民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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「気のすすまぬことはやらぬだけ」 中野 孝次

2015年07月05日 00時30分45秒 | 健康・老いについて
 「人生のこみち」 中野 孝次  文藝春秋 1995年

 「気のすすまぬことはやらぬだけ」 P-213

 近頃わたしはますます、亡き尾崎一雄先生の、「気のすすまぬことはやらぬだけ」という言葉を、これこそ老年の生き方の金科玉条と思うようになった。この言葉はずっと昔、ある文学全集の尾崎一雄の巻の解説で本多秋五氏が取りあげ、実に精妙な表現と絶賛しているのを読んで以来頭に残っているのだが、その本当の意味がわかったのは自分が齢をとってからだった。
 老いるとエネルギーの許容範囲が狭くなる。若い時分ならふだんの自分の習慣を破って無理をしても、すぐまた回復することが出来るが、老体となるとその無理がきかない。無理をするとてきめんにその罰が下って、からだ全体にガタが来る。
 老人としてはまだトバ口にいるわたしなどもハタから見たらおかしいような日常生活を頑固に守っていて、夜は八時には寝る、テレビは見ない、夜のパーティや会合には一切出席しない、冠婚葬祭は能うかぎり出ないという、世を絶った隠者のようなくらしをし、たまにそれを破るとすぐ体調、というより生命全体のリズムに狂いが生じるのである。われながら情けないようだが、それが事実だから受け入れるしかないのだ。
 
 中略

 老年を生きるとは、ある意味では義理を欠くことにつきるのではないかという気さえする。ともかく、人はエゴイズムと言わば言え、自分の生のリズム本位にして、それを大事にしてゆかないとわたしの場合は生きてゆけないのである。
 これはしかし、同時に多くの諦念を余儀なくされることでもあって、若い頃のように欲することは何でもやるという流儀が出来なくなるのだから、情けないといえばまことに情けない。

 中略

 そしてわたしは、齢をとってもそのことを認めようとせず、依然として若い時と同じように、セックスでもスポーツでもジョギングでも何でもはげんでいるような人を見ると、そんなムリをしてどこがいいんだと、なにやら哀れを催すような気にさせられる。アメリカの老人が年甲斐もなく若造りをして、しなびた肉体を派手に着飾っているのを見ると、何よりまず醜いと感じるほうである。齢をとるのを拒否するように、老年になってビフテキを毎日食って精ををつけたり、何とか精力剤を服用している人を見ると、浅ましいと思わずにはいられない。それにくらべたら、齢相応という美意識のある日本の老年のほうが、どんなに上等かもしれないと思う。

 中略

 老年になったら、悲哀をともなおうと何だろうと、自分は老いたのだという事実をしっかりと認めなければならない、と、だからわたしは自分は絶えず言い聞かせている。老いの先にあるのは死である。死が近くにある自分の今をたしかにそうと認識することにこそ、老年の生があるのだと信じている。いつまでも若ぶっているような人はかえって、老年の幸福を自ら拒んでいるとしか思えないのである。