民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「文章読本」 谷崎潤一郎 その3

2016年02月18日 00時33分41秒 | 文章読本(作法)
 「文章読本」 谷崎潤一郎 中公文庫 1975年(昭和50年)初版 

 1、文章とは何か

 ○言語と文章 (その2)

 そういう訳で、言語は非常に便利なものでありますが、しかし人間が心に思っていることなら何でも言語で現せる、言語を以って表白出来ない思想や感情はない、という風に考えたら間違いであります。今もいうように、泣いたり、笑ったり、叫んだりする方が、却ってその時の気持ちにぴったり当てはまる場合がある。黙ってさめざめと涙を流している方が、くどくど言葉を費やすよりも千万無量の思いを伝える。もっと簡単な例を挙げますと、鯛を食べたことのない人に鯛の味を分らせるように説明しろといったらば、皆さんはどんな言葉を択びますか。恐らくどんな言葉を以っても言い現わす方法がないでありましょう。さように、たった一つの物の味でさえ伝えることが出来ないのでありますから、言語というものは案外不自由なものでもあります。のみならず、思想に纏まりをつけるという働きがある一面に、思想を一定の型に入れてしまうという欠点があります。たとえば紅い花を見手も、各人がそれを同じ色に感ずるかどうかは疑問でありまして、眼の感覚のすぐれた人は、その色の中に常人には気がつかない複雑な美しさを見るかも知れない。その人の眼に感ずる色は、普通の「紅い」という色とは違うものであるかも知れない。しかしそういう場合にそれを言葉で現そうとすれば、とにかく「紅(あか)」に一番近いのでありますから、やはりその人は「紅い」というでありましょう。つまり「紅い」という言葉があるために、その人のほんとうの感覚とは違ったものが伝えられる。言葉がなければ伝えられないだけのことでありますが、あるために害をすることがある。これは後に詳しく説く機会がありますから、今はこれ以上申しませんが、返す返すも言語は万能なものではないこと、その働きは不自由であり、時には有害なものであることを、忘れてはならないのであります。

 (その3に続く)

「文章読本」 谷崎潤一郎 その2

2016年02月16日 00時04分52秒 | 文章読本(作法)
 「文章読本」 谷崎潤一郎 中公文庫 1975年(昭和50年)初版 

 1、文章とは何か

 ○言語と文章 (その1)

 人間が心に思うことを他人に伝え、知らしめるのには、いろいろな方法があります。たとえば悲しみを訴えるのには、かなしい顔つきをしても伝えられる。物が食いたい時は手真似で食う様子をして見せても分る。その外、泣くとか、呻るとか、叫ぶとか、睨むとか、嘆息するとか、殴るとかいう手段もありまして、急な、激しい感情を一息につたえるのには、そういう原始的な方法の方が適する場合もありますが、しかしやや細かい思想を明瞭に伝えようとすれば、言語に依るより外はありません。言語がないとどんなに不自由かということは、日本語の通じない外国へ旅行してみると分ります。

 なおまた、言語は他人を相手にする時ばかりでなく、ひとりで物を考える時にも必要であります。われわれは頭の中で「これをこうして」とか「あれをああして」とかいう風に独りごとを言い、自分で自分に言い聴かせながら考える。そうしないと、自分の思っていることがはっきりせず、纏まりがつきにくい。皆さんが算術や幾何の問題をかんがえるのにも、必ず頭の中で言語を使う。われわれはまた、孤独を紛らすために自分で自分に話しかける習慣があります。強いて物を考えようとしないでも、独りでぽつねんとしている時、自分の中にあるもう一人の自分が、ふと囁きかけて来ることがあります。それから、他人に話すのでもなく、自分の言おうとすることを一遍心で言ってみて、然る後口に出すこともあります。普通われわれが英語を話す時は、まず日本語で思い浮かべ、それを頭の中で英語に訳してからしゃべりますが、母国語で話す時でも、むずかしい事柄を述べるのには、しばしばそういう風にする必要を感じます。されば言語は思想を伝達する機関であると同時に、思想に一つの形態を与える、纏まりをつける、という働きを持っております。

 (その2に続く)

