民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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「虫の季節」 向田 邦子

2016年02月12日 00時08分56秒 | エッセイ(模範)
 「虫の季節」 「霊長類ヒト科動物図鑑」より 向田 邦子 文藝春秋文庫 1984年

 器用貧乏なほうで融通の利くたちだから、どんな商売でも何とかやれると自惚れているが、ふたつだけは駄目である。
 ひとつはボタン屋である。
 生れつき整理整頓ということが出来ない性分で、特に、もとあったところへ戻して置くという単純なことが出来ない。
 耳掻きでも鋏でも、あとで戻しておけばいいや、というのでそのへんに突っ込んで置き、判らなくなってしまうのである。
 私がボタン屋の店員になったが最後あの気の遠くなるほど沢山の種類のボタンは、分類別の抽斗に戻らずバラバラになって、客に言われたボタンが出てこないに決まっている。
 もうひとつ、これこそ絶対に出来ないのはスパイである。
 ブン殴られたり蹴っとばされたりは、明治生れの父親に鍛えられているからかなり頑張れるほうだと思うが、峨と蝶々を押っつけられたらもう駄目である。
 ギャアと一声。国家の機密だろうと何だろうとジャンジャン洩らしてしまうに決まっている。
 蝉。とんぼ、毛虫、ゴキブリ。とにかく虫と名のつくものはみな駄目である。
 なにしろ本屋の書棚で「羽蟻のいる丘」という題名を見ただけで、北杜夫氏には何の恨みもないのだが、総毛立ってくるのだから、これからの季節は大変である。

 たしか五つか六つのときだった。
 季節も今時分、夏のさかりだったと思う。
 今でもその傾向があるのだが、私は寝起きにぼんやりする癖がある。そのときも、半分目をつぶったままという感じで洗面所にゆき、グブグブと音だけ立てて口をゆすぎ、目のところだけおしるしに水につけた。
 目をつぶったまま、くるりとうしろを向き、決まりの位置にかけてある自分のタオルを、タオル掛けからはずさず、そのまま顔を拭いた。
 何かが顔にあたった。
 いやにゴソゴソする。洗濯バサミにしてはやわらかい。
 タオルにくっついていたのは、キリギリスであった。
 私は大声を上げて泣き叫んだ。そばの小部屋の母の鏡台のところで、革砥で剃刀を砥いでいた父が飛んできた。
 キリギリスの肢が、細かいイガイガが生えているせいであろう、ピクピク動きながら私の眉のところに引っかかって取れない。ほっぺたのところにも、なにかくっついている。青臭い匂い。その気持の悪いといったらなかった。
 父も虫は嫌いなたちで、毛虫もつまめない人間だが、さすがに男親である。一世一代の勇気を振りしぼったのだろう、私の顔にくっついたキリギリスのなきがらを取ってくれた。
 尚も激しく泣き叫ぶ私を小突きながら、
「泣きたいのはキリギリスのほうだだろう。馬鹿!」
 とどなった。
 私の虫嫌いはますます本格的になった。

 ネズミを獲る猫をネコといい、蛇を獲ってくるのをヘコ、とんぼをつかまえるのがうまいのをトコという、と書いたのを読んだことがある。
 庭のある一戸建てに住んでいた時分に飼っていた黒猫は、スコであった。つまり雀獲りの名手なのである。
 霜が下りているような寒い朝でも、彼は植え込みのかげに腹這いになって雀を待った。
 三羽、五羽と芝生に下りてきて、羽虫をついばんでいる雀が、ひと安心した頃合いを狙って踊りかかるのである。滅多にハズしたことはなかったが、それでもたまにしくじることがある。
 雀が一瞬早く猫に気がつき、パッと飛び立ってしまうのである。こういう場合彼は、必ず同じ動作をした。
 その場で急にせわしなく毛づくろいをするのである。失敗したテレかくしかな、と思い、それにしてもしくじるたびに同じ動作をするので、面白半分に動物学の専門書を見つけて調べてみた。
「すり替えのエネルギー」というのであった。何かしようとするエネルギーが急に中止になった場合、もってゆき場がなくなる。そこで同じ程度のアクションをしてエネルギーを使って埋め合わせをするらしい。
 猫のおかげでひとつ利口になったわけだが、この雀専門のスコが、ヒルネをしている私のそばへ来てじゃれ、顔をなめて遊んでくれとせがんだ。
 いやになまぐさい。餌の魚でも食べてきたのかしら、とひょいと目を開けたら、私の顔のすぐ横に半分食べかけの蝉がころがっていた。
 私の叫び声は、子供の頃キリギリスで顔を拭いたときと同じだったに違いない。気がついたら、猫を二つ三つブン殴り、水風呂に入って体を洗っていた。雀専門のスコだと思っていたら、蝉もとるセコだったのである。

 車も持たず腕時計、電気洗濯機、ピアノ、夫、子供、別荘、なんにも持っていない私を可哀そうに思うのだろう、前はよく友達が自分の別荘に招いてくれた。
 はたから見ているといいようだが、別荘というのも自分で持ってみると、なかなか手のかかるものである。
 専従の管理人を置いておけば別だが、行ってみると、蜘蛛の巣が張っていたり、二、三日を人に貸したあとだと、炊飯器にご飯を残し忘れ、すさまじい青黴になっていたりする。アベックでも忍び込んだのか、サン・ルームの窓ガラスが割れ、落花狼藉、子供連れだったら、あわてて目隠しをしなくてはならないものが落ちていたりする。だが、私にとってそんなものはいいのである。
 困るのは虫である。
 どこから忍び込んだのか、天井の隅にはりついている蛾を、一匹残らず外へ追い出してもらわないと、ご不浄にもお風呂にも入れないのである。
 蛾がこわい、と金切り声をあげて似合う年でも柄でもないことは百も承知で、食事中、網戸の向こう側に灯を慕ってへばりついている蛾を指さし、
「あ、いま、あの蛾と目が合った」などと叫んだりする。
 とても面倒がみきれないというわけであろう、去年あたりから誰も声をかけてくれなくなってしまった。
 自業自得である。
 今年の夏は、虫がいないだけが取柄の四角いコンクリートの部屋で、テレビの脚本を書いて過ごすことにしよう。
 そんなわけで虫篇のつく字でただひとつ好きなのは「虹」という字だけなのである。

 原稿用紙 7枚と4行