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民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「素読のすすめ」 その6 安達 忠夫

2017年01月11日 00時06分11秒 | 文章読本(作法)
 「素読のすすめ」 その6 安達 忠夫(1944年生まれ)  講談社現代新書 1986年

 「テキストの種類」 P-160

 いろいろ回り道をしてきたが、とどのつまり、素読は理屈ではない。文字通り、素人の立場で素直に読むこと、心をむなしくして、ひたすら読んでいくことである。「素」というのは、まだ色を染めていない、生地のままの白絹のことだという。

 だが、わたしたちは、いったい、どのような染料で心を染めるつもりなのか。何を読んだらいいのか。もちろん、何でもなければならないというきまりはない。素読の対象となるのは、漢文にかぎらず、日本の古典や現代文、外国および外国語の古典など、書かれたものはすべて、素読のテキストになりうる。絵本でも、マンガでも、週刊誌でも、かまわない。ただし、やがてそれが、あなたの白絹(?)を染めることになるのだ。

 テキスト選びの段階ですでに迷わざるをえないところに、わたしたち自由恋愛の時代の幸福と不幸、豊かさと貧しさがある。昔は親のきめた許嫁のように、四書五経とか、聖書とか、あらかじめのテキストが定まっていた。選択の楽しみもない代わりに、選択の迷いもなかった。

 だから、あなたが素読を思いたったとき、すでに意中のテキストがはっきりと決まっているのなら、即刻開始するのがいちばんだ。何よりも、この本に賭けてみようという意気込みと、いつか相手が心をひらいて、わたしの思いを受け入れてくれるだろうかという謙虚さが、素読というこの「愚か」にも似た営みをささえている。



「素読のすすめ」 その5 安達 忠夫

2017年01月09日 00時18分39秒 | 文章読本(作法)
 「素読のすすめ」 その5 安達 忠夫(1944年生まれ)  講談社現代新書 1986年

 「中村正直と明六社」 P-55

 徳川三百年の平和は、まがりなりにも儒教のイデオロギーによって支えられてきた。今やしかし,旧体制の崩壊に直面して、日本国民は指針を見失い、新時代をになうに足りる実践的な思想をもとめていた。

 福沢諭吉とならんで明治の青年たちに大きな影響を与えた中村正直(1832~91)の名は、スマイルズの『西国立志編』の翻訳者として以外、今日まであまり知られていないが、活発な文筆活動を通じてだけでなく、教育者として地道な足跡をのこした点でも両者は非常に似通っている。諭吉が文明開化の知的側面を推進する啓蒙思想家だとすれば、正直はその道徳的側面を代表する一人だといってよかろう。儒者であり、同時にすぐれた洋学者でもあった正直は、西洋文明の精髄をキリスト教に見いだし、儒教とキリスト教の一致点を真剣に模索して、ついには受洗するに至る。

 明治6年、アメリカから帰朝したばかりの森有礼の提唱で、啓蒙思想家の学術団体である「明六社」が結成された。初代社長の森有礼以下、福沢諭吉、西周、西村茂樹、津田真道など11名、中村正直もこれに参加している。その後、会員は30余名にふえるが、いずれも下級武士層の出身者であり、漢学の素養を土台として早くから外国語の知識を身につけた人々であるという点で共通している。

 翌年から『明六雑誌』を発刊、毎号20ページたらずの小冊子だが、日本の雑誌のはじまりといわれ、文明開化の象徴として指導的な役割を果たしていった。
 

「素読のすすめ」 その4 安達 忠夫

2017年01月07日 16時49分58秒 | 文章読本(作法)
 「素読のすすめ」 その4 安達 忠夫(1944年生まれ)  講談社現代新書 1986年

 「明治の漢学の盛衰」 P-54

 明治5年、西欧(とくにフランスの制度)にならった学制の改革がおこなわれ、私塾、寺子屋、藩校などは閉鎖を命じられた。漢学でつちかわれた底力が明治維新を支えてきたにもかかわらず、この年を境目にして欧化の波はいよいよ激しく岸辺を洗い、薩長出身の出世組も、旧藩の下級武士の出身者も、またそれ以外の庶民も、我先にヨーロッパ語の学習に身を投じつつあった。