「文章読本」 谷崎潤一郎 その1

2016年02月14日 01時19分49秒 | 文章読本(作法)
 「文章読本」 谷崎潤一郎 中公文庫 1975年(昭和50年)初版 

 この読本は、いろいろの階級の、なるべく多くの人々に読んで貰う目的で、通俗を旨として書いた。従って専門の学者や文人に見て頂けるような書物でないことは、論を待たない。それにしても、今まで私はこういう種類の述作をしたことがないので、順序の立て方、章節の分け方などに妥当を欠くものがあるかも知れないが、そういう点は、不馴れのためとして御諒恕を願いたい。

 私は、自分の長年の経験から割り出し、文章を作るのに最も必要な、そうして現代の口語文に最も欠けている根本の事項のみを主にして、この読本を書いた。その他の細かい点、修辞上の技巧などについては、学校でも教えるであろうし、類書も多いことであるから、ここには説かない。いわばこの書は、「われわれ日本人が日本語の文章を書く心得」を記したのである。

 なお、最初に企図した事柄は洩れなく述べたつもりであるが、ただ欲を言えば、枚数に制限されて引用文を節約したのが残念である。文章道に大切なのは理屈よりも実際であるから、一々例証を挙げて説明することができたならば、読者諸君の同感を得る上に、よほど助けになったに違いない。依って、他日機会があったらば、今度は引用文を主にした、この読本の補遺となるべきものを編述したいと思っている。

 昭和9年9月

「虫の季節」 向田 邦子

2016年02月12日 00時08分56秒 | エッセイ(模範)
 「虫の季節」 「霊長類ヒト科動物図鑑」より 向田 邦子 文藝春秋文庫 1984年

 器用貧乏なほうで融通の利くたちだから、どんな商売でも何とかやれると自惚れているが、ふたつだけは駄目である。
 ひとつはボタン屋である。
 生れつき整理整頓ということが出来ない性分で、特に、もとあったところへ戻して置くという単純なことが出来ない。
 耳掻きでも鋏でも、あとで戻しておけばいいや、というのでそのへんに突っ込んで置き、判らなくなってしまうのである。
 私がボタン屋の店員になったが最後あの気の遠くなるほど沢山の種類のボタンは、分類別の抽斗に戻らずバラバラになって、客に言われたボタンが出てこないに決まっている。
 もうひとつ、これこそ絶対に出来ないのはスパイである。
 ブン殴られたり蹴っとばされたりは、明治生れの父親に鍛えられているからかなり頑張れるほうだと思うが、峨と蝶々を押っつけられたらもう駄目である。
 ギャアと一声。国家の機密だろうと何だろうとジャンジャン洩らしてしまうに決まっている。
 蝉。とんぼ、毛虫、ゴキブリ。とにかく虫と名のつくものはみな駄目である。
 なにしろ本屋の書棚で「羽蟻のいる丘」という題名を見ただけで、北杜夫氏には何の恨みもないのだが、総毛立ってくるのだから、これからの季節は大変である。

 たしか五つか六つのときだった。
 季節も今時分、夏のさかりだったと思う。
 今でもその傾向があるのだが、私は寝起きにぼんやりする癖がある。そのときも、半分目をつぶったままという感じで洗面所にゆき、グブグブと音だけ立てて口をゆすぎ、目のところだけおしるしに水につけた。
 目をつぶったまま、くるりとうしろを向き、決まりの位置にかけてある自分のタオルを、タオル掛けからはずさず、そのまま顔を拭いた。
 何かが顔にあたった。
 いやにゴソゴソする。洗濯バサミにしてはやわらかい。
 タオルにくっついていたのは、キリギリスであった。
 私は大声を上げて泣き叫んだ。そばの小部屋の母の鏡台のところで、革砥で剃刀を砥いでいた父が飛んできた。
 キリギリスの肢が、細かいイガイガが生えているせいであろう、ピクピク動きながら私の眉のところに引っかかって取れない。ほっぺたのところにも、なにかくっついている。青臭い匂い。その気持の悪いといったらなかった。
 父も虫は嫌いなたちで、毛虫もつまめない人間だが、さすがに男親である。一世一代の勇気を振りしぼったのだろう、私の顔にくっついたキリギリスのなきがらを取ってくれた。
 尚も激しく泣き叫ぶ私を小突きながら、
「泣きたいのはキリギリスのほうだだろう。馬鹿!」
 とどなった。
 私の虫嫌いはますます本格的になった。

