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「素読のすすめ」 その2 安達 忠夫

2017年01月03日 00時10分03秒 | 文章読本(作法)
 「素読のすすめ」 その2 安達 忠夫(1944年生まれ)  講談社現代新書 1986年

 「素読をやったことのメリット」 P-36

 前略(著者と貝塚秀樹との対談)

――『日本と日本人』というエッセーの中で、先生は中国文化と日本文化の感性のズレについて触れ、日本回帰ということをお書きになっていましたが、漢文についてはいかがでしょう。ほとんど日本語の古典のようにお感じになりますか?

 「本居宣長は古事記や万葉を言いますが、日本語にはもともと文章の骨格がない。原始のままの日本語だけではやはり無理でしょう。漢文が入ってきたので、日本語ができていった。漢文はわりあい形式が決まっており、論理的です。西洋のことばを日本語に訳すにも、漢文がなければ訳しきれない。漢文を読んでいたので、明治維新のときのも外国文を読みこなすことが速かったのとちがいますか。漢文の力がなかったら、明治はあんなに速く発達しなかったでしょうね」

――先生の同じエッセーに出てくる、内藤虎次郎先生の「ニガリ説」を思い出しましたが、あれはつまり、外来の刺激が働いて日本固有の文化が形をなすという意味ですか?

「ええ、中国文化がニガリとなって、日本の文化をつくった。万葉だけでは、まだ固まらない豆腐のようなものです。漢文は外国の古典でありながら、日本のものになりきっており、日本語はもはやそれなしには考えられなくなっている」