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民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「ジョーク力養成講座」 その1 野内 良三

2015年07月19日 13時00分56秒 | 雑学知識
 「ジョーク力養成講座」 野内 良三  大修館書店 2006年

 ジョークの形式
 1、状況を設定する。→導入部
 2、思い込みを誘導する。→展開部
 3、意外性を目撃する。→落ち

 ジョーク集 その1

 ☆フランスのブロンド女性がベルギーへ行くと、どういう事態が出来(しゅったい)するか。

 ――両国の平均的知能指数がともに上がる。

 このジョークを理解するには二つのトポス(予備知識、暗黙の了解)が求められる。
 ・ブロンド女性は頭が空っぽである。
 ・ベルギー人は度しがたい愚か者である。

 ☆なぜユダヤ人の鼻はかくも立派なのか。
 ――空気がタダだからである。(トポス→ユダヤ人はどケチである)

 ☆電線を発明したのは誰か。
 ――1個の銅貨が地面に落ちているのを見つけた二人のユダヤ人である。(どちらのユダヤ人もコインを離そうとしなかったのでコインが細長く伸びた)

 ☆往来の真ん中で男が突然ぴょんぴょん跳ね出した。まわりに人だかりができた。
 ――どこかお加減が悪いんですか?
 ――いえね、今朝、水薬を飲んだときによくかき混ぜなかったのを急に思い出したもんだからね。

 ☆15キロ減量しなければと気づいたフランス人はどうするか。
 ――ダイエットに挑戦する。
 それではアメリカ人は?
 ――毎日欠かさずに食べに通ったハンバーガーショップを相手取って訴訟を起こす。


「不快との戦い」 杉浦 明平

2015年07月17日 01時03分58秒 | 健康・老いについて
 偽「最後の晩餐」 杉浦 明平  筑摩書房 1992年

 「不快との戦い」 P-228

 齢(よわい)七十五を過ぎれば、いま書いているものがすべて絶筆になるかもしれぬ。

 中略(書く気力がなくなった話をたらたら・・・)

 一つの仕事が終了すれば、一休みして、生気一新、また次の仕事に取りかかるはずなのに、それができぬのが「老い」のしるしなのだ。三枚や五枚のエッセーを依頼されると、そんなものくらい一、二時間もあればお茶の子さいさいと軽く承諾する。が、締め切りが切迫して原稿用紙に対すると、頭の内部にもやもやと霞が立ちこめて、一字一字を絞り出さなくてはならぬ。

 中略(腹が減ると機嫌が悪くなる話をたらたら・・・)

 はっきり言えば、一日一日が、老いという不快きわまるものとの肉体的精神的苦闘の連続だといってよい。
 そんなら早く首でも吊って死んでしまえばよいという向きもあろうが、やはりもう一度出直しのきかぬ命をそうむざむざ捨てる気はない。こちらがいくら拒否しても来るものは来ること、秦の始皇帝でさえまぬがれなかったではないか。こちらからわざわざ出迎えるまでもあるまい。
 そのうえ、今の世界が実に面白いのだ。わたし自身は、今や観客の一人にすぎぬが、中国、東欧をはじめ世界中のめまぐるしい変転、人間の栄枯盛衰など、からくり芝居以上。よくもわるくも、若いころ想像もできなかったほどすさまじく、愉快でたまらぬ。どのように相成るやら、もう十年か二十年ほど生きて、推移を見物していたいものである。(89年11月)

「立原道造詩集」 杉浦 明平

2015年07月15日 00時05分26秒 | エッセイ(模範)
 偽「最後の晩餐」 杉浦 明平  筑摩書房 1992年

 「立原道造詩集」 P-225

 もしも老人になったら、などと考えたことが一度もなかった。招かれざる客として老齢に迷い込んでしまったみたい。
 ただ老境に入れば、悠々として自然に親しんだり、人生を達観したりするものだと、漠然と思っていないでもなかった。もっともそんな心境になったとしたら、長生きしても、くそ面白くないだろうなあとも。
 そしていま一挙にして老境に入ってみると、老人の心境を讃えるといわないまでも、肯定するような辞句は、まったく老人の心理も体も知らぬいい加減、でたらめであると知った。悠然ではなく、精神的、肉体的反応が鈍化して、万事につけて鈍くさくなったにすぎない。
 小さなどぶ川を跳び越えたつもりだったのに、気がついたら泥水に足がはまっていたり、ちょっとした舗道のくぼみにつまずいて、ぱったり倒れそうなほどよろめいたり、耳は遠くなり、目はかすみ、嗅覚は衰えて、花の香りもうなぎ丼のにおいも縁遠くなった。骨も硬化して首を四十五度以上回すことが困難で、歩道を歩いている際でも、後ろから疾走してきた自転車に気がつかず、危うく追突されかかったり、ろくなことは起こらない。

 後略(胃を切った後、立原道造詩集の編集をどうにか終えた話をたらたら・・・)

 

「老いの嘆き」 杉浦 明平

2015年07月13日 00時08分01秒 | 健康・老いについて
 偽「最後の晩餐」 杉浦 明平  筑摩書房 1992年

 「老いの嘆き」 P-219

 年を取るというのは、まことにいやなこと、不愉快極まることである。老境に安んじるなどというのは、老人になったことのない五、六十代の空想か、もしくは特別強壮に造られたごく少数者のたわごとにすぎない。

 中略(七十一の年に胃を切ってからの体力の低下をたらたら・・・)

 その他の時間は、脳細胞の老衰硬化の進行のせいか、面倒臭くてたまらず、かつ茫々漠々として、苦痛と困難が伴うのを避けがたい。年とともに記憶力、集中力、持久力が失われてしまったゆえに、まとまった文章を書き綴るのにいたく苦しまなくてはならぬのである。何か一つのテーマで書きはじめても、たちまち脇道にそれ、さらにもっと違った細路に迷いこみ、延々とめどない長話となってしまう。同じ年ごろの仲間が老いの繰り言を続けていると、傍らで聞いているといらいらするが、わたしじしんも同じことじゃないかと気がつくにつけて、年は取りたくないものだと思う。(88年・秋)

「老いの悲しみ」 杉浦 明平

2015年07月11日 09時47分38秒 | 健康・老いについて
 偽「最後の晩餐」 杉浦 明平  筑摩書房 1992年

 「老いの悲しみ」 P-215

 年はとりたくないものだなあと、自分でもときどき思う。一むかし前モリエールの喜劇を読んだとき、登場する老人が、頭痛、腹痛、めまい、リュウマチなど体じゅうの苦痛を訴えるのを読んで、喜劇だから誇張して笑わせようとしているのだと思ったことを今でもおぼえている。が、自分が七十に近くなってみると、じっさいいつも体のどこかに故障がおこっていたり、痛みやかゆみに悩まされたりして、モリエールのじいさんがブツブツこぼしたのはお芝居ではなく、リアリズムそのものであると痛感しないわけにはゆかなかった。

 中略(体のあちこちにガタがきていることをたらたら・・・)

 それでもわたしは、医者の忠告に従って、坊さんのような精進生活をしようとは一度も思わなかったし、今も思わない。うまい酒を飲み、うまいものを食べられるなら、一晩や二晩、痒くて眠れなくてもけっこうというのが本音なのである。が、そのように、痒さを辛抱することによって、酒を飲み牛や豚や鳥を食べねばならぬということじしん、情けない話ではないか。年をとるということは、けっして安らかな老いを迎えるなどというのんきなことではなく、一種の残酷物語の主人公になることなのである。(83年5月)