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「素読のすすめ」 その3 安達 忠夫

2017年01月05日 01時35分56秒 | 文章読本(作法)
 「素読のすすめ」 その3 安達 忠夫(1944年生まれ)  講談社現代新書 1986年

 「明治維新の共通語」 P-51

 幕末から維新にかけて、諸藩の武士たちは国事に奔走し、会合をもつことがふえた。けれども方言の違いが大きすぎて、なかなか話がかみあわない。いろいろ頭をひねった挙句、武士のたしなみであった謡曲のことばと発音を用いてみたら、案外うまく通じるようになったという。
 漢語が流行しはじめたのも、まさにこの時代である。文語としての性格が強かった漢語には、方言の影響がほとんどなく、ヨーロッパにおけるラテン語のように、知識人たちの共通語としての役割を果たすことができたわけである。江戸が東京に改められただけではない。たとえば、それまで髪結床あるいは髪床だったのが「理髪店」になり、八っつあん、熊さん連中は、もしも漢字が読めたなら、看板を見て大いに面食らったにちがいない。漢文に対する意味で国語という名称が用いられるようになった。書生は謝る気もないくせに、やたらと「失敬」を連発し、女学生は「失礼しちまうわ」などと応酬する。新聞、社説、汽車、鉄道、停車場、自転車などの翻訳語が、短くて造語力のある漢字に頼ったことは言うまでもない。

 中略

 明治維新の功労者たちはほとんど下級武士の出身で、彼らの思想や学問の根底をつちかったのは漢学であった。後で蘭学や英学に切りかえた者も多いが、幼い頃からみな素読の基礎訓練を受け、たんに漢籍を読みこなすだけでなく、自らの思想や感慨を漢文や漢詩に託すことができた。
 江戸後期に頂点を迎えたその伝統は、中江兆民、森鴎外、夏目漱石などの時代にいたるまで続き、それ以後、西欧文化の受容にともなって急速にすたれていく。