚みのない円形をイメージするのではないでしょうか。


「目の見えない人は世界をどう見ているのか」 その9 伊藤 亜紗

2017年05月07日 00時11分39秒 | 雑学知識
 「目の見えない人は世界をどう見ているのか」 その9 伊藤 亜紗  光文社新書 2015年

 「踊らされない安らかさ」 P-55

 もちろん、難波さんも失明した当初は情報の少なさにかなりとまどったと言います。とまどったというより、それは「飢餓感」と言うべきものだったそうです。
「最初はとまどいがあったし、どうやったら情報を手に入れられるか、ということに必死でしたね。(……)そういった情報がなくてもいいやと思えるようになるには2、3年かかりました。これくらいの情報量でも何とか過ごせるな、と。自分がたどり着ける限界の先にあるもの、意識の地平線より向こう側にあるものにはこだわる必要がない、と考えるようになりました。さっきのコンビニの話でいえば、キャンペーンの情報などは僕の意識には届かないものなので、特に欲しいとも思わない。認識しないものは欲しがらない。だから最初の頃、携帯を持つまでは、心が安定していましたね。見えてた頃はテレビだの携帯だのずっと頭の中に情報を流していたわけですが、それが途絶えたとき、情報に対する飢餓感もあったけど、落ち着いていました」。

 見えないという条件で脳内に作られるコンビニ空間のイメージは、どうしたって見えていたときに目がとらえていたコンビニの空間とは違います。おそらくは、入り口と、よく買う商品と、レジの位置がマークされた星座のような空間でしょう。

「見えない世界の新人」のうちは、どうしてもこれを欠如としてとらえてしまっていた。しかし次第に、脳が作り上げたその新しいコンビニ空間で十分に行動できることが分かってくる。そのことに納得して歩くことができたとき、踊らされないで進むことの安らかさを、難波さんは悟ったのではないでしょうか。

「目の見えない人は世界をどう見ているのか」 その8 伊藤 亜紗 

2017年05月05日 00時02分22秒 | 雑学知識
 「目の見えない人は世界をどう見ているのか」 その8 伊藤 亜紗  光文社新書 2015年

 「見えない世界というのは情報量がすごく少ないんです」 P-54

 (前略)中途失明者の難波創太さんは、視力を失ったことで、「道」から、都市空間による「振り付け」から解放された経験について語っています。
「見えない世界というのは情報量がすごく少ないんです、コンビニに入っても、見えたころはいろいろな美味しそうなものが目に止まったり、キャンペーンの情報が入ってきた。でも見えないと、欲しいものを最初に決めて、それが欲しいと店員さんに言って、買って帰るというふうになるわけですね」。

 周知の通りコンビニの店内は、商品を配列する順番から高さまで、売上を最大化するための「振り付け」がもっとも周到に計算された空間のひとつです。うかうかしていると公共料金を払いに来たのについでにプリンを買ってしまったりする。

 ところが難波さんは、見えなくなったことで、そうした目に飛び込んでくるものに惑わされなくなった。つまりコンビニに踊らされなくなったわけです。あらかじめ買うものを決めて、その目的を遂行するような買い方になります。目的に直行するというとがむしゃら人人間のようですが、むしろ逆でしょう。むろん個人差はあるでしょうが、見える人の手足が目の前の刺激に反応してつい踊り出してしまうのに対して、見えない人はもっとゆったり、俯瞰的にものごとをとらえているのかもしれません。

「目の見えない人は世界をどう見ているのか」 その7 伊藤 亜紗

2017年05月03日 00時21分52秒 | 雑学知識
 「目の見えない人は世界をどう見ているのか」 その7 伊藤 亜紗  光文社新書 2015年

 「見えないことと目をつぶること」 その3

 それはいわば、四本脚の椅子と三本脚の椅子と違いのようなものです。もともと脚が四本ある椅子から一本取ってしまったら、その椅子は傾いてしまいます。壊れた、不完全な椅子です。でも、そもそも三本の脚で立っている椅子もある。脚の配置を変えれば、三本でも立てるのです。

 脚の配置によって生まれる、四本のバランスと三本のバランス。見えない人は、耳の働かせ方、足腰の能力、はたまた言葉の定義などが、見える人とはちょっとずつ違います。ちょっとずつ変えることで、視覚なしでも立てるバランスを見つけているのです。

 変身するとは、そうした視覚抜きのバランスで世界を感じてみるということです。脚が一本ないという「欠如」ではなく、三本が作る「全体」を感じるということです。
 異なるバランスで感じると、世界は全く違って見えてきます。つまり、同じ世界でも見え方、すなわち「意味」が違ってくるのです。

 この「意味」というものをめぐって、本書は最初から最後まで書かれているといっても過言ではありません。意味にはおのずと生まれるものと、意識的に与えるものがありますが、本書ではその両方を扱っていきます。