「文章読本」 谷崎潤一郎 中公文庫 1975年(昭和50年)初版
1、文章とは何か
○現代文と古典文 (その3) P-40
(その2の続き)
(前略)
かく申しましたならば、「分らせるように」書くことと「記憶させるように」書くこととは、二にして一であることがお分かりになったでありましょう。即ち真に「分らせるように」書くためには「記憶させるように」書くことが必要なのであります。言い換えれば、字面の美と音調の美とは単に読者の記憶を助けるのみでなく、実は理解を補うのである。この二条件を備えていなければ、意味が完全には伝わらないのである。
(中略)
字面と音調、これを私は文章の感覚的要素と呼びますが、こえが備わっていないげん大の口語文は、文章として不具の発達を遂げたものでありまして、祝辞や弔辞などに今も和漢混交文が用いられるという事実は、口語文が朗読に適さないことを雄弁に物語っているのであります。然るに古典の文章はこの感覚的要素を多分に備えているのでありますから、われわれは大いに古典を研究して、その長所を学ばなければなりません。また和歌や俳句なども、この意味において非常に参考になるのであります。もともと韻文というものは字面と音調とに依って生きているのでありますから、これこそ国文の粋とも申すべきもので、散文を作る上にもその精神を取り入れることが重要であります。
(後略)
1、文章とは何か
○現代文と古典文 (その3) P-40
(その2の続き)
(前略)
かく申しましたならば、「分らせるように」書くことと「記憶させるように」書くこととは、二にして一であることがお分かりになったでありましょう。即ち真に「分らせるように」書くためには「記憶させるように」書くことが必要なのであります。言い換えれば、字面の美と音調の美とは単に読者の記憶を助けるのみでなく、実は理解を補うのである。この二条件を備えていなければ、意味が完全には伝わらないのである。
(中略)
字面と音調、これを私は文章の感覚的要素と呼びますが、こえが備わっていないげん大の口語文は、文章として不具の発達を遂げたものでありまして、祝辞や弔辞などに今も和漢混交文が用いられるという事実は、口語文が朗読に適さないことを雄弁に物語っているのであります。然るに古典の文章はこの感覚的要素を多分に備えているのでありますから、われわれは大いに古典を研究して、その長所を学ばなければなりません。また和歌や俳句なども、この意味において非常に参考になるのであります。もともと韻文というものは字面と音調とに依って生きているのでありますから、これこそ国文の粋とも申すべきもので、散文を作る上にもその精神を取り入れることが重要であります。
(後略)