民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「徒然草」 第137段 花は盛りに(その2)

2016年02月08日 00時11分50秒 | 古典
 「徒然草」 吉田兼好 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 角川ソフィア文庫 2002年

 初めと終わりの美学――花は盛りに 第137段(その2) (「清貧の思想」中野孝次の中で紹介)

 何事においても、最盛そのものではなく、最盛に向かう始めと最盛を過ぎた終わりとが味わい深いものなのだ。男女の恋愛においても、ただただ相思相愛で結ばれる仲だけが最高といえるだろうか。そんな仲だけではなく、相手と結ばれずに終わった辛さに悩んだり、相手の変心から婚約が破棄されたことを嘆き、長い夜を独り寝で明し、遠い雲の下にいる相手に思いをはせ、荒れ果てた住まいを相手と過ごした当時をしのんだりする態度こそ恋の真味を知るものといえよう。一点の曇りもなく輝きわたる満月を遥かに遠い天空のかなたに眺めるのよりも、明け方近くになって、待ちに待ってようやく出てきた月が、心が揺さぶるような青みがかった樹間から漏れるその月の光や、時折時雨を降らせる一群の雲に隠れている月のようすなどは最高に心に深くしみるものだ。また、椎柴や白樫などの、濡れたように艶のある木の葉の上に反射して、きらきら輝く月の光は体の奥までしみこむように感じられて、今ここに、この月の風情をわかる友がいたらなあと、友のいる都が恋しくなってくる。


「徒然草」 第137段 花は盛りに(その1) 

2016年02月06日 00時03分03秒 | 古典
 「徒然草」 吉田兼好 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 角川ソフィア文庫 2002年

 初めと終わりの美学――花は盛りに 第137段(その1) (「清貧の思想」中野孝次の中で紹介)

 桜の花は満開だけを、月は満月だけを見て楽しむべきものだろうか。いや、そうとは限らない。物事の最盛だけを鑑賞することがすべてではないのだ。

 たとえば、月を覆い隠している雨に向かって、見えない月を思いこがれ、あるいは、簾を垂れた部屋に閉じこもり、春が過ぎていく外のようすを目で確かめることもなく想像しながら過ごすのも、やはり、優れた味わい方であって、心に響くような風流な味わいを感じさせる。

 今にも花開きそうな蕾の桜の梢や、桜の花びらが落ちて散り敷いている庭などは、とりわけ見る価値が多い。作歌の事情を記した詞書も、「花見に出かけたところ、もうすでに花が散ってしまっていて見られなかった」とか、「用事があって花見に出かけず、花を見なかった」などと書いてあるのは、「実際に花を見て」と書くのに、劣っているだろうか。そんなことはない。

 確かに、桜が散るのや、月が西に沈むのを名残惜しむ美意識の伝統はよくわかる。けれども、まるで美というものに無関心な人間に限って、「この枝も、あの枝も散ってしまった。盛りを過ぎたから、もう見る価値はない」と、短絡的に決めつけるようだ。

「徒然草」 第93段 牛を売る者

2016年02月04日 01時14分11秒 | 古典
 「徒然草」 吉田兼好 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 角川ソフィア文庫 2002年

 生と死は隠れたコンビ――牛を売る者 第93段 (「清貧の思想」中野孝次の中で紹介)

 「牛を売る者がいた。買う者は、明日代金を払って牛を引き取ろうと言う。ところがその夜、牛が死んでしまう。とすれば当然、買う者は代金を払わずにすんで得をし、売る者はそのぶん損をしたことになる」と語る者がいた。

 この話をそばで聞いていた男が、「確かに牛の持ち主は損をしたことになるが、一方で大きな得をしている。その理由はこうだ。命あるものが、迫り来る自分の死に気づかないのは、この牛がいい見本だ。人間もまた同じ。何の予感もなく牛は死に、何の予感もなく持ち主は生きながらえた。この牛の死によって、持ち主は、一日の命はどんな大金よりも貴重であり、ところが、牛の代金なんぞガチョウの羽よりも軽いことを悟ったのだ。だから、どんな大金より重い一日の命を得て、軽い牛の代金を失った持ち主が、損をしたといえるはずがない」と言った。

 すると、その場の人々は皆、この男をばかにして、「そんな理屈があてはまるのは、なにもこの牛の持ち主だけに限るわけではない。今こうして生きている者は皆、得をしていることになるじゃないか」と言い立てた。

「徒然草」 第75段 つれづれわぶる人

2016年02月02日 00時05分12秒 | 古典
 「徒然草」 吉田兼好 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 角川ソフィア文庫 2002年

 孤独の哲学――つれづれわぶる人 第75段 (「清貧の思想」中野孝次の中で紹介)

 時間をもてあます人の気が知れない。何の用事もなくて、独りでいるのが、人間にとっては最高なのだ。

 世の中のしきたりに合わせると、欲に振り回されて迷いやすい。人と話をすると、ついつい相手のペースに合わせ、自分の本心とは違った話をしてしまう。世間とのつき合いでは、一喜一憂することばかりで、平常心を保つことはできない。あれこれ妄想がわいてきて、損得の計算ばかりする。完全に自分を見失い、酔っぱらいと同じだ。酔っぱらって夢を見ているようなものだ。せかせか動き回り、自分を見失い、ほんとうにやるべきことを忘れている。それは、人間誰にもあてはまることだ。

 まだこの世の真理を悟ることはできなくても、煩わしい関係を整理して静かに暮らし、世間づきあいを止めて、ゆったりした気持ちでほんらいの自分をとりもどす。これこそが、ほんの短い間でも、真理に近づく喜びを味わうといってよいのである。

 日常の雑事、義理づきあい、もろもろの術、がり勉なんかとは縁を切れ、というふうに『摩訶止観』(中国天台宗の根本聖典)にも書いてありますよ。