 ところが西南戦争平定のあと、板垣退助を中心とする自由民権運動がさかんになるにつれ、文部省は西洋思想心酔の行き過ぎを心配して、東洋道徳重視の方向を打ち出し、漢学塾がふたたび隆盛をみるにいたる。

 明治18年、伊藤博文の新内閣組閣にともない森有礼が文部大臣になったので、またしても極端な欧化模倣の時代が訪れ、これが20年ごろまで続く。

 幕末から明治前半にかけて、羅針盤が目まぐるしく動き、五里霧中、和漢蘭洋どちらの岸辺を目指しているのかよく分からんようというのが、庶民の実感であったろう。

「素読のすすめ」 その3 安達 忠夫

2017年01月05日 01時35分56秒 | 文章読本(作法)
 「素読のすすめ」 その3 安達 忠夫(1944年生まれ)  講談社現代新書 1986年

 「明治維新の共通語」 P-51

 幕末から維新にかけて、諸藩の武士たちは国事に奔走し、会合をもつことがふえた。けれども方言の違いが大きすぎて、なかなか話がかみあわない。いろいろ頭をひねった挙句、武士のたしなみであった謡曲のことばと発音を用いてみたら、案外うまく通じるようになったという。
 漢語が流行しはじめたのも、まさにこの時代である。文語としての性格が強かった漢語には、方言の影響がほとんどなく、ヨーロッパにおけるラテン語のように、知識人たちの共通語としての役割を果たすことができたわけである。江戸が東京に改められただけではない。たとえば、それまで髪結床あるいは髪床だったのが「理髪店」になり、八っつあん、熊さん連中は、もしも漢字が読めたなら、看板を見て大いに面食らったにちがいない。漢文に対する意味で国語という名称が用いられるようになった。書生は謝る気もないくせに、やたらと「失敬」を連発し、女学生は「失礼しちまうわ」などと応酬する。新聞、社説、汽車、鉄道、停車場、自転車などの翻訳語が、短くて造語力のある漢字に頼ったことは言うまでもない。

 中略

 明治維新の功労者たちはほとんど下級武士の出身で、彼らの思想や学問の根底をつちかったのは漢学であった。後で蘭学や英学に切りかえた者も多いが、幼い頃からみな素読の基礎訓練を受け、たんに漢籍を読みこなすだけでなく、自らの思想や感慨を漢文や漢詩に託すことができた。
 江戸後期に頂点を迎えたその伝統は、中江兆民、森鴎外、夏目漱石などの時代にいたるまで続き、それ以後、西欧文化の受容にともなって急速にすたれていく。


「素読のすすめ」 その2 安達 忠夫

2017年01月03日 00時10分03秒 | 文章読本(作法)
 「素読のすすめ」 その2 安達 忠夫(1944年生まれ)  講談社現代新書 1986年

 「素読をやったことのメリット」 P-36

 前略(著者と貝塚秀樹との対談)

――『日本と日本人』というエッセーの中で、先生は中国文化と日本文化の感性のズレについて触れ、日本回帰ということをお書きになっていましたが、漢文についてはいかがでしょう。ほとんど日本語の古典のようにお感じになりますか?

 「本居宣長は古事記や万葉を言いますが、日本語にはもともと文章の骨格がない。原始のままの日本語だけではやはり無理でしょう。漢文が入ってきたので、日本語ができていった。漢文はわりあい形式が決まっており、論理的です。西洋のことばを日本語に訳すにも、漢文がなければ訳しきれない。漢文を読んでいたので、明治維新のときのも外国文を読みこなすことが速かったのとちがいますか。漢文の力がなかったら、明治はあんなに速く発達しなかったでしょうね」

――先生の同じエッセーに出てくる、内藤虎次郎先生の「ニガリ説」を思い出しましたが、あれはつまり、外来の刺激が働いて日本固有の文化が形をなすという意味ですか?

「ええ、中国文化がニガリとなって、日本の文化をつくった。万葉だけでは、まだ固まらない豆腐のようなものです。漢文は外国の古典でありながら、日本のものになりきっており、日本語はもはやそれなしには考えられなくなっている」