 ネズミを獲る猫をネコといい、蛇を獲ってくるのをヘコ、とんぼをつかまえるのがうまいのをトコという、と書いたのを読んだことがある。
 庭のある一戸建てに住んでいた時分に飼っていた黒猫は、スコであった。つまり雀獲りの名手なのである。
 霜が下りているような寒い朝でも、彼は植え込みのかげに腹這いになって雀を待った。
 三羽、五羽と芝生に下りてきて、羽虫をついばんでいる雀が、ひと安心した頃合いを狙って踊りかかるのである。滅多にハズしたことはなかったが、それでもたまにしくじることがある。
 雀が一瞬早く猫に気がつき、パッと飛び立ってしまうのである。こういう場合彼は、必ず同じ動作をした。
 その場で急にせわしなく毛づくろいをするのである。失敗したテレかくしかな、と思い、それにしてもしくじるたびに同じ動作をするので、面白半分に動物学の専門書を見つけて調べてみた。
「すり替えのエネルギー」というのであった。何かしようとするエネルギーが急に中止になった場合、もってゆき場がなくなる。そこで同じ程度のアクションをしてエネルギーを使って埋め合わせをするらしい。
 猫のおかげでひとつ利口になったわけだが、この雀専門のスコが、ヒルネをしている私のそばへ来てじゃれ、顔をなめて遊んでくれとせがんだ。
 いやになまぐさい。餌の魚でも食べてきたのかしら、とひょいと目を開けたら、私の顔のすぐ横に半分食べかけの蝉がころがっていた。
 私の叫び声は、子供の頃キリギリスで顔を拭いたときと同じだったに違いない。気がついたら、猫を二つ三つブン殴り、水風呂に入って体を洗っていた。雀専門のスコだと思っていたら、蝉もとるセコだったのである。

 車も持たず腕時計、電気洗濯機、ピアノ、夫、子供、別荘、なんにも持っていない私を可哀そうに思うのだろう、前はよく友達が自分の別荘に招いてくれた。
 はたから見ているといいようだが、別荘というのも自分で持ってみると、なかなか手のかかるものである。
 専従の管理人を置いておけば別だが、行ってみると、蜘蛛の巣が張っていたり、二、三日を人に貸したあとだと、炊飯器にご飯を残し忘れ、すさまじい青黴になっていたりする。アベックでも忍び込んだのか、サン・ルームの窓ガラスが割れ、落花狼藉、子供連れだったら、あわてて目隠しをしなくてはならないものが落ちていたりする。だが、私にとってそんなものはいいのである。
 困るのは虫である。
 どこから忍び込んだのか、天井の隅にはりついている蛾を、一匹残らず外へ追い出してもらわないと、ご不浄にもお風呂にも入れないのである。
 蛾がこわい、と金切り声をあげて似合う年でも柄でもないことは百も承知で、食事中、網戸の向こう側に灯を慕ってへばりついている蛾を指さし、
「あ、いま、あの蛾と目が合った」などと叫んだりする。
 とても面倒がみきれないというわけであろう、去年あたりから誰も声をかけてくれなくなってしまった。
 自業自得である。
 今年の夏は、虫がいないだけが取柄の四角いコンクリートの部屋で、テレビの脚本を書いて過ごすことにしよう。
 そんなわけで虫篇のつく字でただひとつ好きなのは「虹」という字だけなのである。

 原稿用紙 7枚と4行

「徒然草」 第155段 世に従はむ人

2016年02月10日 00時26分52秒 | 古典
 「徒然草」 吉田兼好 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 角川ソフィア文庫 2002年

 無常迅速ということ――世に従はむ人 第155段 (「清貧の思想」中野孝次の中で紹介)

 世の中の動きにうまく合わせようとするなら、何といっても時機を見逃さないことだ。事の順序が悪いと他人も耳を貸さないし、気持ちがかみ合わないので、やることがうまくいかない。何事にもふさわしい時機というものがあることを、心得ておく必要がある。ただし、発病や出産や死亡だけは時機を予測できず、事の順序が悪いからといって中止になるものでもない。

 この世は、万物が生じ、存続し、変化し、やがて滅びる、という四つの現象が絶えず移り変わるが、この真の大事はまるであふれんばかりの激流のようだ。一瞬もやむことはなく、この大事は実現・直進して行く。だから、仏道でも俗世でも必ずやりとげたいことがある場合は、時機をとやかく言う暇(いとま)はない。あれこれと準備時間を取ったり、途中で休んだりすることは禁物である。