民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「文章読本」 谷崎潤一郎 その5

2016年02月22日 00時03分50秒 | 文章読本(作法)
 「文章読本」 谷崎潤一郎 中公文庫 1975年(昭和50年)初版 

 1、文章とは何か

 ○現代文と古典文 (その1) P-36

 (前略)

 しかしながら、現代の口語文に最も欠けているものは、眼よりも耳に訴える効果、即ち音調の美であります。今日の人は「読む」と言えば普通「黙読する」意味に解し、また実際に声を出して読む習慣がすたれかけて来ましたので、自然文章の音楽的要素が閑却されるようになったのでありましょうが、これは文章道のために甚だ嘆かわしいことであります。西洋、殊にフランスあたりでは、詩や小説の朗読法が大いに研究されていまして、しばしば各種の朗読会が催される、そうして古典ばかりでなく、現代の作家のものも常に試みられるということでありますが、かくてこそ文章の健全なる発達を期することが出来ますので、彼の国の文藝の盛んなのも偶然でありません。それに反して、わが国においては現に朗読法というものがなく、またそれを研究している人を聞いたことがない。(中略)たとい音読の習慣がすたれかけた今日においても、全然声というものを想像しないで読むことは出来ない。人々は心の中で声を出し、そうしてその声を心の耳に聴きながら読む。黙読とはいうものの、結局は音読しているのである。既に音読している以上は、何かしら抑揚頓挫やアクセントを附けて読みます。然るに朗読法というものが一般に研究されていませんから、その抑揚頓挫やアクセントの附け方は、各人各様、まちまちであります。それでは折角リズムに苦心をして作った文章も、間違った節で読まれるという恐れがあるので、私のように小説を職業とする者には、取り分け重大な問題であります。私はいつも、自分の書くものを読者がどういう抑揚を附けて読んでくれるかということが気になりますが、それというもの、こういう種類の文章はこういう風な節で読むという、大よその基準が示されていないからであります。

 (その2に続く)